のッとイこぉる。 (☆)

 ──ビリッ、ビリッ。


『あー、またやぶいてるー』

『えぇ、すごくじょうずだったのにもったいないよ』

『なんで? こうしたほうがとくべつになのに』

『え? とくべつ?』

『いいよ。 わからないなら』


 あいつの惜しげもなく絵を破く姿は、いとも容易く俺の心を奪った。


 ✳︎


 ──ある日、幼馴染がレイプされた。


「でさ、半年前に貸した五百円を今さら返してきたんだぜ? ほんと、よく覚えてたよな」

「…………」

「っと、だいぶ暗くなってきたな。 そろそろ帰るよ、またな」

 今日も、固く閉ざされた扉が開く事はおろか、物音すら聞こえてこなかった。

 重い足取りで階段を降りると、あいつの母親にまた謝られてしまった。俺は『好きでやってる事ですから』と返し、定例となった礼とまた来る旨を伝え、あいつの家を後にした。

 外に出ると、肌を切り裂くような冷たい風に襲われた。あれからそんなにも時が経った事を認めたくないが、そんなセンチメンタルな気持ちには、お構いなしに風は冬を告げてくる。

 容赦のない寒さに、身を震わせながら家路を辿っていると、薄暗い明りを放つ自販機が目についた。ポケットの中には、ちょうど小銭がある。なので、暖をとる為に缶コーヒーを購入した。

「…………」

 どういう訳か、久しぶりに飲んだ缶コーヒーは全く苦いと感じなかった。それどころか、これくらいじゃ足りないとさえ思う。

「随分と、慣れちまったんだな」

 かじかんだ手で缶コーヒーを強く握りしめる。

 最後に、あいつの顔を見たのは八月下旬。二人で河原へ行った時──

『なんで不機嫌なの?』

『なんでって。 あのな、せっかくの夏祭りだってのに、何が悲しくてこんなとこで市販の花火をやらなきゃなんねぇんだよ』

『だって、こういう時こそ二人でしたくなるんだもん』

『さいですか。 俺はこういう時こそ、普通に……』

『じゃあ、帰る?』

『……帰らねぇ。 ほら、貸せよ。 二人でやるんだろ?』

『うん、そう言ってくれると思った』

 ──シュッ、ボゥ、バチバチ、パチッ。

『線香花火、綺麗だね』

『そう、だな』

『ねぇ、合体させるとより綺麗になるよね?』

『その分、早く落ちるけどな』

『もうロマンがないなぁ』

『お前に言われたかねぇ』

『……えいっ』

『お、おい!』

『くふふ、がったいかんりょーですっ』

 強引にくっつけられた線香花火、あいつの妖艶な笑み、心臓を鷲掴みされたかのように高鳴る俺の胸。

 それが、どれ程幸せな事だったか。

 その時は、全く理解していなかった。何故なら、それは息をするのと同じくらい当たり前で、ずっと続くと思い込んでいたから──。

「そうか、俺は……」

 怒っているのか。

 もし、そうだとしたら……一体、何処にぶつければいいのだろうか。ぶつけるべき相手がいない怒りは。



 家へ帰ると、また不満げな顔をした母さんにお小言を食らう。

「聞いたよ、あんた今日も行ってきたんだって。 もういい加減にして。 いくらあんたが行ったところで意味ないんだから。 大体、あんたが行く度に電話をされる身にもなって──」

 それは、壊れたレコードのように繰り返し聞いてきたセリフ。毎度毎度、一字一句間違えずに言えている事だけは賞賛したい。だが、言っている事は間違いだらけだ。特に、あいつの事に関しては。

 しかし、言い返したところで何の意味もない。無数の色を混ぜ合わせると、結果的に黒が出来上がるのと同じ。虚しいだけだ。

 だから、

「──ねぇ、聞いてるの?」

「今日、夕飯はいらない」

 距離を置く。それが、ベストな選択だ。

 とはいえ、すんなり行かせてくれる訳はなく、母さんは年不相応な声でぎゃんぎゃんとわめき散らかした。だが、そんなものは無視して、容赦なく自室に戻る。そして、糸が切れた人形のようにベッドへ倒れ込む。

「ち……っくしょう……」

 正直、迷惑をかけている自覚はある。悪いとも思っている。だが、母さんはあいつの事をまるっきり分かっていないクセに分かったような事を言う。

 それが、たまらなく煩わしい。

 だから、聞く耳を持ちたくない。

 そういうところが、ガキなのは分かっている。しかし、そこは譲れない。譲ってはいけない。

 あいつの側に居続ける為には。


 ──幼い頃から、あいつは変わっていた。


 いつも人とは違う事をしたがり、普通を嫌う。あいつ曰く、それが呼吸らしい。

 そして、くだらないルールを守らなかった。それどころか、相手を言い包め、自分に従わせていた。

 そう、あの時もだ。

 小学生の頃、あいつは入ってはいけない裏山で遊ぼうと提案してきた。無論、俺は反対した。

『みんな、ダメっていってた。 だから』

『くふっ。 じゃあ、ついてこないでね』

 しかし、あいつが俺を置きざりにして裏山へ入ると、追わずにはいられなかった。

 あの時は、どうしてそんな事を言い出したのか分からなかったが、今なら分かる。あいつは、俺を試す為にルールを破らせた。

 だから、

『ゆーびきーりげんまん、うそついたら、はりせんぼんのーます。 ゆびきった!』

 大切な約束をしたんだ。

『ぜったいにわすれちゃダメだよ?』

『わ、わかってるよ』

『くふっ、あかくなってる。 か〜わいっ』

『ばっ!? な、なってねぇよ! ゆ、ゆうひだ……ゆうひのせいだっ!』

『まっかなおかおの〜、てれやさんだ〜』

『へんなかえうたやめろぉー!』

 本当に、大切な、約束を。

『ねぇ』

『あーもう、なんだよっ』

 ──チュッ。

『なっ、ななな、んなぁっ!?」

 あの時の風景も、

 頰に触れた柔らかくて暖かい感触も、

『おとなになったら、こっちに、ね?』

 夕陽より眩しいあいつの笑顔と、

 ほっそりとした指で抑えられた桃色の唇も、忘れた事はない。

 ただの一度も。

『……わかってるよ、おれはおまえの──』


「──……夢か」

 そういえば、あの時も今みたいに寒い冬だった。

「…………」

 スマホを手に取り、時刻を確認すると、深夜の二時過ぎだった。

 ふと"この時間なら返事をくれてもおかしくない"と思い『三ヶ月』とだけ書いたメッセージを送った。

 無論、朝になっても既読はつかなかった。



 週末の日曜日。

 今日も、俺はあいつの家に行き、あいつの部屋の扉に背を預け、あいつを呼ぶ。

 飼い主を待つ子犬のように。

「なぁ、頼むから出てきてくれよ。 あの時、約束したろ? 俺は、お前の"側にずっといる"って……だから……」

 情に訴えたところで意味がないのは分かっている。しかし、俺にはそれ以外の方法が思いつかなかった。何一つ。

「……一人にしないでくれよ……俺は、お前だけが……お前がいないと……」

 ──カチャ。

 それは、誰もが知る鍵が開く音。

 トクン、トクンと胸に火が灯る。

 一縷の望みを手にした俺は、ドアノブに手を掛け、ゆっくりと捻る。

 無機質な音とともにドアを開け、部屋へ入るが、

「何だよ、これ……っ!?」

 そこに俺の期待するものはなかった。

 机も、本棚も、ベッドも、タンスも、何もかもがなくなっており、まっさらな部屋になっていた。そう、塵一つすら見当たらない程に。

 そして、あいつの姿さえもなかった。

「どうして、何も……どうなって……」

 ──ガチャンッ!

 何故、ドアが閉まったんだ?

 あいつの母親はついさっき出かけて、この家には俺と"あいつ"以外誰もいない。

 この部屋には"俺"しかしいないはずなのに。

「くふっ」

 懐かしい笑い声が耳に入る。

 俺は、ゴクリと唾を飲み込む。

 そして、恐る恐る振り向く。すると、そこには──真っ白な肌をしたあいつが立っていた。

「ねぇ、どうして何もないと思う?」

 あいつは、

「あの日から、ずっと会えていないなんて変だと思わなかった?」

 ゆっくりと、一歩ずつ、

「なんで私の親は貴方が来る度に電話をしたのかな?」

 俺との距離を縮めた。

 そして、

「ずっと、黙って……もしかして、分からない? 教えてあげようか?」

 目の前に立ち、ニヤリと笑った。まるで新しいオモチャを手に入れた子どものように。

「よーく思い出して。 あの日、一人だけ死んだ人がいるよ。 一人だけ、ね」

 確かに、一人だけ死んだ人間はいる。だが、それは、あいつをレイプした──

「──犯人。 って、思ったでしょ?」

「っ!?」

「くふっ、なんで私が無事で犯人が自殺するの? それって、おかしくなーい?」

「…………」

「よーく思い出して。 あの日、本当に、死んだのは──私、なんだよ」

 あいつの手がそっと俺の頰に触れる。

 その手は……とても冷たかった。

「くふっ、くふふふふ、現実逃避なんてするからぁ」

 ああ、そうか。そういう事か。全て理解した。

「化けて、デちゃッたァ♪」

 歪んだ笑顔。語彙力のない俺にはそんな安っぽい表現しか思い浮かばなかった。本当はもっと、複雑で、品のある表情をしていたのに。

 あいつの冷たい手が俺の首を絞めあげる。赤子の手を捻るように、優しく。

「ねぇ、寂しかったァ?」

「…………」

「一緒のトコ、連れテッテあげヨウかァ?」

「…………」

「くふっ、また黙リ。 しょうがナイなぁ」

「……れよ……」

「ん?」

「……連れて、いって、くれよ……」

「くふっ、しょうがないなぁ。 まぁ、初めからそのつもりで」

「……ただし……お前が、本物の幽霊ならなっ!」

「へ?」

 勢いよくあいつの脳天にチョップをかます。

 すると、あいつは痛そうに頭を抱えながら、その場へしゃがみ込んだ。

「いたた……いきなり暴力振るうなんて信じらんない」

「信じらんねぇのはこっちだ、バカ! なんだよ、この茶番はっ!」

「……こほん、私は幽霊。 死んだの」

「もうそれはいいから」

「えぇー、ちゃんとなりきるために二十分も水風呂に浸かって、ボディペイントもして、わざわざあんな狭い押入れで待ってたのにー」

「そんな苦労は知らん。 というか、こんな事をするために部屋まで」

「いや、それは関係ないよ。 単に、要らないから捨てただけ」

 その発言に何となくイラッとしたが、ここは抑える。

「……なんで幽霊ごっこなんてしたんだ?」

「必要だったからよ」

「はぁ……さいですか。 それはそうと、早くその格好なんとかしろよ。 目のやり場に困る」

「なんで? 男の子ってこういうのが良いんでしょ?」

「別に、良いってわけじゃ……」

「じゃあ、嫌なの?」

「そうじゃないけど……じゃなくて、慎み! 慎みが大事なんだ! てか、なんで裸なんだよ!」

「だって、幽霊が服を着るなんて変じゃない」

「ゔっ、お前そんな理由で……」

「それに、貴方には見てもらわないと」

「ッ!」

 つい視線を逸らしてしまう。しかし、そんな事に意味はなく、

「ダメ、ちゃんと見て」

 顎を掴まれ、無理矢理視線を戻させられた。

「どう?」

「どうって……」

 艶があり、長くて綺麗だった黒髪は、ボサボサで、無残に切られ長さがバラバラ。顔には刃物の切り傷があり、前歯はない。体中には無数の火傷の痕に、左の乳房は少し垂れている。右の乳首に至っては、何かで潰されたかのように痛々しい有様。そして、下腹部は……想像すらしたくなかった。

「酷い目にあったんだな」

「えぇ、とっても痛かった」

「道理で嬉しそうなわけだ」

「あ、やっぱり分かるんだ」

「当たり前だろ」

 俺は、お前の唯一の理解者なのだから。

「くふっ、あの顔。 貴方にも見せてあげたかったなぁ。 暴力で私を屈服させたつもりになっても、最後の最後で、本当に屈服していたのは自分だと気づく。 あの下らない三文芝居を」

「別に、そんなの見なくていい」

 お前が誰よりも強い事くらい──よく知っている。

「なぁ、なんで三ヶ月も無視したんだよ」

「だって、三カ月って言葉好きでしょ?」

「なっ!? それは、三ヶ月分の給料で買う指輪の話だろ……」

「ふーん。 まぁ、そんなのいいじゃない。 何度も足を運ぶ健気な少年の愛がレイプで傷ついた少女の心を癒した。 大人は、そういうドラマが好きでしょ?」

「……ああ、そうだ。 大人はそういう三文芝居が大好きだよ」

「くふっ。 じゃあ、これで私と貴方の仲を裂こうとする人はいなくなるね」

「……だな」

 あいつの父親は、あいつが俺と関係を持つ事を快く思っていなかった。成り上がりとはいえ、上流階級の人間になれば世間体を気にする。だから、俺みたいなやつは目の上のたんこぶでしかない。

 あいつは、それを何とかしたいと度々ボヤいていた。しかし、いくら父親に反対されていても、自分からレイプされにいくような女(やつ)じゃない。だから、偶々レイプされた事を利用しただけ。

 誰よりも強い心で。持ち前の精神的優位で。

 打ち勝った、自分の運命(リアル)に。

「やっぱり、すごいよ。 お前は」

「あら、急にどうしたの?」

「別に。 そう思っただけだよ」

 心の底から。

「ふーん、変なのぉ」

「お前に言われたかねぇ」

「……えいっ」

 いきなり押し倒され、背中に鋭い痛みを感じる。

「……っぅ……おい、何すん──!?」

 その時、あいつからポタリ、ポタリと液体が垂れてきた。

「私ね、すっごく汚れてるの。 分かる?」

「そう、だな。 真っ白になる、くらい……汚れてるな」

「うん、だから──」

 その液体が涙なのか、汗なのか。はたまた、別の何かなのか。

 俺は、考えない事にした。何故なら、そんな事はどうでもいい。

 今、必要なのは、真っ白なあいつに色を塗る事だから。

「──くふっ、あかくなってる。 か〜わいっ」

「ばっ、バカ……言うなよ……」

「だって、初めてでもないのにそんな反応するから、ね」

「あ、あの時は、ノーカンだっ! い、勢いだけで、俺の意思じゃ……」

「だったら、私の初めてはあの人になるけど?」

「河原での件はバリバリ俺の意思でした」

「うん、そう言ってくれると思った」


 ──俺の幼馴染は変わっていて、普通を嫌い、常識(ルール)を守らない。


 それを異常だと言うやつもいるが、俺はそうは思わない。

 何故なら、あいつは誰よりも強くて、誰にも屈服しない強い心の持ち主。そこに異常性なんかない。寧ろ、どんな事があっても、あいつはあいつのままでいられるすごいやつだ。

「ねぇ」

 そんなあいつに憧れ、ずっと側に居たいと思う。

「まだ大人じゃないけど、こっちに……してくれるよね」

 でも、それと同時に"あいつの心を壊したい"とも思っている。

 だって、そうすると特別だから。

「ああ、する」

 だから、今日も『好き』と言って、側にいる。いつか来てしまうかもしれない、終わりの時まで。

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