魔女のワックス
白瀬直
第1話
未だ戦時下にあるグリダニア公国においてこの言葉を使うのは後ろめたいところもあったが、軍事上劣勢であったと言わざるを得ない四年前と比較するならば、やはり本日、グリダニアは平和であった。
ここ二年で戦況は大きく変化した。周辺で起きていた紛争もその大半を鎮圧することに成功し、近隣国と同盟を布くことになったグリダニアの事実上の戦線は遥か西へと移った。国境周辺で頻発していたアルテマ魔族軍ゲリラの目撃証言も、ここ数ヶ月は駐屯隊の活躍により日々減少傾向にある。
今となっては、戦線へ向かう公国本軍より、国境周辺の警備にあたる駐屯隊より、周辺国との折衝が激しく行われている内政担当官の方が命の危険は多いと、記者クラブではもっぱらの噂である。
ダンツィヒが、半年前から被り始めた制帽が未だに似合わないのをほんの少し気にしながら午後の伝達項目に目を通していると、丁度、交代のマルセルが警邏から戻ってきた。
「よぉダンツィヒ。今日お前か」
「お疲れ。引継ぎあるか?」
「いや、特に。何も無くて退屈だった」
マルセルは、口の端に煙草を咥えながら器用に欠伸をした。
「そりゃまぁ、良いことだ」
煙草を咥えながらの警邏だったはずなのに何のトラブルも無かったのは今のご時世か、あるいはマルセルの人柄か。世渡り上手のコツがあるのなら知りたいものだ。
「そういえばよ」
「ん」
「引継ぎってほどじゃないが、シェートリヒのじーさまの講演会がある。多分」
「椅子並んでたか」
シェートリヒ翁は一年ほど前から不定期に路上講演会を行っている。耳を傾ける人のために椅子を並べたりと熱心だが、その内容が「我が国の存亡の危機を憂う」類のもので今となっては耳を傾ける人がほとんどいない。で、客がいなければいないだけその声量は大きくなっていき、この派出所へ通報が来るのが常だ。
「そゆこと。あと、ヨンゾンさんが何か変な事してる」
「またあの人は……」
喫茶「魔女の家」を構えるヨンゾン女史は、事あるごとに怪しげな実験を行っている。外来の虫や動植物を多く扱う研究者という肩書もあるが、珍しい風貌と店の名前から、様々な思いを込めて「魔女」と呼ばれている。実際に魔法が使える、という噂も聞く。
平和に思えるグリダニアでも色んな事件は起きているわけで、民衆の皆様の迷惑になるような行為の通報があればすぐに駆け付けるのが警察官という仕事だ。この二人の通報は常連とも言えるものなので、大きく問題になることは無いだろう。だからこそマルセルも予兆を見つけたうえで放置しているわけだが。
そういう予兆を察する事の多いマルセルに初めこそ感心していたダンツィヒだが、三日ほど勤務を同じくしただけで寧ろそれを避ける様に動いていることに気付き、呆れることになった。いかに労力無く自分の手柄を得るか。その辺りが上手い世渡りのコツなのかもしれない。警察官にあるまじき、そう思うことはあれど口にしたことはないが。
「では、引継ぎ終わり! 起立! 気を付け!」
仕事の締めだけは真面目に行うマルセルの言葉に合わせ、腰のホルスターから警斧を抜く。刃先の潰れた斧を携帯するのは100年以上前から続くグリダニア警察の伝統で、今でも勤務交代の際には刃を打ち合わせる儀式を行う。
『金打!』
鈍い刃先同士がぶつかり生まれる高く響く音は、長く魔族の侵攻を退け続けてきた魔除けの象徴。
この音と、制帽に刻まれた二本の斧の紋章は、ダンツィヒがグリダニアという国家に仕える証であった。
「この文献にもその兵器は書いてあるのだ!」
「あー、はい。そうですね」
「そうじゃろう! そういうものがあることすら国民は誰も知らんのだ!」
「あー、はい。大変ですね」
日が傾き始めた頃、ダンツィヒが声の大きくなったシェートリヒ翁を宥めすかし、並んでいたパイプ椅子を全て片付け終えたところで無線機が鳴った。
『本部から西3どうぞ』
「本部了解。こちら西3、本部どうぞ」
『西3了解。近隣の女性より、魔女が変な液体を撒いているとの通報あり。名前はヨンゾン。ジュリエットのJ。J、o、h、n、s、o、n。住所は西側3地区3番地4号。係官は現場に急行し、確認されたし。どうぞ』
「本部了解。急行します。どうぞ」
『西3了解。液体は劇物の可能性あり。注意されたし。以上』
無線を切りながら、ダンツィヒは「劇物」という穏やかではない言葉に眉をひそめた。警察への通報は、住民が不安に駆られて行うものなので憶測や誇張のあるのが常だ。だが、彼女なら何をやるか判らないという猜疑心はダンツィヒの中にもある。その疑いはダンツィヒを、歩いて5分の距離を2分で駆けさせた。
特徴的な三角屋根の建物は遠くからでも目に付く。屋根も壁も黒く塗りつぶされた「魔女の家」は玄関に「営業中」の看板こそ掲げられているが、周辺に人の気配は無い。通報の度に何度となく訪れても客を見かけたことはほとんどない。
玄関手前から横手の庭へ、主人が撒いたであろう謎の液体が一筋の線を描いていた。乾かずに残っているこれが例の液体らしいが、一部白濁している部分も見受けられた。仄かに湯気も出ているように見え、なるほど、触ってみたいと思うようなものではない。
「あ、ダンツィヒじゃん。どしたの?」
店先の庭で桶と柄杓を抱えたヨンゾンは、ダンツィヒを見るなり明るく声をかけてきた。グリダニアでは珍しい長い黒髪に黒い瞳、そしてそれに合わせるように黒く長いローブを身に着けている。これに三角帽でも被ればそれこそ魔女のコスプレだ。
だが、彼女が魔女と呼ばれている理由は格好だけではない。その容姿が、何十年と変わっていないのだ。見た目は成人したてにしか見えないが、ダンツィヒが物心ついた頃には既にこの見た目だった。その実シェートリヒ翁と同い年だという噂もある。
「ヨンゾンさん、何してるんですか」
「何って……ワックス撒いてる」
「ワックスは地面に撒くものではないです」
「魔除けよ魔除け。こうすると魔物が寄ってこないんだよ」
「こんなとこに魔物が来るわけないでしょ」
「違う違う。私が魔除けしてるから来てないのよ。最近穏やかなのもこのお陰だからね?」
ヨンゾンはそう言ってにやにや笑いながら乾いた土に半透明の蝋を撒いていく。丁度「魔女の家」の周りを一周するように蝋で線が描かれているらしく、ヨンゾンの風貌と相まって何かの儀式のようにも見えたのもさもありなんといったところだ。
ヨンゾンの性癖として行動の不可解さは飛びぬけているが、その知識や言動に老獪さを感じることもある。見た目で年齢が推測できず、それでいて年配の人からは信頼を置かれていたりする。それでも、その実体を知る人は多くなく、
「あ、ひょっとして通報された?」
不気味に思った市民からの通報はヨンゾンにとっても日常茶飯事らしく、自分の行いがそういう目で見られている自覚はあるようだ。
「はい。なんか、劇物撒いてるって通報が」
「劇物? 誰が」
「あなたが」
「じゃなくて、通報したの誰?」
「言えるわけないでしょ。“近隣の方”です」
「はーん。お役所仕事め」
「お役所ですよ、警察は。大丈夫なんですかそれ」
ダンツィヒが桶に残るワックスを指さす。見た目は特に怪しい液体というわけでもない。ただ、無色無臭だからと言って安全だとは言い切れない。
「特殊な木の実から作ったワックスだけど、人体への害はあんまりないよ」
「あんまりって」
「そりゃー飲んだりしたらヤバい」
「触って、かぶれたりは」
「魔物でもなきゃ大丈夫よ。ほら退いた退いた。ここで終わり」
ヨンゾンはそう言いながら桶を逆さまにして、残ったワックスをダンツィヒの足元に全部落とした。反射的に一歩引くと、ダンツィヒが立っていた位置にワックス溜まりができ、撒きはじめの線と繋がって円が完成した。
「まま、特に危ないものでもないからさ。適当に報告しといてよ」
ぺしぺしと腰を叩いてくる。ヨンゾンへの通報はそれこそシェートリヒ翁の講演より頻繁に行われるので、西3地区派出所に勤務する警官はもはや全員顔を覚えられている。この馴れ馴れしさを喜ばしく思うかはさておいて。
「ダンツィヒ、どうせ暇でしょ。コーヒー飲んできなよ」
「勤務中です」
「っていうか、なんで敬語なの」
「勤務中だって言ってんでしょ」
「今日だけ、今日だけでいいからさー」
「いやだから、ちょっ、あっ」
見た目に反してヨンゾンが腕を取る手は力強く、足元のワックス溜まりに足を取られ体勢を崩したダンツィヒは、そのまま引きずられるように店内へ消えていった。
※ ※ ※
アルテマ魔族軍の大質量魔法による掃討爆撃は、複数の国家を消し飛ばし文字通り地図を塗り替えた。人類史に刻まれた最悪の軍事攻撃から一週間が経ち、カメラが、かつてグリダニア公国であった場所を映し出す。
森が、建造物が、生き物が、そこにあったありとあらゆる全てが灰に変えられた大地。乾いた土の上に雪のように白く積もる残骸が、かつてそこに国があったという唯一の名残である。
はるか遠くに見える山までの距離感すら掴めない一面まっ平らな白い世界。惨状を伝える予定だったコメンテーターも、美しさすら湛えるこの景色を前に息をのんだ。ここには、国も、人も、その死すらも残っていないのではないか。画面を見つめる人々がそんな感慨を抱いたとき、視界の端に何かが写った。
一面の銀世界に小さな小さな異物が一つ。カメラが望遠に切り替わり、だんだんズームしていくとその形が見えてきた。
三角屋根の黒い建物が一棟、かつてそこにあった双斧の国旗を掲げ、佇んでいた。
魔女のワックス 白瀬直 @etna0624
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます