36.幻想のなかの邸宅

 私は花井邸の玄関に立つと、前回と同じように呼び鈴を押した。──しかし反応がない。

 駐車場につながる格子状のシャッターの隙間からから敷地内の建物を見る。みな出かけているのだろうか?


「……」


 私は、建物をじっと見る。

 そこには、少なくとも静子はちゃんといるように感じられた。というか、上空のクジラは静子自身か、あるいは静子の化身かもしれない。ただ、クジラは実体ではないので、時折透けて見えた。


「どうしよう」


 ここまで来たのだから、静子の安否を確認したかった。

勝手に侵入するにしても、見上げる塀は高くて、私にはそんな事が出来るとも思えなかった。

 二階の角部屋に静子がいるはずだ。


「見えないかな……?」


 幻の海が見えて、皆の過去や現在がたまに幻視できるのだから、静子の部屋だってみえるんじゃないか?

 私はそんな事を考えて集中する。いままで意識して何かを見ることができたことはない。けど、今はなんとしても見ないといけないと想っていた。


 静かに降る雨のしたで、傘をさして棒立ちになった女が、ずっと花井邸の建物を見つめている、はたから見ればおかしな光景じゃなかろうか?

 時折車も通るし、通行人だっているのだ。

 そう思うと、ちょっと気恥ずかしくなって、私は傘で、通行人に表情が見えないようにと隠す。


 すると、ベッドに横たわる静子が見えた気がした。

 集中どころか、雑念のただ中で目的のものが見られるようになるとか、この能力、ほんと基準がわからない。そう思いながら、意識を静子に向ける。

 ベッドの上の静子は、人の形をしていながら、四肢はイルカやクジラのようになっている。昨日会った時よりも明らかに変異は進んでいた。そうして、ずっと昏睡状態にあって寝息を立てていた。


 さらに、その周りには複数の医療機器が設置されている。

 隣の部屋には、白衣の人員が数名いて、静子をずっと監視している。病院にも行かず、静子は自宅で治療をうけているようだった。静子も家族も、ずっと家にいたのだ。たぶん玄関の私を監視カメラかなにかで見て、出ないよう判断したのだろう。

 その時、上空で泳ぐクジラが跳ねる。すると、静子の容態がすこし悪化したように見えた。


「……!」


 私は落ち着きがなくなって、ふたたび玄関前をウロウロする。


 今見ているものはリアルタイムだろうか?

 あれが、本当に今起きている出来事なら、どうすれば救けられるのか?


 ふと空を見上げると、上空のクジラは、花井邸を離れてどこかへ行ってしまう。やがて花井邸の内部はまた見えなくなってしまった。


「……」


 私は無力だ。

 なにも出来ることがない。日もくれ始めていたから、私はやや諦め気味になって、その場を離れた。

 小雨の中、自転車を押す。傘が煩わしくて、折りたたんでハンドルにひっかけた。雨はだんだんと私の服に染みてくる。通行人が私を訝しげに見ていた。しかし無力感に心を満たされていた私には、はそんな目線などもどうでもいいと思えた。


「さすがに、夏場でも風邪をひくんじゃないかな」


 突然、知った声が耳に入ってきた。葵だった。


「……あ」

「元気ないね? 連絡もらったから来てみたんだけど、ひょっとして遅かった?」


 私は、安堵からこみ上げる感情を押さえつけて訴えた。


「……遅いよ! なんですぐ連絡くれないの!」

「ごめん、ちょっと用事があって……それで、どうしたの? 何があったの?」


 私は、優しく尋ねる葵に、状況を説明しようと口を開きかける。しかし、葵は遮って言った。


「まって、そのままじゃアレだから、あそこに入ろう」


 葵が指さす先には、イートインスペースが併設されたコンビニがあった。


 * * *


 葵は私にタオルとココアをおごってくれた。

 私はタオルで雨を拭った後で、クーラーのきいた店内で葵のおごってくれたココアを呑みながら話をした。葵は、私から聞いた話を反芻するように口に出して言った。


「……透視みたいな事が起きて? 壁の向こうや過去や未来が見えて? そして今度は友達の化身らしきクジラが空を飛ぶ……と」


 それから葵は、私がクジラを見たと伝えた方角をじっと見る。

 ついさっきまで、花井邸の上を飛んでいたクジラは、いまは市街地を優雅に回遊している。


「やっぱり見えない?」

「うん、なにも」


 そのクジラは、私にしか見えていないようだった。


「じゃあ、信じてもらえない?」

「いや、そんなことはないよ。ものすごくリアルだし、臨場感あるし……嘘をついてるとも思えない。……俺だってこんななんだから、ただ疑うのも違うでしょ」


 葵は、自身の顔でうごめく蝶の模様の痣を指さした。


「それで……さっき私が透視したかもしれない静子が、ほんとうに今の静子だとしたら、あたしはどうすればいいと思う?」


 そもそも、私が見た静子の姿も、本当かどうかわからない。空を飛ぶあれが静子に関連しているかどうかも、確証はない。全部が全部、まったくの妄想かもしれない。我ながら、漠然とした相談をしていると思った。

 けれど葵はちゃんと答えを返してくれた。


「何が起こってるかは、流石に僕もわからないけど、深にだけ見えるってことは、やっぱり深は特別な力があるんだろうね」


 ああ、薬の話を忘れいた。それから、望海先輩や、土浦くん、芽衣らの秘密を幻視した話もまだしていなかった。


「それとさ、もう一つ……深にとって、その静子ちゃんも特別な存在なのかもしれないね」


 静子ちゃん、と言われて、ちょっと私は嫉妬した。ただ、今はそれどころじゃない。


「特別?」

「うん……だから見えたんじゃない?」

「理屈がわからないよ」

「うーん、そうだね。でもまあ、この世界は理屈の通らないことばっかりだしさ、そういうもんだと思うしかないじゃない」


 葵の説明は、なんだか少し雑な物言いになってきたような気がした。

 私は、眉間に皺を寄せて頭を抱えた。この際理屈はどうでもいい。問題は、何か出来ることがあるのか──。


「それで、連絡があったんでしょ? 無言とはいえ」

「うん」

「じゃあもう直接、忍び込んで会ってみるのがいいんじゃない?」


 葵は最後の最後で予想外の提案をしてきた。


「え、直接って?」

「因果は観測しないと確証が得られないわけだからさ、行くんだよ、その静子ちゃんの部屋に、直接」

「……でも、入れないんだよ? 静子の家族も誰も出てこないし入れてくれない」

「入れるよ」


 彼の顔で蝶の模様の痣がうごめく。私は、葵の言わんとする所を理解した。葵が私を連れて忍び込む気なのだ。

 私は尋ねる。


「……それで、会えたとして……どうすればいいと思う? 透視したとおり、静子がクジラに変異していたらどうすればいい?」

「変異っていうのはさ、ようするに状況がその人物の在り方に強く影響を及ぼした時に発症するんだ。ぼくが蝶なのも、君がはまぐりなのも、静子ちゃんがクジラなのも、かならず理由がある」

「……それは、うん」


 高校の授業で習う、生体変異生化学の基本的な話だ。変異者ヴァリアントの発症は内外の心理的肉体的影響によって起こる。


「それで、聞いている限りだと、深は、たぶん遠見の力があるから、会えば状況も解決方法もわかるんじゃない?」

「‥…とおみ?」

「遠くの物や、未来や過去や、今起きてる事を見る力だよ」

「……あたしの幻視って、そういう力なのかな?」


 確かに私が他者の幻を見るのは、幻視というより遠見の方がただしいのかもしれない。──そして、しばし考え込る。直接会うことは、悪い提案ではないと思えてきた。


「雑なアイディアだよね」


 私は素朴に感想を口にした。


「駄目かなあ?」


 ただ、今私に何か選択肢があるわけでもなかった。静子に何かあるのは間違いない。なら会うしかない。


「……でも私、会えるなら会いたい」


 私は、葵の提案に同意した。

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