記憶の中の香り・香りの中の記憶

空館ソウ

記憶の中の香り・香りの中の記憶


 静かに置かれたコーヒーの香りとともに、古びた楽器ケースとグリスの香りが記憶の中からよみがえった。


 専門商社でコーヒー豆のバイヤーをしていた私は、現実にそんな奇矯な香りが存在しない事はわかっている。

 だから、この香りが現実のものではない事は容易に想像できた。


 コーヒーの香りで思い出されているのは高校時代の思い出だ。

 私はあの時に飲んだコーヒーを今でも追い求めている。


 華やな芸能人も呼ばない、全国クラスの文化部のパフォーマンスもない、手作り感あふれる学園祭だった。


 文化祭実行委員、オーケストラ部の発表の責任者、断ることを知らない私はいくつもの役職を掛け持ちしていた。

 無責任極まりない。

 事実、キャパシティを超えた仕事を他の人に任せていた。

 最初から任せていればよかったのにと言われ、孤立していた。

 それでも、私は頑なに弱音をはけずにいた。


 その日、断ることを知っていた他の部員達が仲良く準備しているそばを通り抜け、私は音楽顧問室に向かっていた。


 扉を開けるといつものコーヒーの香り。そして背の高い牧さんの少し背をかがめながら手挽きのミルをまわしている姿が視界に入った。


 コーヒーを淹れるのは顧問室に入り浸る牧さんの日課のようなものだった。

 部の会議室でもあった顧問室で手際よくコーヒーミルを回し、ネル布の準備をしていく姿はいつみても絵になる。

 私は壁に向かってソファに座った。


「大川先生はもうすぐもどる?」


「もどると思うよ。自分で頼んだんだから冷める前には戻って欲しいよ」


 そんなやりとりをして、音楽劇の香盤表をにらんでいた。

 だからローテーブルにジノリのブルーがおかれた事に直前まで気づかなかった。


「今一番忙しいよね。お疲れ様」


 そう言いながら、対面に牧さんが座った。

 牧さんが伏し目がちにスイ、とカップを傾ける様は、まるで珈琲色の霞を食べているようで現実味がなかった。


 ふとした時に差し入れられる誰かの心遣い。

 社会人になってから、誰しも一度はこういった経験する。

 コーヒー豆を扱う商社はいった私も、何度かそういった経験をした。


 しかし私は気遣いに挟まれる下心に疲れ、すっかりすれてしまった。


 今の私が、同じ事をされれば、

「疲れているのはカフェインのせいだ。むしろ差し入れて欲しいのは魔法の胃薬だよ」

 などと不機嫌に返してしまう事だろう。

 

 けれど、当時の私にそんな経験があるはずもなく、一瞬でしてやられてしまった。


『ありがとう』

『城山さんが来てくれて良かったですよ。コーヒーが無駄になるところでした』

 小首をかしげておどける姿につい言い返した。


『先生なら最初からこないでしょう』

『ばれました?』


 働かない頭は、コーヒーのおかげで、先生が急用で帰った事を思い出していた。

 微笑んだ牧さんはソーサーをテーブルに下ろさず、コーヒーの香りを楽しんでいた。

 それならなんで二人分の豆を挽いていたの? そんな言葉で消えてしまいそうなはかない時間を、私達はコーヒーを飲んで無言で過ごした。


 あの時は味覚も嗅覚も、宝であった聴覚、脳さえ働かなかった。

 だから感謝の言葉も言えなかった。

 ありがとうの言葉を井戸のかわりにコーヒーカップにつぶやいた。

 


 私があの頃に役職を求め、スケジュールを詰め込んだのは現実逃避のためだった。

 忙しい事を理由に、人間関係のトラブルで大事なパートに穴をあけてしまった事から逃げていた。

 不誠実な自分に向けられる目が怖くて誰にも助けを求められなかった。

 

 そんな悪循環を断ってくれたのはあの時間、あのコーヒーだった。

 あの後、パートを埋めてくれた人達に感謝をして、少しずつ絡まった人間関係の糸をほぐしていった。


 結局その後、転校した私は二度とあの時間を経験することはなかったけれど、大人になれば再現できる、と信じてバイヤーになった。


 でも再現は結局できなかった。香りから逆算し、当時の流行を調べ、機材も同じにしてもできなかった。

 人を頼らず、プロジェクトを失敗させ、私は職を辞した。

 あの頃救ってくれたコーヒーは今回は現れなかった。

 そして私は落ちぶれた。


「いらっしゃいませ」

 カウンターの向こうから新たにきた客にかける声は昔と変わらずハスキーだ。


 さっき、昔よりもさらに洗練された所作でテーブルに置かれたカップから立ち上る香りをかいだ時、それまであった、香りだけなら再現できるという考えが浅はかな思い上がりだった事を痛感した。


 時とコーヒーの香りは渾然となって記憶されているのに、香りだけであの幸せを再現させようというのは最初から無理だったのだ。


 先ほどの客がした注文に応じて準備をしている姿を眺める。

 声をかける事は、昔とは違った意味で出来ない。


 あのころの自意識過剰な青臭い羞恥は克服している。

 けれど今、折れたこころが外見に現れたかのような姿を見られるのは恥ずかしい。

 素敵に時を重ねただろうあの人とは、もう住む世界が違うように思う。


 それでも未練がましく、同じ空間にいられる幸せを感じていると、記憶か現実か定かではない、ハスキーな声で呼ばれた。


——城山さん?


 時がたっても、幼さが消えてしまっても、変わらない穏やかなまなざしが、あの時と同じように私に向けられている事を知り、私はようやく求めていた香りを見つける事ができたように思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

記憶の中の香り・香りの中の記憶 空館ソウ @tamagoyasan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ