はまぐり少女と蝶の怪人
はまぐりと蝶の出逢い
1.女子高生は退部する
私の通う高校から家までの間には、大きな川が一本流れていた。
川には、双方の対岸をつなぐ長い橋があって、渡るのに結構な時間がかる。加えて、橋の上は遮るものが何もなかったから、夏場の日中で、無風状態なんて事になれば、それはもう汗が滝のように吹き出して止まらなくなった。
今朝は、テレビで記録的な猛暑になると言っていた。
橋の上を自転車でたらたらと渡っていた私は、予報のどおりの容赦ない日差しにげんなりしていた。
橋の途上には逃げ水があって、近づくたびにそれが消える。風を切って進んでいるのに、いっさい涼しくない。吹き出した汗で制服のブラウスが肌はりついた。
学校でシャツとジャージにでも着替えてくればよかったと思ったけれど、よく考えたら今日は日曜日で、体操着のたぐいは、週末に持ち帰って、家に置きっぱなしだった。
ほんと、そういうことも含めてうっとおしい。私は、目に入る汗に苛立って、眉間にシワを寄せる。イライラしているのには、もう一つ別に理由があった。
それは、つい三十分ほど前、学校のプールでの出来事だ。
私は、私立陽光学園の水泳部に所属している。本当は今日も部活だったのだけれど、ついさっき部の練習に参加する代わりに退部届けを出して来ていた。
そしてその際、私の退部を巡って、部長とやりあった帰りだった。
「天ヶ瀬、そういう中途半端なところが駄目なんじゃないのか?」
とは、グラマラスな競泳水着に見を包んだ女性部長のきついお言葉だ。この先輩、私にとって苛立ちポイントの高い箇所は、言動もそうだけれど、もう一つ言うと胸にある。私より水の抵抗が大いに有るにもかかわらず、私より泳ぎが早い。うん、僻みでしかないんだけど。
別に水泳が嫌いなわけではない。むしろプールは好きなほうだ。水に触れていると、落ち着くし、気持ちいい。けれど私は辞めなければならなかった。
理由はいくつかあった。
たとえば私は、潜水は得意だけれど泳ぎはまったく下手っぴで、上達しなかった。結果として、後から入部してきた一年生に、種目の殆どに負けるようになったこと。そんな状態で水泳部のどこに居場所を作れというのだろう。どの世界でも、ついて行けない者には居場所がなくなるのだ。
「水泳が下手なのは、先輩も見ていてわかるでしょう?」
「潜水は得意じゃん」
「潜水うまくても記録が出るわけじゃないので」
「まぁ、そうだけどさ」
私の頑な態度によって、先輩の態度がどんどん冷たくなっていくのが感じられた。
「……それで天ヶ瀬、辞めてどうすんのさ?」
「帰宅部に入ります」
「帰宅部ぅ? 籍だけでもここに置いておけばいいじゃん?」
「それだと辞めたことにならないので――」
それから、同じような問答がしばらく続いあとで、私は強引に退部届を押しつけて言った。
「とにかく辞めます!」
部長は不快そうに退部届を受け取って言った。
「だからお前は駄目なんだよ」
たぶん、逃げるなと言いたいのだろう。ほんと、余計なお世話だと思った。
私は、こわばった顔でお辞儀をすると、二年の一学期中頃までお世話になったプールを後にした。
ええ、私は敗者で、ほんと駄目な部員でしたよ。──けれど、あそこまで一方的に私の有り様を決めつける権利が、部長にあるのか?
私は、せめて心が折れないようにと、まとわりつく熱気を燃料にして怒っていた。
帰ってシャワーでも浴びればスッキリするだろうか? そんな事を思って、橋を渡りきった。すると、渡った先にはパトカーが止まっていて、道を封鎖していた。
私は汗を拭いながら、その車両の脇を通り抜けようとする。
「ちょっと、ちょっと、ごめんね、学生さん? ちょっとどこいくの?」
「えっ」
進路を塞ぐように、警官が声をかけてきた。
「何かあったんですか?」
「ちょっとね、
私は足をとめて、訝しげに警官を見る。一方、相手の警察官は、私の服装をまじまじと見ていた。
「君、陽光学園? 地元の子だよね?」
「……はい」
「どっち行くの?」
「立神町です、この先の」
「あー、じゃあ丁度通れないね。ごめんね、座国橋から迂回してもらえる?」
えっ? 迂回?
「すごい遠回りじゃないですか!」
座国橋は、今渡ってきた昭陽橋のだいぶ下流にある橋だ。迂回すると、かるく数キロ、距離に違いが出る。
そもそも橋を渡る前に封鎖してくれればいいのに、と思って対岸を振り返ると、橋の入り口にはミニパトが一台停車していて、歩行者はともかく車止めはちゃんと行っていた。
私が、気づかなかったのかもしれない。
それにしても、物々しい景色だな、と思った。警察車両は、橋の出口を塞ぐように停車している。警官は橋の周辺に数十名。
それから、この暑いのに、顔を隠し全身にボディースーツを着込んだ
ごめんね、と詫びる警察官に、私は「仕方ありません」というような答えを表面上は返して、心の中では「ばーかばーか、ふざけんなし!」とつぶやいて、自転車の向きを変えた。
変質者ならともかく、
そもそも、私自身も変異因子保持者だし、
私は、今しがた渡ってきた橋を戻りながら、下流に遠く霞んで見える座国橋を見て汗を拭った。
渡りきった後で、川沿いの歩道に入る。
歩道の周辺には夏草が身の丈ほどに育っていて、それが風を遮るから、ますます暑い。
そう考えると、橋の上は日差しこそつよかったのだけれど、まだ涼しかったのだと思った。
私は、遊歩道を抜けて、少し開けた公園に入ったところで、自販機を見つける。
日差しは、嫌がらせのように強くなっていたから、私は、身体に溜め込んだ熱をどうにかしたくなって、小銭をとりだして自販機の前に立った。
『……登録不明の
自販機に組み込まれた電光掲示板が、丁度ニュースを流している。
これが、あの警察官のいう事件だろうか? ──私は、そんな事を考えながら、スポーツドリンクを買って、それから、目に入った屋根付きの休憩所に向かい、自転車を傍らに止めた。
日陰に入って長椅子に腰掛けると、ペットボトルのキャップを開けて、一気に飲む。熱っぽい体の中に、一筋の冷たい濁流が落ちて涼しさと潤いをもたらした。私は思わず深く息を吐いて、長椅子にもたれかかると、誰もいないからいいだろうと、そのままゴロンと横になった。
部活を辞めて、今年の夏はどうしようか? ──たぶん受験の準備がはじまる、三年の前までは時間ができる。その前に、高校生らしい楽しみを何か探したいとも思っていた。けれど、それが何かまだよくわからない。
居場所、腰の落ち着け場所、逃げ込む場所、安らぎの場所、私にとってのそういう場所をどこかに定める必要があった。
しばらく、そんな事を考えていたら、風が少し出てきた。ふと日向の方に目を向ける。
すると、そこに人影が現れた。
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