34.鯨偶蹄目
私が固まっていると、静子はゆっくりとその手を私に見せる。サメとかイルカとか、そういうものを連想させるヒレだった。
「静子、変異はじまったの? あんた因子保持者だっけ?」
「主治医が言うには、遅れての変異因子の発症だろうって」
「遅れてって……」
「でも大丈夫。変異抑制剤をもらったから」
静子は痛々しく笑って、両手をあげる。
「あたし
「げいぐう?」
「クジラだよ。私クジラ好きだし、悪くない」
「……そういう話?」
変異保持者にも様々な種類がいる。私のように、因子を持ちながらも、特徴こそあれ人と変わらないもの。葵や望海先輩のように人ならざるものに変異するもの。
「大丈夫……なの?」
「大丈夫だよ。うちの研究チームからさ、認可降りたばかりの変異抑制剤をまわしてもらったんだ」
研究チーム──静子の家の会社の人たちかな?
「……へえ、良かったじゃん」
「私がさ、自分が恵まれていることが、たまに嫌だって思っているの深は知っていると思うけど……こういう時、ほんとやるせなくなるね」
静子は、両親がやっている医薬品製造業をどこかで嫌っていた。
昔聞いた話だと、成り上がりのお金持ち特有の品の悪さみたいなものがあって、それがとても嫌なのだという。
さらに、恵まれた状態にあって、それを嫌だと考えている自分も嫌なのだという。こう見えて複雑な子だ。そして、静子は自立するために、バイトを始めたのだと、以前少しだけ話してくれていた。
「それで、もとの生活に戻るにはどれくらいかかるの?」
「ん、一週間程度って言っていたよ」
私は、静子のそばによって、乱れたパジャマをなおす。枕元の海洋生物図鑑は、よく見れば、むりやりヒレ状の手でめくったらしく、破けていて、さらにテープで直したあとがある。赤松さんあたりが補修したのだろう。
「もし、変異抑制剤が効かなかったら、あたしはクジラになっちゃうわけですよ」
「ちょっと、変なこと言わないでよ」
「別に嫌じゃないんだよ。クジラもいいかなって。海に離してもらう」
「……」
私は、顔をこわばらせる。悲しい感情が溢れて顔に出た。
「あー、ごめん! ごめん! そんな顔しないで、治るから! 治すから!」
「……なおしてよ」
「うん」
静子は素直にうなずいた。それから私はふと思いだす。
「あ、そうだ、お土産あった」
カバンから芽衣の作った集合写真を取り出す。ゴーホームズの立ち上げの際いとった写真に、土浦くんが丸抜きで追加されたアレだ。
私がその写真を静子に見せると、案の定ゲラゲラ笑ってくれた。
「ちょ、なにこれおかしくない? ウケる」
「でしょ? 私もないわー、って思ったんだけどさ、芽衣ってば大真面目でこれやってるの」
「あの子さ、たまにほんと突拍子もないよね」
「だよね」
それから、私たちはくだらない話でひとしきり笑った。
ただ、私は、いまいち顔が強張っている。それは、静子が何時になく弱々しく見えたからかも知れない。
「とにかく、この写真も薬にしちゃってさ、はやく身体なおしてよね!」
「うん……ほんとよねー、こういうの見てるとさー、早く直さなきゃって思う。あたし、みんなといるの好きだもん……」
「そう?」
「うん、ホントありがとう」
静子は私に手を差し伸べる。私は、ごく自然に、静子のクジラの手のヒレと握手をする。
ざらざらつやつや。
触れていると、何か安心する。私は、静子としばし見つめ合う。静子は、家のことをあまり話さない。私は、彼女の力になってあげられているだろうか?
そんな事を思っていたら、部屋の外から大きなわめき声が聞こえた。
「部屋にいれたのか? なんでそんな勝手なことをする!」
「静子さんのご学友です、旦那様、旦那様、お待ちください!」
「勝手なことをするな。おまえ、静子の状態をわかっているのか!」
そんなやり取りが聞こえたあとで、静子の部屋の扉が強くあけられ、中に年配の男性と赤松さんが入ってきた。
「……お父さん、いつもノックしてって言ってるよね」
それは静子の父親だ。静子の顔がひどく曇る。彼女は、両親が嫌いだ。
「静子、勝手に人を家にあげるんじゃない。これが外に漏れたらどうなるかわかっているのか?」
静子の父親は、私に向き直る。
「君ね……悪いんだけどさ」
「は、はい」
「……今日、見たことは、静子のために黙っていてほしいんだが、出来るかね?」
「ちょっとやめてよ、何の権利があってそんな事言ってるの?」
「親としての権利だよ」
私は、静子とその父親のピリピリとした空気に胃が痛くなる。とにかく、余計なことは言わないほうがいい。
「……あの、静子さんのことは誰にも言いませんよ」
「そうしてくれると助かる」
「おとうさんはね、あたしが因子保持者だって世間にバレると都合がわるいんだよね」
静子が言った。
「余計なことを言うんじゃない」
父親がたしなめた。──静子が因子保持者であることがバレる。それを恐れる理由はなんとなく理解できた。
久々に目の当たりにした
製薬会社社長の父親は
私は努めて冷静に、静子の父親に告げる。
「突然訪問して、余計なご心配をかけてすいませんでした……私も、余計なことを言って友達を悲しませたくないですし、今日は急にお邪魔してもうしわけありませんでした。あの……ご迷惑でしょうし、私帰りますね」
私は外向けの笑顔とともに告げる。こういうとき、スラスラと敬語が出てくるのは、たぶん母の影響だ。
「いや、まあ、いいんだがね」
静子の父親の表情が少し和らぐ。
出来た子じゃないか、という安堵の色が浮かぶ。一方の静子は、私に余計なことをさせてしまったからか、悲しげな表情をしていた。
「それじゃ、あたしもう帰るね」
「……うん」
「赤松、玄関まで送って差し上げて」
「は、はい」
そうして、私は静子の部屋を出た。
部屋に残った二人が、なんとなくこの後口論になる気がしていた。玄関まで来たところで、赤松さんが扉を明け、申し訳なさそうに私にお詫びを告げた。
「すいません、驚かせてしまって」
「いえ、大丈夫です」
私は、ドアをあけて外にでる。すると赤松さんが私を呼び止めた。
「あ、天ヶ瀬さん」
「……はい?」
「あの、何があっても静子さんのお友達でいてあげてください」
「え、あ、はい……」
「静子さんは、この家では一人きりです。助けを求めることができる人がおりません。私はもちろん助けるつもりでおりますが、力が及ばないとも考えています……いえ、こんなこと頼むのも筋違いかもしれませんが」
赤松さんは自虐的に笑った。
私は赤松さんと一緒に玄関を出ると、正門に向かう。そして、ふと振り返る。わずかに、静子とその父親の、討論をする声が聞こえたような気がした。
──その刹那、私は一瞬、周囲が深海の中にあるように感じた。
「……!」
すぐ傍らを魚が泳いでる。さらに見上げれば花井邸の上空を、ひときわ大きなクジラが飛んでいる。
それから立て続けにイメージが広がる。次に思い浮かんだのは、喧嘩をする中学くらいの静子と、静子の両親だ。ひどく口論して、静子は親に顔をひっぱたかれて、そして赤松さんが傍らでオロオロしている。
周囲には、幼い頃に数回だけニアミスしたことがある、花井家の長男と長女がいた。皆冷めた目で静子を見ている。
続いて、静子が自室で新聞を読んでいる。医薬品メーカーの不正、製品に重大な副作用か、というような記事があり、静子はそれを切り抜いている。
TVがついている。TV には記者会見をする静子の両親が映っていた。「副作用は根拠のない言いがかりである」と応える両親。それを、TVの前で苦々しく見ている静子。
「天ヶ瀬さん」
私は、赤松さんに声をかけられて我に返る。
「す、すいません。あの静子によろしくお伝えください! それじゃ!」
私はそそくさと花井邸を後にした。
既に幻視した深海の風景も、静子の過去も見えなくなっていた。ただ、見たものは覚えていた。それが示した意味を、私は思い返していた。
静子は、副作用のある薬を隠蔽して販売する両親を嫌ったのだ。それだけは理解できた。
帰宅途上、静子から、お礼のメッセージが携帯にとんでくる。文面は赤松さんが代わりに打ち込んでいるとのことだった。
私は、少し元気がでただろうか、などと思いながら、家路を急いだ。
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