57.世界に必要なこと

 私は湖面から、顔を出す。

 それから、静かに橋の下へと泳いだ。今さっき飛び込んだ時に立っていた橋の橋脚に隠れるようにして身を寄せると、葵を仰向けにして呼吸が出来るようにした。

 葵は少し人にもどっていたけれど、残った翅が水を吸っていて重い。一方、私は軽々と葵を抱き上げて泳いでいる。


「葵、葵! 起きて! 大丈夫?」


 私は、葵を揺する。すると葵はゴホゴホと咳き込んで水を吐いた。 うっすらと目をあける葵。


「深?」

「そうだよ」


 それから目を見開く、ちょっと驚いている。


「深なの?」


 私の全身には鱗がびっしりと生えていた。湖面の下を覗くと私の全身が見える。ワンピースの下から生えた鱗まみれの手足、身体、そして尻尾。顔は人の形をとりながらも、全体としてはでっぷりとした竜だった。──そっか、変異促進剤アクティベーターを取り込んだから、私は竜になってしまったんだ。


「私も化物なの」 


 私はちょっと自虐的に笑う。


「……驚いた、なんていうか綺麗な色をした鱗だな」


 たしかに、濡れた鱗は翡翠みたいにキラキラしていた。てか、褒めるとこそこ?


「でもせっかくのワンピースが台無しだね」


 私は泣きそうになる。身体がすこし大きくなったせいで、ワンピースが破けている。私は、葵を岸に引き上げる。


「蜃……だよね?」

「うん……知ってるの?」

「蜃気楼を生み出す中国の化物で、巨大な蛤ともいわれているし、竜とも言われている。両親は蛇と雉でその子供が蜃となる。蜃気楼っていうのは、城のことね」


 葵は私よりも私に詳しいようだった。


「そうなの?」

「調べた」

「なんで言わないの?」

「巻き込みたくないから」

「でも巻き込まれちゃったじゃない」


 私はすこし拗ねたようにいう。葵が笑う。


「実は、巻き込まれたのは僕かもしれない」

「?」

「蜃がつくる幻の楼閣は、それは屋根に、燕の巣をつくらせて捉えて食べるためだと言われているんだ」

「え、燕に?」

「ぼくはムラサキツバメの蝶だからね、蜃の幻に捕まったんだ」


 私は、がっしりと葵を抱えている自分が急に恥ずかしくなった。


「……そういう冗談やめてくれる?」

「中国の言い伝えだから、僕の冗談じゃない」

「食べないから」


 たぶんね。

 私がそう応えると、葵は笑った。


「それで、僕が僕にもどっているってことは邪魔されちゃったんだよね?」

「……」


 私は、複雑な表情で葵を見た。 


「おばあちゃんの差し金か、初期化剤イニシャライザーをつかったんだね」

「ごめん」

「じゃましてくれたよね」


 葵はすこし疲れた様子で非難を込めて言った。


「だって、そうしないと止められないじゃない」

「深のせいで、僕はおじいちゃんの夢を叶えられず、研究は両親にうばわれちゃうんだね」


 葵はわざとらしく言った。


「そういう言い方はずるくない? まるで原因を私みたいに」


 すると、葵はちょっと悲しげな表情になる。


「そうだね、まあ自業自得かな」


 それから、何かをあきらめたように、湖の水を掻く。


「プログラムの仕方を両親にバラしたのは僕なんだ」

「えっ」

「おばあちゃんは知らないんだけど、一年ほど前に両親が僕に復縁を持ちかけてきて、僕は父と母に会っているんだ。それで再会の懐かしさもあって、家族だからって、おじいちゃんの研究を持ち出して渡したんだよ」

「……」

「だけど、その使い方について意見があわなくてね、結局仲違いしちゃって、僕は両親より先に目的を達成させなきゃって、動いてたんだ……だから自業自得」


 私は想像した。両親から声をかけられて、初めてぎこちないながらも心を開いた葵──そして、思いの外、まだ親であった両親にあれこれ言われて困惑する葵。必ずしも悪い意味で葵に研究を持ち出させたわけではないかも知れない。

 ただ、それも憶測でしか無いけれど。


 私は湖の対岸を見る。

 陸の上では、特殊保安官ネイティブガーダーや警察が怪人結社と散発的な衝突している。橋の上では、望海先輩が特殊保安官ネイティブガーダーと容赦のない闘いをしている。そこへ静子のつくったクジラの幻影があらわれて、岸一面に魚の幻影を叩きつけた。


 混乱する現場、とびちる魚のまぼろし。暴れる怪人たち。カオスな光景が広がっていた。

 橋の上から声が聞こえた。


「いたぞ! 蝶の子だ! それと他の怪人もいる!」

「ボートだ!ボートもってこい!」


 見つかってしまった。

 警官の何名かが、私と葵を指さして、対岸にボートの手配をはじめる。

 望海先輩が橋の下を一瞬覗き込んだのが見えた。私たちのことを気にしているのだろう。しかし葵は翅が水を吸って思うように動けない。

 さてどうしようか?


「深はさ、どんな未来を願ったの?」

「え?」


 葵は突然何をいいだすのか?


初期化剤イニシャライザーを使ったってことは、変異促進剤アクティベーターのプログラムを上書きできるってことだ。トリガーは深だよね? 何を上書いたの?」

「……やったのはプログラムの無効化だけど。あたしが水に一緒に入れば無効化できるって、亜子さんが」


 泳ぎながら、葵は変な顔をした。


「無効化なんてできないよ」

「え? 初期化剤イニシャライザーにそういうのをプログラムしたって、亜子さんが言ってたけど……?」


 葵は私の返事を聞いて笑った。


「たぶん騙されたね、初期化剤イニシャライザーにそんなことはできない。ただリセットするのみだよ」


 ということは、どういうこと?


「深が初期化剤イニシャライザーを使った時に願った内容が変異促進剤アクティベーターの基礎プログラムになる、君の身体を媒体にして、それは実行される。だからさ僕の代わりに何をいったい願ったんだい?」


 願いが広がる? ──私は思い返す。私は何を考えていたっけ?葵を抱き上げて、口づけをして。思い出して顔が赤くなる。


「どうしたの」

「いやその……世界がもっと愛で満たされたらいいとか……そういう感じのやつ」

「えっ」


 葵は目を丸くした。それから吹き出す。


「なんで笑うの!」

「深、君はすごいよ。ほら、変異促進剤アクティベーターのプログラムが発動する。そんな願いは、あまりにも曖昧だから、どこまで効果が出るかわからないけどね」


 私は驚く。


 湖面が再び七色に光り始めた。

 それは優しい輝きを放って、湖全体に行き渡る。輝きは上流や、ダムの少ない放流にもつたわって、そこから爆発的に川に広がる。見ていた多くの人たちが、警察が、怪人たちが、特殊保安官ネイティブガーダーが、その動きを止めた。


 そういえば、蜃は蜃気楼をつくる。その蜃気楼は、蜃の吐く息が生み出す幻で、時に人の願望を映すのだという。

 私の吐く願いは幻だろうか?


 私は、湖で抱きかかえる葵を再度強く抱きしめる。葵のぬくもりや重さを感じている。それは幻ではない。やがて湖につながるすべての支流が七色に染まり、広がっていく。

 私の願いは、湖面から川をつたい、海に流れ出て、きっと世界を満たすだろう。

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