夢幻抱擁。 上 (☆)

 私達はポテトサラダだ。

 誰かが決めてくれないと、

 主食か、おかずかも、分からない。

 でも、誰かが決めてくれても、

 何にもならない。

 そういう運命の元に生まれている。

 だから、私達は、

 何にもならない事を選ぶしかない。


 ✳︎


 潤む瞳に映るのは見た事のない兄の姿。覆い被さり、荒い呼吸。優しいはずの声が私を縮こませる。

 なんで? どうして? そんな疑問を遮るように兄の舌先が触れ、甘い痺れが脳を駆け巡る。それから逃れたくて、身を捩り必死に抵抗しても、抑えつけられてはどうしようもなかった。

 ──ドクン。

 顔が熱い。

 ──ドクン。

 胸が熱い。

 ──ドクン。

 お腹が熱い。

 ──ドクン。

 中心が熱い。

 体中が熱に支配されて、ようやく気付いた。

 そうか、私は──兄に犯されているんだ。



「おはよう、兄さん」

「……。 おはよう、マイ」

 朝のリビング。私の顔を見て兄は少し戸惑ったような表情を見せたが、母に不審がられまいと、いつもと変わらない笑顔を返してくれる。本当は、内心でビクビクしているはずなのに。

 昨日、私はどうしても勉強で分からないところがあり、兄に教えてもらおうと部屋を訪ねた。

 ──コンコンコン。

 ドアを叩くと、いつもの優しくて、憧れの兄が部屋へと迎え入れてくれた。そして、いつものように丁寧に勉強を教えてくれた。

 あの時までは。

「随分と小食なのね」

「今日は、ちょっと早めに学校に行かないといけないから」

「あら、そうなの。 また生徒会? 大変ねぇ」

「まぁ、そんなところ。 それじゃあ、いってきます」

「待って、兄さん」

「っ!? ……どうした、マイ?」

「私も、一緒に行く」



「…………」

「…………」

 家を出てから沈黙が続く。

 あまりにも静かなので、トクン、トクンと、忙しいない胸の鼓動が聞こえてくる気さえする。

 兄は、一切こちらを見ずに前だけを向いていた。言うまでもなく、必死に平静を装おうとしている。しかし、それは私が触れるだけで簡単に崩れた。

「なっ!? やめろよっ!」

 怯えたような顔で私の手を払い除ける兄。それでも、私は兄の手を握る。だって、兄の気持ちは手に取るように分かるから。

「汗、かいてる」

「ち、違う、これは……」

「嬉しかったよ。 あんなにも愛してくれて」

 ばつの悪そうな顔をする兄。

「だから、全然平気だよ? 寧ろ」

 そっと、兄の中心に手を添えると、兄の体がピクリと震え、頰が赤く染まっていく。

「ダメだっ!」

「なんで?」

「……俺たち、兄妹なんだぞ……」

 だが、すぐ真っ暗に、沈んでいった。

「なら、一番大事なことをしなければいいんだよ」


 ──そう、昨日のように。

『あ……んあ……あっ……ふぅ……っ!』

『マイ、俺、もう──』

『に、にぃ……兄さん……』

『──ッ!』

 私の中心に兄が収まっている時。私の中に何かが込み上げていた。熱いと感じる何かが。

 しかし、

『ごめん、ごめんな……』

 それは中ではなく、私の表面うえ

 あの時、兄が何に対して謝っているのか分からなかった。十四歳の妹に手を出し耐え難い痛みを味合わせた事か、自分のドス黒い欲望を抑えれなかった事か、真っ白な私の衣服を汚した事か。それとも──。


「そうすれば、ずっと兄妹のままでいられるよ」

 私は力なく項垂れる兄に、

「こうするの好きだよ。 だって、兄さんはとても甘いから」

 ゆっくりと、唇を重ねる。

 互いの気持ちを確かめるように。



「おかえりなさい」

 学校を終え、家に帰ると、さも当然のように母が迎えてくれた。その声は柔らかく、穏やかな雰囲気を放っている。しかし、そこに暖かさを感じる事はない。何故なら、それは嵐の前の静けさに他ならないから。

「ケイはもっといい点を取っていたのに」

 今日返却されたテストの答案用紙を見せるや否や、さっきまでの柔らかさが嘘のように消え、深くため息をつく母。次に発せられる言葉は嫌でも分かる。

「ねぇ、来年には、受験なんだからそろそろ塾に入らない?」

「別に、入らなくても。 兄さんだって入ってなかったし」

「貴方とケイは違うのよ」

 私と兄は違う。その言葉が、重くのしかかる。

 兄は全国模試で一桁に入る程優秀。それにひきかえ定期テストのクラス順位すら下から数える方が早い私。学年単位で見ればもっと酷いだろう。

 そんな私を才人の母が快く思うはずがなく、この不毛なやり取りを何度も繰り返している。

「でも、兄さんに教えてもらうのに慣れてるから。 今さら塾に行っても」

「前にもそう言ってだけど全然上がってないじゃない。 それに、そうやっていつまでもケイに甘えてるのはいけないと思うわ。 貴方の為にも」

 嘘つき。

「大体、ケイにだって自分の勉強があるのよ? 万が一にでも、貴方の面倒を見ていたせいで学校の勉強についていけなくなったらどうするの?」

 結局、母が心配しているのは優秀な兄。不出来な妹には、何の心配もしておらず、邪魔にさえならなければいい。だから、隔離する為の檻に入れたいのだ。

 グッと右手に力がこもる。しかし、すぐに緩んだ。

 母の言っている事は正しい。私はどうやっても兄には追いつけないし、迷惑をかけているのも事実。結局は、兄以外に頼りたくないと、ワガママを言っているに過ぎない。そんな甘えた私に厳しく接するのは親として至極当然の事だ。

「そんなの入らなくていい」

 怒気を含んだ声にも関わらず、私の胸は火を灯してもらったかのように暖かくなる。隣を見ると、険しい顔つきをした兄が母を睨んでいた。

「あら……帰ってたの」

 言うまでもなく、母は蛇に睨まれた蛙のように萎縮している。

「ちょうどね。 それより、それくらいでついていけなくなったりしないし、マイに教えるのは俺にとってもいい勉強になるって言ったろ」

「でも、中々上がらないし、ちゃんとした先生に見てもらった方が……。 別に、ケイを責めてる訳じゃないのよ?」

「じゃあ、そうすれば結果が出ると、本当に思ってるの?」

「それは……」

「……。 だったら、もういいだろ」

 兄は母に背を向け、リビングを後にしようとする。

「それに、マイは俺みたいにならなくていい」

 それは、今にも消えてしまいそうな程儚げな声で、兄の顔色を伺っている母の耳には届いていない。

 恐らく、それを届けたかったのは私。


 ──昨日の事を思い出させる為に。

『ありがとう、兄さん。 おかげでバッチリだよ』

『そうか……なら、良かったよ』

『どうかしたの?』

『なぁ、マイ。 俺は、無理に勉強しなくてもいいと思うぞ』

『え、なんで』

『それは、世の中勉強が全てって訳じゃないし。 ほら、マイは……女の子なんだしさ』

『女の子、だから?』

『りょ、料理得意だろッ? だから、苦手な勉強じゃなくて得意な方を伸ばせばいいと思って、その……女の子は料理が出来るといいって、よく聞くしさ……』

『ありがとう、兄さん。 そう言ってもらえて嬉しい』

『じゃあ』

『でも、大丈夫だよ。 勉強は好きでやってるから』

『…………』

『心配かけてごめんなさい。 次こそいい点取るからね』

『……いい……』

『兄さん?』

『マイは、俺みたいにならなくていいッ!』

 どうして、それを思い出させたのかは、分からない。でも──。


「ありがとう、兄さん」

 私は、もっと小さな声で返事をしておいた。決して、届かないように。


 ✳︎


 ──マイには、見えたの。


 私、マイにとって兄は誰よりも身近な存在。それは、かけがえのないもう一人の自分といってもいい。

 いつも世話をしてくれて、いつも一緒にいてくれて、どんな時でも優しく手を握ってくれる。そして、泣いて、笑って、ケンカして──強く、強く繋がっていた。それこそ、同じ日に生まれた双子のように。

 だから、ずっと兄妹一緒だと信じて疑っていなかった。

 なのに、兄は中学に入る前から私と距離を置くようになった。それまでは、どんなに断っても世話を焼いてくれたり、ちょっとした足のケガくらいで気遣って背に乗せてくれていたのに。

 しかし、距離を置くといっても直接避けたりする訳ではない。少しずつともにいる時間が減り、いつしか兄の部屋に入る事さえ難しくなっていく。至極、緩やかなものだった。

 周りに聞けば、それくらい普通なのは分かる。だが、心がそれを分かってくれない。

 私は──マイは兄離れなんてしたくない。

 だから、兄と離れなくていい方法を考えた結果、兄の背を追いかける事にした。そうすれば、また兄は私の手を取ってくれる。隣を歩ける。そう思っていた。

 しかし、それには二つ誤算があった。

 それは、無能な私と母のプレッシャー。前者は言うまでもなく届かない歯痒さ、後者は私の心を擦り減らせた。

 つらい、投げ出したい。何度、涙を流したか分からない。

 それでも、私は兄と一緒にいれる小さな幸せを手放したくなくて、食らいついた。求める未来もないまま、疲弊しボロボロのまま。

 きっと、あれがなくても長くは持たなかった。だから、あれは兄なりの救いだったのかもしれない。

 いや、流石にそれは都合のいい解釈過ぎる。

 それに、例えそうだったとしても、方法は最悪で許されるものではない。

 それでも、兄を拒絶、軽蔑しなかったのは私には分かるから。

 誰よりも、兄よりも。


 ──私達のあるべき姿が。


 ✳︎


 今日、家にいるのは私達だけで、両親は明日になるまで帰ってこない。だから、リビングで身を寄せても、誰にも咎められない。

「上手に出来てた?」

「あぁ、最高だったよ」

 あれから、私は兄に全てを捧げた。

 兄の気持ちに応える。兄がしたいのならしょうがない。兄の為ならどんな事だって出来る。そんな後付けの理由はいくらでも生まれた。

 しかし、そんなものは必要なかった。何故なら、言葉に出さないだけで、間違いなく私達は愛し合っている。

 でも、日に日に兄の表情は陰っていく。欲望を叶え、どんなに満たされていようとも、最後には寂しそうな顔をする。それを隠そうと口元だけ笑うが、逆効果でしかない。

 何故なら、笑っていない瞳が容赦なく、私の胸を貫くから。

「ねぇ、兄さん」

「どうした?」

「私の髪に触りたくない?」

「……何でそんなこと聞くんだ?」

「何となく」

「……触りたいよ」

「ふふ、やっぱり。 そうだと思った」

 兄は私の髪に触れると、いつも切なさそな顔をする。だが、それと同時に口元──笑窪がピクピクしている。だから、心の中で喜んでいるのは確かだ。

「……マイ……」

「また、シたくなった?」

「……ああ」

 軋むソファーがやけに冷たい。

 いくら名前を囁かれても、唇を重ねても、互いの気持ちを確かめ合っても、届かない。すぐ近くに見えて、手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。

 それは、遥か遠くにあって、追いかければ追いかける程、遠のいていく。そして、次第に意識は薄れ、失速し、暗闇に……落ちて、いく……どこまでも、どこまでも……。

「もういい。 もうこれで最後でいい、だからッ!」

「……いい、よ……兄さんが、そう……したいなら……」

 妹を、選ばないなら。

「マイ、俺は……ッ!!」

 甘く痺れるような波が私の脳を揺さぶる。

 それは、大好きなチョコレートを直接血管に流しこまれ、無理矢理摂取しているような快感。それが胸に到達し、トクン、トクンと高鳴る。この鼓動の先には──きっと。

 しばらくして、甘い、どこまで甘い小波が私を現実へと引き戻す。

「ごめん……のぼせてた……」

 けど、そこに幸せはない。

「はぁ、はぁ……ううん、信じてたよ……わたしを選んでくれるって……」

「俺は、ただ……」

「やっぱり、兄さんは私の憧れだよ。 優しくて、いつも守ってくれる……マイは、そんな兄さんが好き」

 項垂れる兄を抱きしめ、唇を重ねる。

 兄は甘い。

 だから、"私達は何にもなれない"。今日も、明日も、これからも。


 ✳︎


 ──遠い過去。


『にーしゃ、にーしゃっ! これ、ごはん、おかじゅ?』

『ん、ポテトサラダかぁ……そうだなぁ……たぶん、どっちもなんだとおもうよ』

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