2.はまぐり少女と蝶の怪人
はじめ、それは孔雀に見えた。
少したたんだ翅は、青紫に輝いていた。
彼は私と同じように、夏の日差しに疲弊した様子で、休憩所にいる私に気づいている様子もなく、ふらりと屋根の下の陽陰に入ってきた。そして、長椅子に横になっていた私と目が合ったのだ。
それは、とても美しい蝶の怪人だった。
身の丈は、私より少し高いくらい。昆虫の外皮の質感のままの四肢。首周りには綿毛をまいている。上着は着ていないけれど、袈裟懸けにやや大きめのボディバッグを身に付けていて、下には夏っぽいハーフパンツに、靴も履いている。頭からは触覚が生えている。顔は、同世代くらいの男子だった。
私がびっくりした顔で固まっていると、蝶の少年は言った。
「ごめん、人がいると思わなかった」
私は、鼓動が早くなるのを自覚しながら、身体を起こす。──この美しい蝶の怪人は、先程からわが街を賑わしている
私は、相手が同世代らしき若さであったことから、思い切って話しかけた。
「君、今ニュースになっていた怪人?」
私は自販機の電光掲示板を指さして尋ねた。すると少年は、すこしかすれた声で応える。
「あれは別の怪人で、僕は関係ないよ」
じっと見ていると、その蝶の男子の翅や四肢といった昆虫めいた部位が、次第に小さくなっていく。虫の質感から人の肌に変わる。変異者特有のメタモルフォーゼだ。
蝶の男子は、自分の身体を変化させつつ、慣れた様子でボディバッグからTシャツを取り出す。
「ちょっとごめん」
「えっ」
みるみる上半身が人の裸体になったものだから、私は慌てて目をそらす。彼は中途半端な変異のまま、背中をむけると、すばやくTシャツを着た。
「驚かしてごめん……それから、その……頼むから、大きな声を出したり、誰かを呼びにいったりしないでくれないかな」
「別に……しないよ……びっくりしたけど」
彼はまだ半分、蝶のままだ。
「そっか……ありがとう」
彼は、安心した様子で、向かいの長椅子に座った。
「じゃあさ、本当に申し訳ないんだけど、俺ここで少し寝るから、それも誰にも言わないで」
「えっ?」
そう言うと、彼は長椅子にもたれかかる。
「ちょ、ちょっと……急に寝るとか」
「変異はね、とても疲れるんだ」
「……でもこんなところで寝て、誰か来たらどうするの?」
「……うーん、その時はその時」
彼は、すでに薄目になって、まどろんでいる。
なんなの? 突然現れて、突然寝るって、どういうこと? ──心のなかに文句を思い浮かべた次の瞬間、私は自分の口から出た発言に驚いていた。
「……じゃあ、あたしが見張っててあげる」
「……ホントに?」
彼が寝入る直前に、目を見開いて、驚く。というか私も驚く。わ、私、な、何を言っているんだろう? どういう風の吹き回し──いや吹き回しているのは熱波だけど。私は、急激に顔が熱くなるのを意識しながら、小さく応えた。
「……うん」
「ありがとう」
二回目のお礼の後で、彼はそのまま意識を失うと、寝息を立て始めた。
私は、困惑して彼を見入る。
「……ど、どういう状況?」
仕方がないので、彼を見守る。すると、そこから、彼はさらなる変化をはじめた。
まだ昆虫のようだった一部の皮膚の質感が、ゆっくりと人に戻る。
変異因子を持つ人類は、確かに珍しくもない。けれど、ここまで別物に変異することができる人はあまり多くはない。
翅はとっくにシャツの下だ。触覚は短くなって頭髪に紛れ、人の頭にもどった。ただし、両腕には、昆虫だったときの節々が、皮膚の上に痣となってのこっている。彼の顔の半分にも、なにか蝶の模様のようなものが、所々にある。
歳は私と同じ高校生くらいだろうか? 背丈は私よりも十センチ以上は高い。細身で筋肉質。普段は部活でもやっているのだろうか? このあたりに住んでいるのだろうか?そもそも、なぜ怪人の姿でウロウロしていたのか?
あれこれ考えていると、痣以外はもう完全に人の姿に戻っていた。
ただ、未だ目を覚ます気配がない。
彼の顔には薄っすらと汗が浮かんでいたけれど、暑がっている様子はない。一方の私は、今だに大粒の汗を垂らしている。彼は暑さに強いのだろうか?
「喉、乾いた」
先程飲んだスポーツドリンクではたりなかった。
私は、ふと彼のボディバッグに小さなミネラルウォーターのペットボトルがぶら下げられていることに気づく。
「……」
私は、生唾を飲み込んだあとで、そのペットボトルに手を伸ばした。
「一口だけならいいよね? だって見張ってあげているんだから――」
ペットボトルを手に取ると、ボトルのキャップを回す。私は口をつけると中の水を三口ほど飲んだ。
外気にさらされているにもかかわらず、その水は冷たかった。それから、そっとペットボトルをホルダーに戻すと、そこからはただ無心になって、彼を見ていた。
三十分くらい経った後だろうか? 彼はパチリと目をあけた。
「……ほんとに見張っていてくれたんだ」
彼は、目覚めるなりスッキリとした表情で言った。
「……だ、大丈夫?」
「おかげさまで」
彼は微笑むと、立ち上がる。
「君さ、僕の姿を見てもあんまり驚かなかったね」
「私も因子保持者だから。ステージは一だけど」
「へえ、どんな因子なの」
「え? えっと……」
私は、自分の因子に思いだす。ステージ一だと外見は人となんら変わらない。ただ、すこしだけ因子の特性が人に残る。つまり私が持っているのは潜水が得意だけれど、泳ぎはべつにうまくない生物の因子。──私は、思い切って伝える。
「……はまぐりだよ」
「はまぐり? 貝の?」
「そう」
「へえ、いいじゃん。水の中で涼しそう」
彼は言いながら、私のことを見つめる。
「……な、何?」
「あのさ、ついでにもう一つお願いしてもいい?」
「へっ」
「検問を抜けるのを手伝ってほしいんだ」
彼は、屈託のない笑顔でもって、もう一つ、お願い事をしてきた。
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