「世界は案外美しいだろう」と、先輩は言う。
とらたぬ
「世界は案外美しいだろう」と、先輩は言う。
星が落ちてきそうな夜だった。
満天の光粒を湛えた空は、まるで黒く美しい宝石のようで、一瞬で私を魅了した。
ふわふわと体が軽くなったような気がして、手を伸ばす。一歩、二歩、と踏めば、身体は羽のように軽く、あの美しい空へと近づいて行く。
あと少し、あと少し。そう思考して──
「それ以上行くと死ぬよ、後輩」
声が聞こえた途端、私の足は鎖に巻きつかれたように重くなってしまった。
これでは、もう空に近づけない。
「……どういうことですか、先輩」
「足下」
不満を隠さず言った私に、先輩は短く返す。言われた通りに足下を見ると、いつの間にか地面がなくなる寸前だった。
「ぁ……」
腰が抜ける。高いところはダメだ。崖下まで十メートル以上はある。
もしも落ちてしまったら、と想像して思わず泣きそうになった。山は怖い。
「ほら、腰抜かしてないで戻っておいで」
そんなところにいて、地面が崩れたら死ぬよ。そんな風に脅かされ、私は喉の奥で引きつったような悲鳴を上げながら、先輩の元へ這い戻った。
先輩がくつくつと肩を震わせ、「死ぬんじゃなかったのか?」と揶揄ってくる。
言われて思い出した。
そうだ、私は自殺しようとしていたのだ、と。けれど、この山に辿り着いた私を、どこからともなく現れた先輩が、
「何だ、死ぬのか? もったいないなあ。
……良いものを見せてあげるから、考え直してみ?」
と引き留めたのだ。
そうして見せられたのが、この夜空だった。確かに心が吸い込まれてしまいそうな程綺麗な景色だったけれど、私の決意は固い。
……でも、今日はやめておきます。
べつに怖くなったとかではない。興が削がれたのだ。それに、先輩の前で死ぬ、というのもなんだか嫌だった。
この日から、先輩は私が自殺しようとすると、必ず現れるようになった。そして、あの夜空と同等か、それ以上に美しい景色を私に与え、引き留めるのだ。
夜に向かう空のグラデーションや、朝日に照らされた湖。何でもない交差点に、雲間から射し込んだ陽が作る異層の光溜り。どれもがこの世のものとは思えない美しさで、私を魅了し続けた。
一年程経つ頃には、決意が薄れ、自殺と言いつつカメラを持って行くようになっていた。毎回、そんな私に、先輩は言うのだ。
「どうだい、世界は案外美しいだろう」
と。
さらに一年が経ったその日、先輩は言った。朝焼けの中だった。
「なあ後輩。後輩をこの世界に縛りつける楔は、十分に打ち込んだつもりだけど、まだ死にたいと思うか?」
笑みを浮かべて言う先輩の身体は薄く透け、端の方から徐々に崩れ始めていた。
「当たり前じゃないですか、死にたいに決まってます」
言った声は涙を含み、震えていた。
先輩が幽霊だということには、ずっと前から気づいていた。
──だって、私の自殺は、先輩を死なせてしまった後悔から来るのだ。
気づかない筈がなかった。
だから、
「ほら、どうしたんですか、いつもみたいに綺麗な景色を見せてくださいよ!? それで、世界は案外美しいだろって、いつもみたいに笑ってくださいよ……!?」
じゃないと死にますよ、と脅す私に、先輩を笑みを向けて、
「後輩は、嘘が下手だなぁ。それに、泣き虫だ。強がってばかりは、昔から変わらない。
もしも奇跡が起こせるのなら、後輩ともっといたかったけれど……うん、もうお別れだ。
……後輩との日々は楽しかったよ、ありがとう」
消える。消えて行く。
散って行く光の粒をかき抱くように集めても、触れることすらできない。
どうして、と喚く私の頭を、先輩は消えかけの手で撫でて、
「さようなら」
消えた。
形を保てなくなった先輩が砕け、光粒が散る。風に拐われるようにして、先輩の残滓は朝焼けに溶けて行った。
それは今まで見せられたどの景色よりも美しく、私を魅了する世界の真相だ。
もう、涙は、零れなかった。
「世界は案外美しいだろう」と、先輩は言う。 とらたぬ @tora_ta_nuuun
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