ショートショート Vol11 ユキの声が聞こえる

森出雲

ユキの声が聞こえる。

「ねぇ、雪ってどうしてふわふわ落ちてくるのかな」


 カクテル光線で照らし出された夜のスキー場ゲレンデ横の小さな喫茶店で彼女が呟いた。

 二重になった格子のガラス窓。外側に積もる雪を指でなぞりながら、彼女はふっと息を吹きかけ、雪だるまのイラストを描いている。白い花柄のティーカップからわずかに立ち上る湯気を見つめながら、僕はその答えを探していた。

「久しぶりね。あなたとこんなにゆっくりお話しするの……」

 彼女は描き上げた雪だるまを手の平で消して、にっこり微笑みながら言った。


 もう何年になるんだろう。

 彼女との時間を共有しながら、二人生活をしていた。しかし、時間と共に、愛とか恋とかそんな感情が薄れて行き、今では苦痛にさえなってきていた。

 彼女が、始めて出合ったスキー場に行きたいと言い出したのは、今年の夏のこと。ほとんど病気らしい病気をしなかった彼女が、ある日突然高熱をだした日の翌日だった。


 その日の朝。病院へ行くようにと言い聞かせて僕は仕事へ出かけた。そして、彼女の病気のことも忘れるくらい忙しく一日を過ごし、疲れ果てて帰ってくると、彼女はまだベッドの中で魘されていた。

 ただの風邪だからと言い張る彼女に、夜半に解熱剤と風邪薬を買ってきて飲ませ、僕は彼女が眠るベッドのそばで一晩明かした。

 翌朝、僕が目を覚ますと、彼女はベッドの上に座り、窓の外を見つめていた。

「ごめんね、心配かけて。もう大丈夫だから……」

 背中を向けたまま、彼女は小さく呟いた。

「熱は?」

「うん、もう平気」

 彼女は窓の外を見つめたまま。何故かその後姿が妙に淋しそうに見えたのを今も覚えている。

「シャワーしてくるよ。あとで何か買ってこようか?」

「ううん大丈夫。仕事、遅れるよ?」

「うん」

 僕はシャワーを浴び仕事へ行く準備に追われた。皺だらけのワイシャツとスーツを新しいものに着替え、髪が乾く間もなく鏡の前に立った。ネクタイを締めながらトーストをほお張り、僕は彼女に言った。

「トーストと目玉焼き作ったから、後で食べなよ」

「うん。ねぇ? 冬のボーナスであのスキー場連れて行ってほしい」

「今、夏だよ。また、どうして?」

 横目で彼女を見ると、ベッドの上でうな垂れている。出勤の慌しさとネクタイが上手く結べなかった事が、そんな彼女の変化にも霧をかけた。

「うん。夢……、見たんだ。そしたら行きたくなったから」

「別にいいけど。じゃ、行って来るから、ちゃんと薬飲むんだよ」

 彼女はまた、窓の外を見ていた。

 日差しが強く、今日も暑くなりそうな気がした。


 そして、十一月のある日、彼女が突然スキー場に行くのはイブの日にすると言った。

 僕は夏の日のことはすっかり忘れていて、彼女の言い出したことにすぐに答えを出すことが出来なかった。

「ちょっと何? 勝手に決めんなよな! 俺だってまだスケジュールが決まってないんだから!」

「決まってないんならいいじゃん。イブの一日でいいから空けといてよ。クリスマスは日曜だから休みでしょ」

 僕は、何も言い返すことも無く、黙ってしまった。そんな僕を構うことなく、彼女は嬉しそうに夕食の支度を始めた。そして何も言い返せないまま時が流れ、スキー場に行く事が暗黙の了解となった。


 出発の日。

 仕事終わりで彼女と待ち合わせ、買い物を済ませた。そして、一旦部屋に帰り必要な物を車に積み込んでスキー場へ向かった。

 彼女は黄色のミニスカートと鮮やかなグリーンのセーターに白のダウンジャケット、こげ茶のルーズブーツで助手席に乗り込んだ。

 休日に一緒に出かけることも無くなった僕には、そんな彼女の姿がとても新鮮に写った。



彼女は空になったグラスの氷を指でカラカラと回しながら小さく呟いた。


「雪は温かいのよ?」

「どうして? 冷たいじゃん」

「それはあなたが雪のことを知らないからよ」

「そんなもんか?」

「雪の中だから、木や草だって春まで眠っていられるの。人だってそうかも知れない」

「言っている意味がわかんない」

「だから、あなたは雪のことを知らないって言っているの」


 しばらく沈黙が続いたあと、僕がそれを破った。


「出ようか」

「……うん」


 支払いをしている間に彼女は店の外に出ていた。そして、僕が店を出ると雪混じりの冷たい風がほほを掠めていった。


「!……」


 彼女は何も言わずに僕の腕に手を絡めた。

 二人の影がカクテル光線で虹色に輝いている。何人もの僕と彼女が、フォークダンスを踊るように、手を繋いでいる。雪を踏みしめる音が、二人のダンスに優しい音色を奏でているようだ。


 ホテルのカウンターで鍵を受け取り部屋に入った。充分なほどに暖められた部屋に入るなり彼女は僕に抱きついた。


「どうしたんだよ?」

「ちょっとだけ……」

「せめて上着くらい脱がせろよ」

「もうちょっと」

「……」


 こんなことをするのは初めてのことだった。初めて逢った日からこの夜まで、一度としてこんなことは無かった。


「うん、満足! あっ忘れ物!」

「何?」

「さっきのお店に忘れ物。取ってくる」


 彼女はそのまま振り向きもせず、部屋を飛び出していった。

 僕はシャワーを浴びベッドで彼女を待つことにした。しかし、長距離運転の疲れからか、いつしか意識は眠りの底に沈んでしまった。


 翌朝。

 朝早く目覚めた。カーテンの隙間から朝日が差し込み、誰もいない隣のベッドを照らしている。彼女は昨晩のまま帰ってきた様子も無かった。

 彼女の行方が不明になり、ホテルから警察とスキー場のパトロールに捜索の依頼をした。しかし、丸三日に及ぶ捜索の甲斐も無く、彼女を見つけることが出来なかった。


 忽然と姿を消した彼女。

 警察は遭難の痕跡が見当たらないことから、自ら彼女が下山したのではないかと結論付けた。僕は、彼女と最後に過ごした小さな喫茶店に帰る前、訪れた。


「結局、見つからなかったんですね」


 カウンターでマスターに温かいミルクティーをご馳走になりながら、僕は二人で座った窓辺のテーブルを見つめていた。

 ガラス窓には彼女が描いた小さな雪だるまがはっきりと残っている。


「あの日、お帰りになったあとすぐにもう一度お見えになって、今お座りのその椅子におかけになり、ミルクティーを美味しそうにお飲みになっていらっしゃいました」


 彼女が好きだったミルクティーをいつしか僕も好きになっていた。


「その時、何か言っていませんでしたか?」

「特に。ああ、そう言えば、雪は温かいから解けないんだって。解けるのはもう雪じゃないんだって。私にはよく判りませんでした」

「雪は解けない、解けるのは雪じゃない? 何のことだろう」

「すみません。お力になれなくて」


 僕はそのまま帰路に着いた。

 二人分の荷物。空の助手席。彼女が好きだったアーティストの楽曲が僕の涙腺を緩ませた。首を左右に小さく振りながら、ハミングする彼女。何度も何度も繰り返しリピートした彼女の大好きな楽曲。高速道路の路肩に車を寄せ、僕は声が掠れるほど大声で泣いた。そして、何事もなかった様に季節が流れた。


 誰からも彼女の存在を尋ねられることもなく、僕の記憶から少しずつ彼女が消えようとしていた五月。連休のある日、一本の電話が全ての記憶を蘇らせた。


「覚えていらっしゃいますか? ゲレンデ横の……」


 それは彼女と最後に過ごした喫茶店のマスターであった。


「はいわかります」

「もし良ければこちらへいらっしゃいませんか? ぜひお見せしたい物があるんです」

「何ですか?」

「こちらへお越しになってから」


 マスターは用件だけを伝えるとそのまま電話を切った。僕は連休だったこともあり、彼女の供養をかねて、すぐにスキー場へ向かった。


 夕方、スキー場の小さな喫茶店に到着した。

 すでに雪も解け、勿論スキー客もいるわけでもなく、あたりは閑散としていた。休業中の札が掛かっているものの、店の中は小さな明かりが灯っていて人の気配がする。僕はドアを開け店に入った。

 小さな鐘の音と共にマスターの声がした。


「お待ちしていました」

「色々、お世話になりました」

「すみません。遠いところをお呼びしまして」

「いえ、で、何ですか見せたい物って……」

「あれです」


 マスターは僕たちが最後に座った窓辺のテーブルを指差した。

 夕焼けに輝くそのガラス窓の角に、消えずに残っている彼女が描いた小さな雪だるま。僕は不思議に感じることもなく、マスターに尋ねた。


「どうして消さないんですか?」


 僕はガラス窓に近づいた。そして、その時初めて不思議な出来事だと気がついた。単に、曇りガラスに指で描いただけの雪だるま。


「消してみてください。消えないんですよ。消してもまた次の日にこうして雪だるまが現れる」


 僕は雪だるまをじっとみつめた。

 イラストの下に気付かなかった『コトバ』が書かれていた。


『私は雪。だから決して解けることはないの。あなたをずっと変わらず愛していられる。私の心は決して解けない雪』


 溢れる涙を押さえることができなかった。

 あとからあとから止めどなく涙と後悔があふれてきた。僕は、彼女が消えた事を、この時初めて実感した。そして、彼女の名を叫びながら泣いた。


 数時間後、温かいミルクティーをマスターにご馳走になり、少し気分が落ち着いた。


「私は二十二の時にこのスキー場にやってきて今年でもう二十五年になります。家族を街に残したままずっと離れて暮らしていました。もうそろそろ帰ろうかと思っているんです」

「……」

「どうですか? この店を買っていただけませんか?」

「そんな? そんな大金を持っていませんよ」

「毎年少しずつでいいですよ。今、出来るだけでかまいません」

「しかし……」


 僕は、窓辺の雪だるまをもう一度見詰めた。


「あの雪だるま。なぜかあなたを待っていたような気がします」

「……解りました」

「あの方もきっと喜んでおられる」


 なぜか、ガラス窓の小さな雪だるまが微笑んだように見えた。



 あの日の夜。

 セピアにくすんだ外灯の下で、彼女はしゃがんだままじっと動かなかった。辺りはほの暗く、シンシン降る雪の静けさに包まれている。まるでタンポポの種子の様に舞うボタン雪は、彼女の身体を包む。そして、優しく慰めているようであった。

 彼女はその場所で、素手の両手で舞い落ちる雪を受け止めていた。

 一つ、また一つ。

 両手に受け止められたその柔らかな雪は、ほんの一瞬ののち命が途絶えるように消えていく。手の平に残されるのは銀色に輝く小さな水滴。


 すでに彼女の肩や髪の毛は白く雪化粧をしていた。しかし、手の平だけは彼女自身を主張するかのように薄っすらと温もりを残したままである。

 やがて舞い降りる雪の影が、木漏れ日に輝く林の風景のように、幻想的な立体感で彼女を浮かび上がらせていた。それは、彼女のかすかな命の証であるように、思いもよらぬイメージで包んでいる。

 舞う雪はその量と大きさを増し、彼女自身を雪に変えるがごとく降り続いた。セピア色の外灯までもが、その姿を消そうとしたとき、ほんの僅かな時間、彼女の手の平を雪が覆った。


 彼女は何故かいつも言っていた。

―― 雪は冷たくなんかない、と。


 それは不思議で理解できないことではあるが、いつしか、誰もが信じることができることだと、彼女は知っていた。

 一層、雪が激しさを増し、ほの暗いセピア色の外灯の灯りさえ、見分けがつかなくなった。微かな風の吹く音と揺らめく影の向こうで、彼女の姿が消えた。


 確かにその場所にその存在の証だけが残されたまま、彼女の全てがイリュージョンのように消えた。後には、小さな雪だまりとほんの僅かな灯りの『轍』だけを残していた。



 格子のガラス窓に残された雪だるまのイラストがまるで泣いているように、温もりのせいで出来てしまった水滴を流した。

 誰一人気付かないまま、彼女は彼女の母の元へと帰っていった。

 僕はその時、何も知らずに深い眠りに落ちていた。



 もう一つの夢


 僕は夢を見ていた。

 確か、彼女を待っていたはずなのに、いつしか夢の中にいた。


 自由にならない重たい身体。

 限られた狭くぼやけた視界。

 全てが不十分な機能しかない。しかし、意識だけがはっきりとしていた。


 僕は小さなガラスケースの中に寝かされていた。思い通りならない身体で、ゆっくりと周りを見渡した。

 すると、白髪の男性が覗き込んでいるのが見えた。


「おかあさんの方はどうなんだ?」

 見えないどこからか、女性の声がした。

「ダメだったようです……」

「そうか……。せめてこの子だけは、何とかしてやらないと」

「そうですね。先生、この書類どうしましょう?」

「うん、僕が預かっておくよ」

 男性は、何かを受け取るとまた僕を覗き込んだ。

「がんばれ! 負けんな」

 女性が、男性のそばへやってきて男性と同じように僕を覗き込んで言った。

「でも、生れたばかりで、もう一人ぼっちじゃかわいそう」

「そうだな。でも、がんばれ、がんばれ! 僕がきっと助けてあげるから、がんばれ」

 二人はしばらくすると、僕から離れていった。

 僕は少し首をひねり、男性を目で追った。

 男性は窓を少しだけ開けて、外を見た。

「また、降っているよ。本当によく降る。こんなに降るのは何年ぶりだろう」

 冷たい風がすすっと流れ込んでくる。

 その時、小さなベルの音がした。

「先生! 3号室です」

「わかった」

 男性は、窓を開けたまま一度僕を見ると、どこかに行ってしまった。

 僕は男性が開けたままの窓から流れ込んでくるユキを見ていた。

 最初はひとつふたつ、冷たい風と一緒に入ってきて消えていった。パタパタと透明なカーテンがゆれて、ユキの一つがすぐそばまで飛んできた。それは、銀色に一瞬輝いて弾けた。

 僕がその光に目を閉じると、どこからか声が聞こえた。


「ねぇ?」

 ゆっくり目を開けると、窓からいっぱいユキが流れ込んでいるのが見えた。

ると、あたりは急に薄暗くなって、ユキの一つ一つが、なぜか銀色に輝いて見える。その時、窓辺に銀色の衣を纏った少年が腰掛けているのに気が付いた。不思議な光とユキに包まれているその少年は、ニコニコ笑っていた。

「ねぇ、君!」

 少年は僕の方を向いて話し出した。

「ねぇ、君だよ」

 僕は何か言おうとしたけど、声が出なかった。

「どうしたの? 話せないの? じゃあ、そっちに行っていいかな? そうすればきっと話せるから」

 僕はひとつ瞬きをした。

 少年は漂うように宙を飛び、僕のそばに降りた。

「ねぇ、君。このままじゃ死んじゃうよ」

「そう……。僕、死ぬんだ」

「僕もね、死んじゃうんだ」

 少年の言葉も僕の言葉も、耳から聞こえてくる言葉じゃなかった。考えていることがそのまま伝わってる。

「君も死ぬの?」

「うん」

「そうは見えないけど、元気そうだけど?」

「見かけはね。僕は心が死んじゃうんだ。君は身体が死んじゃうんだろ?」

「僕は身体が死ぬの? 君はココロ?」

 少年はニッコリ笑って、手の平に息を吹きかけた。するとサラサラのユキがフワーッと舞い上がった。

「素敵だね。キラキラ光っている」

「ねぇ、生きたい?」

「どうかな、分んない……」

「ふ~ん」

「君は?」

「僕も、かな? でも、生きてほしいと思ってくれている人もいるみたい」

 少年は指の先で雪の結晶をクルクル回しながら悲しそうに言った。

「そうなんだ」

「君は? そんな人いるの?」

「分らない。さっき、生まれたばかりで一人ぼっちって言っていたから……」

「……。僕たちは二人とも半人前だね」

「うん。二人で一人分だね」


 少年は指先で回していた雪の結晶をピンと弾いてみせた。弾かれた雪の結晶は空中でいくつもの小さなカケラに別れて、まるで銀色の花火の様に広がって舞い降りた。

舞い降りてきた小さな雪の結晶。そのカケラは、ガラスケースを通り越して僕の身体の中に入ってきた。

「これが最後の力……」

 少年はその言葉と共に、ゆっくりと姿を消した。僕は身体の中から温かくなっていくのを感じた。

 最後に少年が、どこからか「ありがとう」って言ったような気がした。



「先生! また、窓開けっ放しですよ! もう、気をつけてください」

「ごめんごめん、ん? こんなところまでユキが入ってきたのか?」

「そんなわけないでしょ。ビニールの防菌カーテン、通り越す訳ないじゃないですか。先生、また何かこぼしたでしょ?」

「いや、僕じゃないよ。ほら、ここも濡れている。ここも」

「あらやだ、ほんと」

僕の意識はすーっと深く落ちていった。



 朝、目が覚めると自分がどこにいるのか解らなかった。夢の続きを見ているようにまだ、意識がはっきりしない。ベッドから起き上がり大きな窓のカーテンを開けた。すると、一面雪に覆われた銀世界から眩しい光が差し込んできた。その時、僕は全てを思い出した。


「まさか? まだ、帰ってきてない。昨日忘れ物を取りに行ったまま」


 僕は、空の綺麗なままのベッドを見詰めた。

 シンと静まったままの部屋で、僕は急いで服を着替えた。


 スキー客で賑わうロビーを通りすぎ、僕はホテルの外に出た。信じられないくらいの晴天と人々の笑い声に、僕の足は踏み出すのを忘れたように立ちすくんだ。


 その時、どこかで彼女がふふっと笑ったような気がした。



 ユキの声が聞こえる。短編バージョン。


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