50.初期化剤
その部屋はあまり使われていないらしく、ほとんどの器具にはうっすらとホコリがかぶっていた。
「私もね、昔研究者だったのよ。それで夫を支えてたの」
「でも、私が足を悪くしてからは、夫は一人で研究をしなければいけなくなった」
戸棚のガラス戸をあける。中から小瓶を取り出す。瓶の形が、葵の持っていた
「葵が持っていた薬、どんな作用をもっているか聞いた?」
「プログラムをして、人の変異をコントロールできるとか。PPS細胞とプラントとかなんとかをつかって、変異因子保持者の変異を促進させるって言ってました」
「そのとおり。でも世に出回る多くはコピー品だからね、単なる
「
「……本当に集めたのね」
「はい」
葵の言葉を信じるのならば、
「葵は、夫が亡くなった頃から、いつか夫の意思をつぐんだって言っていたのよ。だから、いずれ大学を出て研究所に入って、夫の薬の最適化を図って、世の普及と振興に努めるものだと思っていた。でも違うのね?」
「集めた薬をダム湖で増やして、そこから世界に撒くといっていました。そんな事できるんですか?」
「できちゃうわ」
「……できちゃうんですね」
それから亜子さんが私に問いかける。
「……深ちゃんは、それを聞いてどう思ったの?」
「……私ですか? ……私は、なんていうか、そういうの危ないと言うか良くないって言いました」
「どう良くないの?」
なにか、亜子さんが先生のように感じられてきた。
「どう……良くないかでいうと、その……自然な営みの中に、人為的な介入をして、物事をかえてしまうことが、良くない気がしたんです」
「そうね。でも、葵を救った夫の薬も厳密には、自然の営みを無視した振る舞いよね」
「そうですね……だから……なんていうか、行為とか程度の話ではなくて」
私は混乱を経て、思考を整理する。それから答えを返した。
「考えようによっては、人為的な介入ですら、自然の営みかもしれません。もし葵がそういう事をして環境を変えてしまっても、地球とか宇宙でみたら、それも自然現象でしかないかもしれません。ただ、私は葵がそれをやることが嫌なんです。それは何故かと言うと、葵はもちろん、亜子さんとか、私とか、亡くなったおじいさんとか、ご両親とかの立場や関係が、取り返しのつかないほど壊れてしまうかもしれない、ということを危惧しているんだと思います。それもたぶん悲しい方向で取り返しがつかない事になるんじゃないかって」
「深ちゃん、けっこう頭やわらかいのね、学者とか研究とかむいているんじゃないかしら?」
「……そうですか?」
亜子さんはフフフと笑った。
「私も、まあ環境とかには、あまり積極的な介入はしたくない方ね。夫や葵とちがって、いろいろ変わると面倒でしょ?」
「そう……ですね」
面倒くさい、は私にとって一番わかり易い同意のポイントだ。亜子さんは棚を漁ると別の薬を取り出す。
「これ使いましょうか。私はこれを
「……リセット?」
「つまり、これを湖に投げ入れれば、葵の目論見は邪魔出来てしまうの」
「……え、そんな薬もあるんですか?」
亜子さんは笑った。
「そのまま無効化まで出来るわけじゃないからね、ちょっとアレンジが必要だけど」
「アレンジ?」
「もし
亜子さんは、言いながらテーブルの上のノートPCや電極に繋がれたシャーレ、いくつかの薬品の小瓶等を指し示した。
「でも他にも一つだけ方法があるの。それは
何処かで聞いたような?
「あ……」
それは、葵が静子にやったやり方だ。静子は、そうやって人に戻ってきた。そうか、あれは
「でも葵の話だと、
「だから、あなたを
「え」
亜子さんはパソコンを立ち上げ、薬剤をジャーレに入れる。電極を薬剤に垂らして、なにやら他の液体をピペットで追加する。
「深ちゃん、髪の毛一本もらえる?」
「え、あはい」
私は、髪を一本抜く。亜子さんは、それをシャーレに入れると、機材をいじって電流を流す。
「……何をしたんですか?」
なにか少し焦げたような匂いがした後で、亜子さんはシャーレを取り上げると中の薬剤を別の小瓶に移し入れた。
「この培養した
「私の……身体を?……入れるだけでいいんですか?」
「ええ、深ちゃんが、発動のキーになっているの。今言ったような順序でやれば、
「……良くわからないんですけど、そんな事できるんですね」
率直に、理系むりだな、と思った。
私は、
「あら、ちょっと手順が気に入らない?」
「いえ、そんなことは……」
「他のやり方がご希望なら……そうね、先に触れてから投入しても効果が発揮するわよ。でもそれだと、ちょっと刺激が強いのよね」
「え、刺激?」
「肌とかに原液のままかけるととってもスースーするの。ミントみたいに。ちょっと舐めてみる?」
「え、いや……いいです」
「口にしても大丈夫なものよ? 飲んだって良いわよ」
私は亜子さんの謎のゴリ押しに困惑した。そんな謎な薬、飲む気になれない──いや、葵の謎水は飲んだな私。そしてふと理解する。ああ、亜子さんってようするに、マッド・サイエンティストの気があるんだ。
亜子さんは、私の怖がる様子にちょっと微笑んだ後で話を続ける。
「それと、そもそも深ちゃんが
「? ……はい」
「あの子が、本当は何を考えているのか、何故そうしたのか、私にはもう聞けないから、深ちゃんが聞いて、決めてちょうだい」
亜子さんは、自分の弱った足を見て言った。
「深ちゃんは、葵を想い、葵に会って何かをしてあげたいと考えているんでしょう?」
「……そうです」
「なら好きにやってみなさいな、私は応援しています」
「わかりました」
たぶん、亜子さんは、本当は自分で行きたいのだろう。心配しない訳がない。私は、その様子に胸が締め付けられて、思わず亜子さんの手をとった。
「亜子さん、私行ってきます。葵に会いに。そしてかならここに連れ戻してきます」
「……そう、なら私は、お茶をいれて待っているわ」
そうして、私は浅葉家を離れた。
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