35.深海の不安
翌日、私は学校へ行くと、例によって芽衣や土浦くんらと昼食を共にする。そして、静子の病状を芽衣らに伝えた。
ただし、その症状については軽く嘘をついた。
「ウィルス性の風邪らしくてさー、お腹とか壊してて大変なんだってさ」
「へー」
「じゃあ暫くは私たちだけで切り盛りするしかないですね」
もちろん、静子にも嘘を伝える話しは連絡していて、口裏をあわせている。
「そうだね、それでそっちはどんな感じ?」
「どっちの嫌がらせの件ですか?」
「どっちも」
「……正直、手の打ちようがないですね。パトロールも勧誘も、するなと言われたら僕らはお手上げです」
「ほんと腹立たしいです」
芽衣が、プリプリと怒っている。対して、土浦くんは落ち着いているようだった。
私的には、たかだが学生が無理をして危ないことをする必要なんて無いと思っている。引き続き様子見、ということで、私たちは昼休みを終え、私は午後の授業に向かった。
その日の午後の授業は、選択科目だったので教室を移動する必要があった。
私は、自分のクラスのある校舎から隣の校舎へと移動をする。途中、渡り廊下で空を見上げると、今にも雨が降り出しそうになっていた。
私は、ふと立ち止まる。──遠くの空を何かが飛んでいる。それは、昨日静子の家で見たクジラだった。
「……あ」
急に立ち止まった私を、クラスメートが訝しげに見ている。
「いや、ちょっと立ちくらみしちゃって」
「……大丈夫?」
「うん、ちょっと休んで、行けそうだったら行くから。来なかったら保健室行ったって先生に伝えてもらっていいかな?」
「え、うん」
こう言うとき、クラスメートとさほど親しくない事が良い方に働く。
なまじ親しかったら、一緒に残るとか、先生呼んでくるとか言い出すだろう。クラスメートは心配そうな表情で、先に行ってしまう。私は、改めて遠くの空を見上げる。そのクジラは、一匹だけで悠々と泳いでいた。周辺にはクジラ以外の海洋生物も見える。というか、振り向けば、私のすぐそばにも、魚が泳いでいるのが見え始めた。
「……これ、ちょっとヤバイんじゃないの?」
それは、普段見るいつもの幻の域を超えていた。
とかく妄想癖がある私ではあったけれど、ついに私は、眼の前の空間にまで幻覚を見るようになったのか。──今までの見え方だと、イメージが頭の中に広がる感じだったのだけれど、今回は現実世界を侵食している。
私は手を伸ばして魚に触れようとする。すると魚はスッと身をかわしていってしまう。一瞬指先が届いたように見えたけれど、すり抜けてなんの感触もなかった。
私は、校舎の物陰にかくれると携帯電話を取り出す。葵にメッセージを送る。
『深です。葵にちょっと急な相談があります。実は今朝から、薬のせいかどうかわからないけど、日常的に幻覚を見るようになりました』
流石に学内であるから、既読もつかずなんの返信もなかった。私は、結局授業に向かった。
* * *
「えー、このようにエピクロス派は苦痛のない平安な状態であるアタラクシアを手に入れることが重要であり、争いの絶えない人間社会から遠ざかることを良しとしました。これは「隠れて生きる」という言葉に表されように……」
先生が、黒板に倫理授業の要点を書き出している。しかし、私は別のことが気になって仕方がない。さきほどから、教室は海の水に満たされていて、そこかしこを魚が泳いでいた。
「……」
といっても、別に本当に海水があるわけではなく、私から見た精細な幻覚だ。けれど、それはだいぶリアリティがあって、授業どころではなかった。
「天ヶ瀬ぇ、さっきから天井みてどうした?」
「えっ、いやなんでもありません」
天井に大きなエビが張り付いていて、それを古代魚っぽいなにかがつっついているのだ。気になってしょうがない。
私は、あせって机の上に目を落とす。すると、広げたノートの上を子蟹が横切る。
「ひえっ」
思わず子蟹を払うが、それは手をすり抜け、触れることは叶わなかった。隣の生徒が不思議そうに私を見ていた。
「あはは、さっきから虫がいて」
私は苦笑いをしてごまかす。しかし、この状況の異常さに流石に焦り始めていた。
こっそり、携帯を取り出すと着信がない。
「葵、レス悪っ」
私は小さくため息をつく。すると、携帯にメッセージの着信がある。静子からだった。
「……」
しかし、件名がない。こっそりと開く、本文も無かった。
「?」
なんだろ? 送信ミスかな?
次の着信を待ったが何も送られてこない。隠すようにして、一言メッセージを送る。
『どうしたの?』
しかし、返事はなかった。
よく考えたら、そもそも、静子は手がヒレな訳だから、文章など打てるわけもない。
私はふと顔を上げる。周りの海の風景はどんどん濃くなってきている。
窓の外を見る。先程、遠くにみかけたクジラが、ずっと同じところを回遊している。
「……あ」
クジラがいるあのあたりは静子の家がある。静子になにかあったのかもしれない。
「……先生、私具合悪いんでちょっと保健室行きますね」
「あ……おう? 大丈夫か?……もうすぐ授業終わるが、待てんか?」
「たぶん無理です」
私はドライに言い放つ。
「そ、そうか、なら行ってこい」
「はい、すいません」
私は、そう言って立ち上がると教室を出る。その途中、女子トイレによると電話を静子にかけた。──しかし、静子は出ない。胸騒ぎが広がる。個室のトイレ内を魚が泳いだ。私は、保健室に向かうと、保健室の先生に具合が悪いので帰ると伝え、早退の届けをもらう。
ちなみに、わが校では、いたずらに早退届けをもらうような不遜な生徒は少ないことから、先生はあっさりと早退の届けを書いてくれた。
たぶん、バスで行くより、一度家にもどって自転車で向かったほうが早い。それに、平日の昼下がりに、制服でウロウロしてたら職務質問されかねない。そう思った私は、まず家に向かい、どたばたと着替える。
念の為、私の行き先を葵にも知らせ、外に出て自転車に向かう。
すると面倒なことに小雨が振り始めていた。
「あーもう!」
私は、悪態をつきながらも、傘をさして自転車に乗る。小雨ふる中、静子の家をめざして自転車をこぎはじめた。
道すがら、魚たちとすれ違う。害はなさそうと思ってはいたのだけれど、身の丈ほどの大きな魚がでてくると、流石におどろいてしまう。それでも、なんとか静子の家の近くにやってくる。すると、案の定静子の家の上に巨大なクジラが一匹いて、それがぐるぐると泳いでいる。
クジラは時折、中空のある一定ラインを海面に見立てて、飛び上がって背面打ち付けなんかをしてみせる。
その振る舞いに若干圧倒されながらも、のんきなものだと思った。
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