夢幻抱擁。 下 (☆)

 ・side.ケイ


 ──どうして。


「そんなの決まってるよ。 兄さんは、私の兄さんだから」

 分からない。

 俺達にとって正しい答えとは何なんだろうか。そもそも、そんなものがあるのだろうか。

「だから、ね?」

 分からない。

 あんなにも周りに優秀だと持て囃されたのに。

「兄さんは、兄さんの思うままに。 シて」

 分からない。

 もう何をどうしたらいいのか。

 分から、ない……。



 兄になった日を今でも覚えている。

 病院から帰ってきた母が抱えていた小さな赤ん坊──二つ下の妹、マイ。産毛に、丸くてシワのある顔。部屋の明かりが眩しいのか瞳は閉じたまま。初めて見た時は、何かの映画で見たエイリアンのようで、少しも可愛いとは思わなかった。

 だが、

『……ッ! ……あったかい……』

 生まれたての小さな手に触れると、俺の胸は愛おしさでいっぱいになり、頰がムズムズしっぱなしだった。



 俺が小学校に入ったばかりの頃、両親は共働きで家を開ける事が多く、兄妹でいつも一緒に過ごしていた。

『にーしゃ、にーしゃ、これっ!』

『ん、あー、あけてほしいのか。 ちょっとまってて……と、ほい』

『ふわぁ、あーとぉ、にーしゃっ!』

 マイは四歳になっても赤ちゃん言葉が抜けず、お菓子の袋だって開けれないぐらい非力だった。

 そのせいだろうか。子どもながら、兄としていつまでも守ってあげなければいけない──そう思うのが当たり前になっていた。

 それは、高学年になっても変わらず。いつも世話を焼いていた。

『に、兄さん、いいです! 自分で歩けますから!』

『はいはい、ケガ人はジタバタしない』

 その日、マイは階段で足をくじいており、一人で歩くのは無理だった。だから、俺がおぶって帰る事にした。

『うぅ……歩けるって言ってるのに』

『なに恥ずかしがってるんだよ。 昔はよく、にーしゃおんぶして、って言ってたろ』

『ち、小さかったからだもん! あと、赤ちゃん言葉のことは言わないで!』

『……分かっしゃ』

『もう! バカ!』

 マイをからかったのは、ほんの出来心だった。

『──ッ!』

『兄さん?』

『へ、な、なんだ?』

『急に、ボーっとしてどうしたの?』

『別に、何でもない』

 本当は、からかってマイが少し暴れた時。マイの髪が俺の首筋に触れ、胸がムズムズするような──言い知れない感情を抱き、忘れられない感触を刻まれていた。

 でも、それをマイには言ってはいけない気がして、嘘をついた。



『はぁ? 妹なんかメーワクなだけだろ』

 後日。俺は、あの気持ちが何だったのか知る為に、同じ妹を持つ友人に相談した。しかし、そいつから教えてもらえたのは、

『お前、もしかしてシスコンなのか?』

『なんだよ、それ?』

『妹が好きで好きでたまらないやつのことだよ。 まぁ、ビョーキだな』

 ただの呪いだった。

『……なわけないだろ、バーカ』

 本当は、マイを好きになる事がなんで病気なのか理解出来なかった。いや、したくなかった。

 だがしかし、この気持ちは抑えないといけないのは間違いない。だから、この気持ちを抑える術を考え、導き出した答えは、正しい人間──すなわち優等生になる事だった。

 我ながら単純過ぎてバカだと思わざるを得ない。しかし、当時の俺にとっては最善の選択。常に、優等生であろうとしていれば、間違いを犯すはずがないと愚直なまでに信じていた。

 それに、マイがそんな俺を尊敬してくれれば嬉しい。なんて下心もあった。

 本当に、バカだ。今さら後悔しても無駄なのは分かっているが、もう少しマシな答えを出していたら未来は変わっていたかもしれない。マイへの気持ちを認めて、普通のシスコンになるとか……。

 それから得意でも、好きでもない勉学と運動に励み、やりたくもない学内活動に従事した。血を吐くような思いで。

 その結果。俺は、親も、周りも──いや、マイが認め、尊敬してくれる優秀な兄になれた。

 しかし、それが仇となる。

『ケイは、もっといい点を取っていたわ。 貴方も頑張りなさい』

『……はい……』

 父に説得され、仕事をやめた母が俺とマイを比べるようになった。俺が優秀であればある程、マイは傷つき、疲弊していく。心も、体も。

 誰が悪いなんて事はない。偶々、時期が悪く、糸が縺れただけかもしれない。

『母さん、ちょっといいかな。 マイの事で大事な話があるんだけど』

 だが、それは兄の俺が知った事ではない。

 俺は兄としてマイを庇い、勉強を教えた。しかし、それでマイが救われる事はなく、少しずつ光は失われていった。

『ただのケアレスミスだ。 次から気をつければいいよ』

『……うん、ごめんなさい……』

 俺は、マイが申し訳なさそうに謝る度、歯痒くてしょうがなかった。

 なんでなんだッ! マイは、こんなにも努力して、あんなにもつらい思いをしても、諦めずに頑張っているのに……なんで報われないんだよッ!

 世の中、間違っている。何度そう思ったか分からない。だが、努力が全て報われない事ぐらい俺にはよく分かっていた。

 どんなに手を伸ばしても届かない。世の中には、必ずそういうものがある。

 だから、どんな犠牲を払ってでも、手にしたいものがあるのだ。誰にでも。

 しかし、犠牲を目前にすると、人は躊躇う。なまじ知恵があるばかりに。

 言い訳にもならないが……きっと、俺はその狭間で疲れていたんだと思う。だから、あんな事しか言ってやれなかった。


『俺みたいにならなくていいッ!』


 ──どうして、もっとマシなことを言ってやれない。


 マイは俺の後をついて来てくれただけだ。自分の意思で。なら、それを認めて──受け入れてやれば良かったんだ。

 なのに、俺は『長所を伸ばせ』なんて気の利かない優しさしか言ってやれなくて。

 その結果が、

『……ぁ……ぁ……』

 虚ろな瞳で横たわるマイだ。

 次こそいい点を取ると、力なく笑うマイを見て、胸が締め付けられた。考えを改めてほしくて──いや、俺の考えを押し付けたくて、肩を掴んだ。母のように。

 そして、蘇ってしまった。手に触れた髪からあの感触が、あの気持ちが。

 それは、パチッと弾け、一気に燃え広がる。凄まじい勢いで、未熟者には止められない業火。気付けば、欲望に身を任せてしまっていた。

 俺は、自分を抑える術を身に付けた優秀な兄のつもりでいたが、そんな事はなかった。ただ優秀な自分に陶酔し、溜め込んでいただけだった。

『に、にぃ……兄さん……』

『──ッ!』

 マイのおかげでギリギリ。本当にギリギリのところでとどまれた。しかし、兄でいられない罪を犯してしまった事実は変わらない。俺は、マイに軽蔑されてお終い。そうなるべきだった。

 なのに、違っていた。

 マイは、こんな俺でも「私の兄さんだから」と受け入れてくれた。にも関わらず、俺は──"どっちつかず"のままでいる。

 俺の作り上げたあにが互いの気持ちに応えさせない。だが、俺は自分の欲望を完全に抑える事も出来ない。最悪の状態だ。


 ──どうして、こうなってしまったんだろうか。


 俺はただ、何よりもマイが大切なだけなのに。


 ✳︎


 ──夕食時。


「マイ、これ……」

「ポテトサラダ、好物ですよね?」

「あぁ、よく覚えてたな」

「当然です。 兄さんの妹なんですから」

「……なぁ、マイ。 今度、二人で旅行に行かないか?」

「いいですね。 どこへ行きますか?」

「そうだな──」


 "とりあえず、遠いところへ行きたいな。 うんと遠くへ"

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