4.真夏の蜃気楼

 私達は橋の袂から、だいぶ離れたところまで来た。


 道は川沿いから、雑木林に覆われた高台に向かう坂にさしかかる。そこは、車一台分くらいしか通れないような坂道で、周囲には鬱蒼と木々が茂っている。チカンに注意、なんて看板もあって、夜なら街灯があっても一人では通りたくない。


 私達は、二人乗りを止められてしまったから、ここまでずっと歩いてきていた。──もっとも、坂は急だったから、いずれにしても自転車は降りていただろう。

 検問が見えなくなったあたりで、私たちはようやく安堵した。


「バレずに通過できたよ、ありがとう」


 葵が、お礼を言う。


「ヒヤヒヤしたね」


 特殊保安官ネイティブガーダーが蜂の怪人を追っていた。アクション映画さながらの、すごい光景を見てしまったと思った。


「そうえばさ、なんで深は休みの日に制服だったの?」

「え、ああ……今日は学校に用があったの」

「休日に? 部活とか?」

「そう、実は……部活を辞めてきたんだ」

「へえ?」

「水泳部だったの。でもちょっとね、いろいろあって」

「いろいろ?」

「私には……なんか違うなー、合わないなー、って」

「そういうのあるよね。おれも堅苦しいのとかあまり得意じゃないから」


 その時、葵の顔の痣がすこし動いた気がした。私は気になって尋ねる。


「ねえ、その痣、蝶の名残だよね?」

「ん? そうだよ」

「動かしたり止めたりできるの?」


 さっき、女性の特殊保安官ネイティブガーダーが覗き込んでいたときは、止まっていた。


「頑張れば、止めれる。ほっとくと動くよ」

「頑張ると止まるんだ」

「気になる?」

「うん、あそこまでなにか別のものに変異する人をはじめて見たから」

「そう? けっこういるもんだよ。みんな隠してるだけで」


 葵はあっけらかんと言った。


「……だから逃げてたの?」

「逃げないと、つかまって解剖されちゃうから」


 葵は冗談めかして、笑って言った。


「まさか、……そんな事ないでしょ?」


 変異因子保持者だって人格は認められている。それが犯罪者でも無い限り。


「というか、あの特殊保安官ネイティブガーダーちょっと嫌じゃなかった?」

「そう?」

「葵の痣のことデリカシーなく聞いてきて」

「仕事だからしょうがないよ」

「ふうん、心が広いね」

「僕は特殊保安官ネイティブガーダーに憧れてるからね」

「え、やっぱり男子だね」


 特殊保安官ネイティブガーダーは、世間では子供向けのドラマも作られるくらいの人気で、少年少女たちの憧れでもある ハイティーンになって、その実態が暴力を伴うものだと理解する前は、確かに私も、ちょっと格好いいと思っていた時期もあった。


「さっき車踏んづけて壊していったよ。周りのこととか考えないでさ」


 葵は笑った。


「そうしたほうが効率良かったんでしょ?」

「……そういうのだめだと思うけど」

「視野が狭いと、そういうところにしか目が行かないんだよ」


 私は、まるで私が自分のことしか考えていないように言われた気がして、ムスッとした。


「目の前のことに精一杯なだけで、何が悪いの?」

「そのせいで困る人もいる」


 葵は、ちょっと悲しい口調で答えた。けれど、その真意を測りかねた私は、ただ言葉を返す。


「じゃあさ、いっそのこと君が特殊保安官ネイティブガーダーをやればいいんじゃん?」

「そうだね……でも、僕は多分ヒーローにはなれないよ、そういうの向いてない」


 葵がそう答えた時、私は突然、葵に重ねて、何か得体の知れない幻を見た。


「……!?」


 蝶の姿の葵。蛹の姿の葵。芋虫の姿の葵。まだ小さな葵をなじる美しい女性の姿。葵を抱きとめる年老いた男と女。誰もいない薄暗い子供部屋。──私はびっくりしてその場に立ち止まった。


「……」

「……どうしたの?」


 葵が、私を覗き込む。


「えっ、なんか……いま」

「今?」

「私幻をみちゃった」

「幻?」

「芋虫の変異体とか?」

「……!」


 今度は、葵の顔が強張った。


「芋虫みたの?」

「うん、大きな芋虫がベビーベットに」


 しばらく沈黙したあとで、葵が尋ねる。


「深はさ、変異因子保持者だって言ったじゃない? そういう何か、誰かの過去を見る能力とかあったりするの?」


 過去? それは、今見たものが葵の過去であるということだろうか。


「ないよ私……ステージは一未満だし、変異も出来ないし……何の能力もないと思う」

「ほんとに?」


 葵が、私を覗き込む。


「潜水は得意かな?」

「うーん、潜水じゃないだろうなぁ……」


 葵は、ふと自身のボディバッグに吊り下げられたペットボトルを手にとった。ペットボトルの水は、私が先程二口三口飲んでいたから、ほんの少し減っていた。


「もしかして、これ飲んだ?」

「え……うん」


 とたんに、葵の顔が呆れ顔に変わる。


「えっ、飲んじゃだめだった?」

「これはね、ただの水じゃなくて薬なんだよ」

「え」

「飲んでも死ぬようなことはないけどさ、君が見た幻は薬のせいかも」

「……! ほんとに? ちょっとまって、なんでそんな薬もっているの?」

「大丈夫だって、死んだり苦しんだりするようなものじゃないから」

「何の薬なの?」


 私が尋ねたら葵は悩んだ。

 それが一層不安を掻き立てる。


「そうだなあ、しいて言えば……大人になる薬とか?」

「……大人に?」

「うんそう、大人。大人だね」


 葵は私の不安をよそに、その場で一人納得して声を上げる。


「ちょっと……」

「さて、検問も突破できたし、俺そろそろ行くね」

「え」


 葵は、坂を登りきったところで、自転車を止める。


「今日はいろいろありがとう」


 葵は言いながら、シャツを脱ぎ始める。


「ちょっと」


 私は葵の裸体を見て目をそらす。葵の身体はみるみるうちに変異はじめ、背中から大きな美しい翅をはやした。


「楽しかった! じゃあね、バイバイ」


 それから、葵は跳躍して、羽ばたいて、次の瞬間には、周りに鬱蒼と茂る木々の向こうに飛んで消えていった。


 結局なんだったんだろう?


 ──というか、葵がいなくなったら、また急に全身が熱くなった。ついでに胸も苦しい。え、私、風邪でも引いたのだろうか? あるいは熱射病とか?

 私は一人雑木林の中にある小道で、呆気にとられて、ちょっと身悶えして、そして天を仰いだ。

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