リバース・ブルー。
・今月のテーマ 「ナイフ」 「ボードゲーム」 「魔法」
白と黒
いつだって決めるのは周り
いつだって勝つのは数が多い方
ガンジガラメのこんな世界は嫌だね
だから、ひっくり返すよ
何を利用してでも
立場が変わる、生まれ変わる瞬間を手にする為に──
✳︎
春を迎え、閑散とした教室。
『あ、あの……わたし、先生のことが……』
口紅も顔負けな程真っ赤な顔をした少女。その口調は頰がつい緩む程たどたどしく、紡ぐ言葉が臓腑を撫で回し、むず痒い気持ちになる。まさに甘酸っぱい青春の一ページだ。
しかし、
『好きですっ』
それは獲物を前に舌なめずりする獣と変わらず、突きつけられているのは──ただの
『ありがとう、佐藤。 その気持ちは嬉しい』
『先生っ、わたしは本気で先生のことが』
『ごめんな。 俺は先生だからその気持ちには応えてやれない』
『……うぅ』
『今はな』
『っ!!』
何が"今はな"だ。どうせ傷つく事には変わりないのだからハッキリ言ってやればいいのに。
『お前が大人になっても、その気持ちが変わっていなかったらまた来てくれ。 その時は、ちゃんと答えるから』
『……絶対、絶対に来ますから! それに、中学生になってもまた会いに、来ますから……』
『あぁ、待ってる』
キラキラと光を放ち、こぼれ落ちる涙。ただしそれは彼女の瞳からではない。
──言うまでもなく、彼女が俺に会いに来る事はなかった。いくら機会があろうとも。
俺は、
別れの季節。それは小学生にとって今生の別れに等しいのか。すぐ愛だの、恋だの、と告白をしてくる。
それが若さ故の過ちなのは分かっているし、その気持ち自体は尊いものだ。しかし、その愛とやらが俺の心をズタズタにする。
俺は正しい事をしているはずなのに胸が痛む。裏切るのはいつもあいつらなのに罪悪感に苛まれる。いつも俺だけが傷つく。
だが、あいつらはそれを知らず、またどこかで愛を囁く。まさに無邪気そのもの。だから、責めたりはしない。ただただ嫌いなだけだ。
✳︎
「あれ、センセーじゃん。 おっひさ〜」
その日の勤務を終え、茜色の空を背に家路を辿っていると、さも旧知の仲かのように金髪の少女が駆け寄ってきた。
「お、おう……久しぶりだな」
セーラー服を纏った元教え子。いやはや、着る物次第で変わるとはよく言ったものだ。まるで蛹から蝶になったかのように自信に満ち溢れており、あの頃よりは『お姉さん』になったのだと認めざるを得ない。
しかし、まだ着慣れていないせいか、野暮ったく見えて背伸びしている感は拭えない。結論、服自体はあまりに似合っていない。金髪だし。
「何そのビミョーな反応。 もしかして、あたしのこと忘れたの?」
「別に、忘れてなんかない」
俺は、彼女を──
別に、彼女自身とは特別な関係を持っていた訳ではない。それどころか、殆ど話した記憶もない。しかし、彼女の義父には手を焼かされた。だから、忘れたくても忘れられない──
『修学旅行に行かせないってどういう事、ですか?』
『どうもこうも。 あの子、集団行動とか苦手だろ? 思い手作りなんてガラでもないしなぁ』
『ですが』
『それに、うちにはそんな余裕はない。 先生もよく知ってるでしょ?』
瀬尾の家庭は母親が一人で支えていた。事故でなくなるその日まで。
『……分かりました。 費用は全て俺が出します。 だから、参加させてやってください』
あの日、俺はそれが悪い事だと分かっていながらも、そうせざるを得なかった。何故なら、義父(おや)の都合で彼女の笑顔が奪われるのを平気で見過ごせる程"正しい人間"ではなかったから──。
「もっしもーし? センセー?」
「ん、なんだ?」
「いや、それはこっちのセリフだから。 急にボーっとしてどしたの?」
「……別に、何でもない」
「ふーん、変なの」
「それより元気そうでなによりだ。 じゃあな」
元教え子とはいえ大の男が中学生と話し込んでもロクな事にはならない。だから、即座にその場を後にしようとしたが──ガッチリ肩を掴まれてしまった。
「……瀬尾、離してくれ」
「いやいや、せっかく会ったばっかなのにそれはないでしょうよ、センセー」
折角も何もないと思うが……言っても無駄か。面倒だな。
「そだ、今からセンセーのうちに行っていい?」
眩しい笑顔で爆弾を投下する瀬尾。どうしていきなりそんな事を言い出したのか分からないが、答えは決まっている。
「ダメだ」
「なんで? センセーが子どもの頃はよく押しかけたんでしょ? なら、いいじゃん」
いくら生徒の集中力が切れてきたからと言って授業中に余計な話はするべきじゃないな。勉強になった。
「あのな、今はそういうのにうるさいんだ」
「大丈夫だって、誰にも言わないからさぁー」
「いや、言う言わない以前に」
「ねぇ、お願い?」
「…………」
──俺は子どもが嫌いだ。
「あっ、ミスドあるじゃん! 食べていい?」
「好きにしろ……ただし、それを食ったら帰れ」
「ふぁ、あーんっ。 んー、おいしー!」
聞いてないな、こいつ……。
「ねぇ、なんでミスドなんてあったの? 意外と甘いもの好きなの?」
「別に。 期限切れ間近のクーポンがあったから買っただけだ」
「うわぁ……」
「なんだ、その目は」
「クーポン男はモテないよ」
「余計なお世話だ。 大体、お前みたいな子どもに言われたくない」
「にひっ」
突如、誇らしげに笑みを浮かべる瀬尾。なんだこいつ。
「ざ〜んねんでしたぁ、あたしはもう子どもじゃあ〜り〜ま〜せ〜ん〜」
さらに、煽る気満々の勝ち誇った顔。本当になんだこいつ。
「あたしぃ、中学に入ってすぐ彼氏が出来たんだよね〜」
「……だから、どうした。 どうせ子どものお遊びだろ」
「ううん、違うよ。 相手は大人、センセーと同じくらいの」
またもや爆弾を投下する瀬尾。さっきとは違い真剣な顔でそんな事を言うものだから、俺は背筋が凍りついた。
「でも、さっき別れちゃった。 ひどいよね、優しくして、誰よりも好きだって言ってくれたからさ。 あんな事までシたのに」
「……っ!?」
「だから、今日は慰めてほしいんだ。 センセー」
ドーナツでベタついた指をゆっくりと舐めながら挑発的な笑みを浮かべる瀬尾。砂糖のせいか、舐めた指に残る唾液にはとろみがあり、別の事を催促しているみたいだった。
「そうか。 だったら、出血大サービスで頭くらいなら撫でてやるぞ? 頭くらいなら、な」
「んぅ、分かってるくせにぃ」
「……怒るぞ」
俺はもう"正しい人間"ではない。だが、小さな子どもに手を出す程"正しくない人間"でもない。
「ぷふっ、うっそー!」
「……は……?」
「確かに、彼氏とは別れたばっかだけど、歳上じゃないし、えっちもしてませーんよぉだ!」
「なっ!? お、おまっ、女の子がそんな事を軽々しく言うなっ!!」
「はは、相変わらずマジメ過ぎぃ〜」
こ、このクソガキは……。
「だから、佐藤の告白にあんな事しか言えないんだよ」
「どうして、それをっ!?」
「たまたま、ね。 てか、あんなありきたりなシチュ見ない方が難しいと思うよ」
「うっ」
別に、俺から告白した訳じゃないが、妙な恥ずかしさを感じてしまう。
「別に好きぐらい言えば良かったのに。 めっちゃ泣いてたよ?」
「……バカ、教師がそんな事言えるか」
──特に、俺は。
「ドーナツごちそーさまー」
「ああ、気をつけて帰れよ」
「うん。 あ、また来てもいい?」
「もう来るな」
「んじゃ、まったねー!」
──ガチャンッ!
返事は受け付けないと言わんばかりの勢いで閉められたドア。ある種の意思の強さを感じる。
だが、
「どうせ来ないだろ」
きっと、あいつも他のやつらと変わらない。
と、思っていたのに──。
「……そこで何してる?」
「何って。 センセーが帰ってくるの待ってた」
前日に『もう来るな』と言っていたにも関わらず、人の家(アパート)の前で三角座りをしていた瀬尾。全く、近所の人に見られていたらどうするつもりだ……いや、考えてる訳ないか。
「待ってた、じゃない。 もう来るなって言っただろ」
「あれ? あたし『まったねー』って言ったよね?」
「いいから帰れ」
「えー、せっかく待ってたのにー」
「知らん」
「ヒドいよ、セン──へくちっ」
「…………」
──俺は子どもが嫌い、大嫌いだ。
「ほら」
「おー、ありがとー」
結局、瀬尾を家に入れ、ココアまで振る舞う始末。我ながら甘い。
「へぇ、意外」
「何がだ?」
「いや、センセーってコーヒー好きそうなイメージあったから」
「それ絶対メガネかけてるからだろ」
「違うよ、コーヒーが似合うくらいにはカッコいいって言ってんの」
全然意味が分からん。コーヒーが似合うくらいのカッコよさとはなんだ? そもそもカッコよさの基準にそんなものがあるのか?
そういえば、早く大人の仲間入りをしたい子どもはブラックコーヒーを飲みたがると聞いた事があるな。それの派生と考えるべきか。
「まぁ、こういうとこが子どもっぽいのは逆にアリだけど」
「なっ!? お前、タブーを……あっさりと……」
「大丈夫、大丈夫、あたしも森永さんは好きだから」
「何が大丈夫だ、全く」
「にひっ。 ところで、さっきから何してんの?」
「指導案……って程でもないか。 今日の会議の内容を元に明日からの授業をどうするか考えてるんだよ」
「えっ、授業ってマニュアル通りにやってるんじゃないの!?」
随分とナメられてたんだな……まぁ、普通そうだろうが。
「ある程度のマニュアルはあってもそれだけでいい訳ないだろ。 もしそれでいいなら明日から教壇に立つのはインコだ」
「オウムかもしれないよ?」
こいつ……。
「ともかく、今日は忙しい。 だから、それ飲んだら帰れ──っ!?」
いつの間にか、隣にやってきていた瀬尾が俺の手元を覗き込み、感嘆の声をあげる。
「おぉ、そんな事まで……わ、こまかっ……」
知ってか、知らずか。瀬尾の細い肩がバッチリと俺の腕に密着し、子ども特有の天花粉のような匂いが鼻腔をくすぐる。
「ねぇ」
「なっ、なんだっ!?」
「ん、どしたの? 変な声出して」
「……別に」
「ふーん。 まぁ、いいや。 それより、こんな風に計画を立てるのって大事なの?」
「あ、あぁ。 何もしないよりはいいだろうな」
「だよね。 ラルースもそう言ってたしねー」
ラルー……ス?
「なぁ、ラルースって誰だ? 芸能人か?」
「えぇっ、ラルース知らないのっ!?」
まるでツチノコでも目の当たりにしたかのように驚く瀬尾。そんなに驚く事なのか?
「あの『盤上のラルース』だよ?」
「いや、あのと言われても」
「嘘、信じらんないっ! 社会現象にもなってるのにっ!」
「お、おう……ドラマか何かか?」
「ゲ・エ・ム!」
「ゲームって……ピコピコするあのゲームか?」
「それ以外何があるのよ」
「いや、ボードゲームとか、トランプとか色々あるだろ」
「うわぁ、流石アナログ人間だね」
なんだよ、その呆れた顔は……腹立つな。
「言っとくが、GBくらいならやってたからな」
「GBって何?」
「…………。 だ、大体社会現象になろうがゲームなんか子どものするものだ。 大人の俺が知っていなくても不思議じゃない」
「ほんと分かってないなぁ。 今は大人がゲームするどころかネットで実況配信までやってるよ」
なん……だとっ!?
「ば、バカ言うな。 そんな訳」
「ん」
瀬尾がスマホで見せてきたのは親子でゲーム実況をしている動画だった。
「これで分かったでしょ?」
「ああ……いい歳のおっさんが子どもと奇声をあげながらゾンビを撃つ時代になってるとは思わなかった。 しかも、それをネットで晒してるなんて……」
「そっちなんだ」
「当たり前だろ。 こんなにも嘆かわしい事はない」
「バカ真面目」
うるさい、これが普通。普通のはずなんだ。
「言っとくけど、ゲームに限らずこうやって動画を上げるくらいみんなやってるからね」
「は? なんでそんな事してるんだ?」
「さぁね、みんな誰かに自分を認めてほしいんじゃない」
認めて、ほしい……か。
「どしたの?」
「動画を上げるくらいで認められたら苦労しないのにな」
「そんなのやってみないと分かんないじゃん」
「はいはい、そうだな」
「ムッ。 センセーはさ、ゲームをして頭をやわらかくした方がぜーったいにいい!」
「何を言い出すかと思えばくだらん」
いくら流行っていようが、大人がゲームなんか──。
「え、山田先生もするんですかっ!?」
翌日、試しに隣の席の同僚にゲームをやっているか聞いてみたところ驚きの回答が返ってきた。正直、山田先生は自分よりも真面目な印象があったのでゲームをやっているなんて夢にも思わず、悪い夢でも見ているかのような気分になる。
「まぁ、私はソシャゲメインですけどね」
「それでもやってるのは驚きですよ」
「そうですか? 石崎先生も、花野先生もやってますし、前園先生はガチガチのゲーマーでeスポーツの大会にも行ったりしてますよ」
「eスポーツ?」
「今は競技としてゲームをやってたりするんですよ」
「な、なるほど」
まさかそこまでゲームが生活の一部に溶け込んでいたなんて……俺、無知過ぎだろ……。
「因みに、教頭先生もゲーマーです」
「う、嘘でしょ……?」
「マジです」
あの教頭でさえ手を出しているとは……。
「ところで、どうして急にそんな事を聞いてきたんですか?」
「いや、昨日知り合いにゲームをした方がいいと言われまして。 それで気になって」
「なるほど、それなら」
『ば、盤上のラルースがおすすめですっ』
背後からの大きな声。振り向くと、丸メガネに、髪をきちっと七三分けにした女性──小野先生が何やら興奮した様子で立っていた。
「あ、あの小野先生。 何をそんなに」
「ぜーったいに、ラルースをするべきだと思います!」
「は、はぁ……確かに、昨日同じ事を言われましたが」
「なら、決まりですっ! 購入不可避ですっ!」
妙にグイグイくるな。普段は大人しくて、空気のように存在感の薄い小野先生をここまで狂わせるとは……ラルースというゲームは相当面白いものらしい。
「少し興味が湧いてきました」
「っ!! じゃ、じゃあ、今日一緒に」
「小野先生」
興奮していた小野先生の顔が瞬時に凍りつく。それもそのはず、何故なら声をかけてきたのは目上の存在である教頭なのだから。
「放課後、三組の事で話したいのですが」
「え、今日は……その……」
「何か外せない用事でもあるのですか?」
「……何もないです。 ……是非ご指導ご鞭撻よろしくお願いします」
お疲れ様です、小野先生。
「ところで、火戸先生」
「は、はい! 何でしょうか!?」
「私はバイオがおすすめです」
「あ、その……ありがとうございます」
まさか教頭にも聞かれていたとは……というか、その世代ではバイオが流行っているのか。
「よし、決めた」
とりあえず、何があってもバイオだけは買わないでおこう。
──ピンポーン。
「…………」
──ピンポーン。
「…………」
──ピンポン、ピンポン、ピンポーン。
「……っ!」
──ガチャ。
「あ、やっと出てきた」
朝から怒涛のインターホン。重たい瞼をなんとか持ち上げて玄関を開けると、しつこい来客は案の定瀬尾だった。
「いるならすぐ出てきてよね」
「貴重な休みを邪魔するな……帰れ……」
「なんで朝からゾンビモードなの?」
「うるさい、お前のせいだ……」
「あたしのせい?」
「お前が言ったんだろ、ゲームしろって……」
「えっ!? それってつまり」
「そうだよ……」
昨日、翌日が休みかつやる事を終えた俺は気まぐれでゲームをする事に。本当なら一、二時間程やって終わるつもりだった。しかし、いつの間にか熱中し、やめるにやめれず、気がつくと窓から朝日が差し込んでいた。
「一応、聞くけど何のゲームやってたの?」
「ラルース……」
「ね、ねぇ! どこまで、どこまでやったのっ!!」
「はぁ? なんでそんな事を……」
「いいからっ!」
「リリがシャロを撃つところだ……」
「……どう、思った?」
なんだ、こいつ。そんな事聞いてどうするつも……。
「──っ」
また、まただ。またこいつはらしくない真剣な顔をしている。なんなんだ……一体、何がお前にそんな顔を……。
「気持ちが分からなくもないって思った」
「なんで?」
「誰だって好きな人には自分だけを見ていてほしいだろうし、その為ならなんだってするし、どんなものでも利用するだろ」
例え、それが歪なカタチだったとしても。
「……だよね。 センセー、ちょっとはやわらかくなったじゃん」
「バカ、あくまでゲームの話だ」
「それでも、だよ」
「ん、今何か言ったか?」
「なーんにも言ってないよー、それよりさ中入れてよ。 もう目覚めてるでしょ?」
「……はぁ……」
──俺は子どもが嫌いだ、嫌いだというのに。
ゲームを買って以来、瀬尾は俺の家に入り浸り生活の一部と言っても過言ではない程馴染んでいた。家に帰るといるのが当たり前、不覚にもいない日は不安に……はならなかったが、少し、ほんの少しぐらいなら寂しいと思わない事もなかった。
言うまでもなく教師としてそれは間違っている。だが、会ってゲームをしたり、話すくらいなら問題ないと自分に言い聞かせていた。瀬尾の言葉を借りれば『やわらかくなった』。ただそれだけの事だと。
しかし、それは酷いモノで。俺はこの甘く、緩い関係に安心を覚え、溺れていただけだ。
それに気付いたのは大雨の夜に瀬尾が俺の家へ来た時だった。
「お前、それ……」
まるで捨てられた子犬のようにボロボロで、顔は底の見えないような絶望に染まっていた。それは、あの時と──彼女の母親が事故で亡くなって間もない頃と同じだった。
「センセー、雨宿りさせてもらっていい?」
俺は返事もせず彼女を家の中へ入れ、冷えた体を風呂で暖めてくるように言った。
そして、瀬尾が風呂に入っている間、俺は必死に考えた。
警察、児童相談所に連絡するべきか。それとも……。悩んだ末、どちらでもいいから連絡すべきとスマホを手にした時、瀬尾の顔が頭をよぎった。
こんな夜遅く、しかも大雨の中、どうして俺なんかを頼ってきたんだ? この近辺には交番がある。普通なら先にそっちを頼るんじゃないか? もしかして、何か理由があって俺を頼るしかないんじゃ……。
そう思った途端、俺は動けなくなった。
「センセー。 あたし、ここにいてもいいんだよね?」
いつの間にか風呂から上がっていた瀬尾。その声はいつもより小さく、ぶかぶかの俺のシャツを着ているせいか、はたまた気のせいか。今の彼女はとても弱々しく見えて、
「瀬尾」
「あっ、あ、あぁ……ぅぅ……」
抱きしめずにはいられなかった──。
「センセー、これ」
「好きに使え」
「……うん、ありがと」
合い鍵を渡してしまえば、もう言い逃れも、後戻りも出来ないのは重々承知していた。しかし、そんな事よりも彼女が安心して居られる場所を与える事を選んだ。例え、正しい方法ではなくても──いや、正確には正しい方法よりも自分にとって都合のいい方法を選んだに過ぎない。彼女がいなくなってしまうのが怖くて。
それでもまだ"正しい人間"でいようとする俺は家で瀬尾と顔を合わせないように細心の注意を払っていた。その理由は浅はかなもので、同じ屋根の下で過ごさない事で一線は超えずにいられると思えたからだ。そんな事をしても何の意味もないのに。
──どんなに距離を保とうしても、いずれは。
今日も我が家の明かりを確認してからネカフェへ向かおうとした時、背後から声をかけられた。
「バッカじゃないの」
「瀬尾……っ!?」
「自分の家に帰んないなんてどうかしてる」
「別にいいだろ。 それくらい」
「……ねぇ、どうして優しくしてくれるの?」
「別に、俺は──」
善意などない。
ただお前が俺にとって愛おしくて、愛おしくて、狂ってしまいたい程愛おしい存在の子どもだから放っておけないだけ。俺を突き動かしているのはただの性欲と言っても過言じゃない。それこそ獣の本能と変わらないドス黒くて、自分勝手で、世界にとって許されないものだ。
「──優しくなんかしていない」
「来て」
「お、おい」
瀬尾に手を引かれ、久しぶりの我が家へ入る。
「なっ!?」
その直後、瀬尾は着ていた服を脱ぎ捨てた。
「お、お前、何してっ」
「見てよ。 どっこもケガしてないでしょ? ビックリするくらいきれいでしょ?」
「……っ!?」
俺はすぐにその言葉とこんな事をした意味を理解した。
「ズルいよね、上手いと。 これじゃあ、誰も助けてくれないよ……」
「……だから、俺のところに来たのか?」
「半分はそう。 もう半分は──センセーならまた助けてくれると思ったから」
「お前……最初から……」
「ねぇ、センセー。 あたしね、ただ好きな人に慰めてほしいんだ。 そうすれば、きっと……これからだって……生きて、いけるから……」
「…………」
「シて、くれるよね? それとも、あの子の時みたいに……はぐらかすの?」
──俺は子どもが嫌いだ。
そう言い聞かせないと抑えれない。そう言い聞かせないと"正しい人間"でいられない。そう言い聞かせないと"あの日抱いた気持ち"を認める事になってしまう。
だから、嫌い。嫌いなんだ。嫌いで居続けなければらない。そうする事で目を背け、救いのない光に手を伸ばさずにいられる。
それが、俺にとっての最後の砦。
……だが──。
「瀬尾、俺は──」
"ありがとう、センセー"
✳︎
『それでは次のニュースです。 〇〇市の男性教諭が女子中学生に猥褻行為を──』
「ほっんとバカだよね。 ちょっと優しくして、懐柔した気になってさ。 手を出した生徒に裏切られて破滅なんて哀れ過ぎるよ。 きっと、今頃いっぱい後悔してるんだろなー。 適度な距離を守れば良かった。 もっと真摯に付き合えば良かった。 ちゃんと、愛してるって言えば良かった……もう遅いよ、先生。 貴方はそこで永遠に後悔すればいいよ。 今まで貴方が泣かせてきた子たちの分まで」
──ガチャ。
「あ、おかえりなさーい」
「ん、なんだ。 まだ飯食ってなかったのか」
「だって、パパと食べたかったから」
「おい、パパはやめろ」
「じゃあ、アナタ?」
「それは十年早い」
「にひっ、待ってくれるんだもね。 魔法使いさん」
「……頼む、あの時の事は思い出させるな──」
『瀬尾、俺は先生だ。 だから、お前とはシてやれない』
『そっか。 じゃあ……』
『今はな』
『あたし、大人になってからなんかじゃ』
『少し違う』
『え?』
『男はな、三十過ぎるまで童貞を貫いたら魔法使いになれるんだよ。 知ってたか?』
『ちょっと、何言ってんの』
『魔法使いに不可能はない』
『それって』
『俺も覚悟を決めた。 だから、待つよ。 本当に大丈夫な、その時まで』
『ありがとう、センセー……おかげでいい画が撮れたよ!』
『……は?』
『いやぁ、お義父さんの悪事をバラすのは簡単だったんだけど、それしちゃうとあたし施設に入れられることになるから嫌だったんだよねー』
『お、おい、さっきから何言ってるんだ?』
『ねぇ、センセーあたしの保護者になってくれるよねっ?』
『いや、そんな事出来る訳が』
『にひっ、大丈夫だよ! さっきのでセンセーは大丈夫だって証明されたから! 味方はいっぱいだよ!』
『お前、まさか……』
『まぁ、これくらいみんなやってるからね』
「──言っとくが、あの時の事は許さないからな」
「えぇ、なんでぇー。 あれのおかげで今のあたしたちがいるのに」
「……確かに、それは一理ある」
「にひっ」
「とでも言うと思ったか! 絶対に責任は取ってもらうからな、幸羽!」
「分かってるってば、利通さん」
fin.
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