三ヶ所

白瀬直

第1話

 あずさを前にしたとき、私がほぼ無意識に視線を送ってしまう所が三ヶ所ある。


 まずは右手だ。

 これはつい最近気付いたことで、あずさが中学に入ってから持ち始めた扇子がその理由のようである。

 あずさは、黒いレース張りの扇子を持ち歩いている。金銭感覚に疎い私でもそれが安いものではないことはなんとなく判るのだけど、それを開いて使っている様子はほとんど見ない。夏でも冬でも、ケースにも入れず剥き身のまま持ち歩き、ことあるごとにその扇子を指に挟んでくるくると回している。もちろん扇子の本来の使い方ではないけれど、その時の指の美しさが私の目を引くのである。

 すらりと伸びた細い腕の先にある右手は、少女らしい丸みを帯びている。傷などもちろんあるわけがない。同い年の私と比べても特別長いわけではないその指は張りと瑞々しさを併せ持って、それに触れるところを想像しただけでその心地良さが伝わってくる。産毛の一本、爪の先に至るまで綺麗に整えられたその右手は、彼女が何者かによって作られたと言われても万人が納得するような、そんな次元の違う可愛らしさを纏っている。

 その可愛らしい5本の指の間を、黒い扇子が生き物のように動き回る。多分、扇子の回し方にもルールみたいなものがあって、その技術だけ見てもそれはすごい事なのだろうけれど、私には動きよりも指そのものの可愛らしさが際立って見えるのだ。

 私が視線を送っていることに気付くと、可愛らしい指に掴まれ、扇子は生き物であることをやめる。

「何見てんの」

 そして、少し照れたような可愛らしい笑顔が向けられるのだ。


 二つ目は左足のふくらはぎ。

 ここを気にするようになったのは、小学校最後の冬休みだ。

 元日に降った雪がまだ解け残っている三が日明け。何をするでもなく家にいた私はあずさに連れ出された。冬の日は晴れた日ほど寒くなる。現象の名前は知らずともそういう経験則を得ていた私は、雲一つない晴天を見て風を通さないズボンを履いた。それなのに、あずさはふくらはぎの見える短いズボンで来ていたものだから、そこに驚く以上に呆れた覚えがある。

 近くのお寺まで歩いていく間にも、私の目には寒さしか映らなかった。済んだ空気で空は高く見え、吐く息はもちろん白くなった。少しでも陽の当たる場所を通ろうと思うけれど、日向の土は車の轍が固く残っていて歩きにくい。日光の温かさも吹く風に吹き飛ばされてしまうそんな散歩の道中にあって、暖かさを感じるのは上着の右ポケットに入ったカイロと、あずさと繋いだままの左手だけだった。

 寒空の下、境内には水溜りがあちこちに残っていた。水に張った薄い氷を割る楽しみは誰しも一度経験したことはあるだろうけど、あずさはそれの上を何とか歩けないかと苦心していた。ついには靴と靴下まで脱いで、水溜りのすぐそばに腰を下ろしてまで「薄氷を割らずに踏む」という行為そのものに執着しだした。

 細いくるぶしから上が柔らかそうに膨らんでいて、ほんの少し跳ねた黒い水滴がその肌の白さを強調している。筋肉に力が入ってもふくらはぎは柔らかさを残したままで、靴下の跡がうっすらと残るくぼみは綺麗な曲線を描いていた。多分これが、私の中の美しさの基準なんだと思う。人類は、これを美しいと思うようにできているのだ。半ば本気で思いながら、そんなことを考える自分にちょっとおかしさも感じていた。

 さっき握った手とはまた違う感触だろうななんて思っていると、薄氷が割れて足先が水に濡れた。

「冷たっ!」

 その声で、しばらく季節を忘れていたことに気が付いた。


 最後は口元。唇とか、舌とか。

 これは、私が初めてあずさを意識した日の話である。

 小学校の時に理科の実験があった。隣のクラスと合同で行われる授業で、あずさと同じ班になったのはそれが初めてだった。短く揃えられた髪よりも、大きくくるっとした目よりも、可愛らしく整った鼻よりも、その時実験に使ったレモンを何となく舐めていたその口元に、私は惹かれた。

 隣の席に座ったあずさが人差し指でレモンの断面を薄くなぞっていて、その動きがひどくゆっくりに見えた。指の腹が濡れているのを目の前に掲げてじっと見つめ、近づけたり遠ざけたりしている間も表情は変わらないままだった。意を決したのか、一つ頷いて指を口元に運ぶ。指が届く前に艶のある唇が開き、ほんの少し覗いた白い歯が陰の中に浮かび上がる。指を軽く唇に触れさせ、その奥から小さな舌が指を迎えた。

 舌が、指をなぞる。

 その時、心臓が軋んだような音が聞こえた。

 そのほんの少しの動きで、私の目はあずさの口元から離れなくなった。可愛いとか綺麗とかそんな前向きなだけではなくて、もっと怖さを含んだような、それでいて私の心を掴んで離さないような。後に気付くのだけれど、それは多分、妖艶さというのが一番しっくりくるような仕草で。

 私の心は、その口元に魅了されたのだ。

「すっぱ」

 あずさが表情を変えて指を離す。ようやく、自分の顔をじっと見据える私に気付き、バツの悪そうな顔で指を唇の前に立てた。その時に初めて、あずさの唇の左下に黒子があるのを見つけた。

(内緒ね)

 あずさの心の声が聞こえてくる。私は、息苦しさを覚えた左胸を軽く掴んだまま縦に首を振ることしかできなかったけれど、そんな私にあずさは声をかけてきた。

「赤くなってる?」

 そう言われて、咄嗟に左手を頬に当ててみると私の顔は熱を持っていた。恥ずかしいのか、なんなのか、自分の感情が判らないまま、「え、あ、」と言葉にできない音を口の中で混ぜていると、あずさはさっとテーブルにあるものを手に取った。

「なってるね」

 満足げな顔のあずさの手には、赤く変性したリトマス試験紙が握られていた。

 あずさに赤く変えられたそれは、多分元には戻らない。

 その時そんな気がしたけど、それは今のところ間違いじゃない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三ヶ所 白瀬直 @etna0624

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ