38.太古の海と空飛ぶクジラ

 葵が解説を続ける。


変異者ヴァリアントの素養っていうのは、因子の有る無しはもちろんだけど、もう一つの影響として、本人自身の強いストレスや願望というのもある。自らの想いをきっかけに自身の姿を変えるんだ。静子ちゃんは、いろんなストレスの結果としてクジラになることを望んで、それを薬が後押しした状態にある」

「……うん」


 それは、授業とかでなんとなく習っている。


「僕が蝶になるのは、ようは蝶にならなきゃと思うからで、人に戻るのは人である生活に戻りたいからなんだ。俺はあの標本だらけの家に戻りたいと願っていて、そうしていつも蝶から人にもどるの。で、ここでこの薬。これを投与するとうまい事そういうのを後押ししてくれます」


 葵は、ボディバッグから取り出したアンプルを一つ私に見せた。普通に病院等で扱ってそうなアンプル。


「……え、なんでそんなのもってるの? てか何の薬なの?」

「この薬は、以前初めて会った時に君が飲んだ水の原液で、変異者に投与することで、変異をリセットして再生成を促すことができる」


 葵はアンプルを振って薬液を撹拌している。


「いまから彼女の変異特性をリセットする。そしてなりたいものを選ばせるんだ。君は静子の親友なんだろ? だったら、君が彼女を強く呼べば、彼女は人になって帰ってくる」


 葵は言いながら、枕元の医薬品ラックを漁ると、脱脂綿とアルコールを手にする。続いて、静子のクジラみたいな質感になった腕を見た。

 そして、さらに自身のポーチ注射器を取り出した。


「ちょっと、まってよ……葵お医者さんじゃないでしょ、なんでそんなことまでするのよ! 何でそんなモノ持ってるのよ」


 私は、あわてて葵の腕を掴んで止めた。


「経口投与じゃ間に合わないんだよ。じゃあこのまま帰る? 辞めてもいいけど」


 理解が追いついていない。

 葵は、私の知らないことを知っていて、静子の助け方に確信があるようだった。傍らでは、クジラの姿になった静子が寝息をたてている。


 その呼吸はか細い。


 私たちは、そんな判断をしてしまっていいのだろうか?

 私は枕元におかれた写真を見る。ゴーホームズの仲間たちの写真。静子は、私たちといる事が楽しいと思っている。

 ならば葵の言う通り戻ってくるのだろうか?


 私は、葵を見る。

 澄んだ真っ直ぐな目。人を見る目には自信がある。彼は、少なからずここでは何かをやらかす人ではないと思えた。


 ここでは? 他では、何かやらかすタイプ?


 ──でも、今はそれを考えている時ではない。私は静子を見て言った。


「わかった、やって……」


 静子は私の親友だ。

 静子がクジラなら私ははまぐりだ。水モノだから相性が良いのだ。ならば、手放す訳にはいかない。


 葵はすこし微笑むと、アンプルを折って注射器で薬液を吸い出す。そしてそれを静子の腕に慣れた手付きで刺した。

 薬を投与すると、針を抜いて腕を抑える。というか、イルカ状の静子の腕の血管の位置がわかるのも凄いと思った。葵は、静子の止血をすると、アンプルや注射器をひとまとめにして自身のザックにしまった。

 それから、立ち上がると、ボディバッグを身体にくくりつける。すると、前後して静子に繋がれた医療機器が激しくアラームを鳴らし始める。


「ちょっ、これどうなって──」

「大丈夫、枷がはずれただけだよ! さ行くよ!」

「えっ、えっ」


 葵が私の腕を引く。そこへ、別室で待機していた白衣の男たちが入ってくる。


「あっ!」

「あんたたち何をしているんだ」


 葵は男たちを無視してベランダに私を連れ出すと、私を抱えて飛び立った。

 振り返ると静子の部屋から海水と魚が溢れ出す幻がみえた。花井邸の窓から、ものすごい濁流が吹き出している。あたりに海が満たされ、あっというまに世界が海に変わる。海面が上昇してくる。

 遠く離れた場所で、ずっと回遊していた一頭のクジラが楽しげに泳いでいるのが見えた。


「葵!どうするの! 何が起きてるの!」

「さっきさ、クジラ飛んでるっていったよね?」

「うん!」

「そっちが本体だよ! それが静子ちゃんの心! 次は今からそれを深に説得してもらう!」


 ええっ、そんな話だっけ? ── 私は、あたりを見回す。楽しそうに街の上空を回遊するクジラを見つけた。


「そういうのは先に言ってよね!」

「僕には見えないから教えて」


 私は大きくうなずいて、指さす。葵は、翅をはためかせて、クジラのいる方角に向かった。


「高いところは平気?」

「何で、今更そんな事きくの!」

「じゃあ、あそこに行くから!!」


 葵は、クジラが回遊する直ぐ側にそびえる、地域で一番高い高層マンションを目指す。大きく羽ばたいて、ぐんぐん高度をあげると、その屋上にふわりと着地した。

 

 クジラは悠々と泳いでいる。あたりには海洋生物が溢れている。そういえば、以前静子が、首都圏の大部分は五千万年前は海だったと言っていたのを思い出した。その証拠に、内陸でクジラの化石が見つかったのだという。

 ならば、今目の前に広がる光景は、静子の願いも相まって、それに近いものかもしれない。


 私は静子に、何故そんなものが好きなのだと訪ねると、長い年月でいろんな生き物の命が連なっている感じがたまらないんだと言った。──静子は、いまクジラになってそれを楽しんでるのかもしれない。そこから、どうやって呼び戻せばいいのだろう?


「飲む?」


 同じように屋上に降り立った葵がペットボトルの水を飲んでいた。


「それはなんの薬?」

「以前、深が飲んだのと同じヤツ。変異の力を安定させる薬。深を抱えたまま墜落とかできないしね」


 そう言って葵は美味しそうに水を飲んだ。

 そういえば雨もあがって、また蒸し暑くなってきていた。私は手を伸ばすと、葵からペットボトルを受取る。

 一口、二口飲む。味はただの水だ。

 私は静子を助けるのだ。そしてそのためにははまぐりになって、静子と同じ海に飛び込んで、そばに行って説得するのだ。

 そのために何か力が得られるのなら、強くしたい。


 そう思いながら、残りの水を全部のみほして、ペットボトルを葵に突き返した。

 葵が驚いている。私は口元を拭う。そして、改めてクジラの姿になっている静子を見る。

 すると、静子を中心に、すべての町並みが海の底の景色がまじったものへと変化をはじめた。

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