第2話 青森

 7月5日

  飛騨トンネルを含む、東海北陸自動車道の飛騨清見JCTから白川郷IC開通、最初の供用開始から22年の時を経て東海北陸自動車道が一本につながる。

 明石圭は深夜のニュースをホテルの部屋で見ていた。ちとせの両親に昨日挨拶しに行ったが断られた。

 圭は金髪にピアス、チンピラみたいなカッコだった。鏡を見て後悔した。

 せっかく、青森に来たのでちとせに案内してもらって散策していた。

 藤田記念公園、弘前公園、津軽藩ねぷた村などいろんなものを見た。りんごの街弘前で買ったアップルパイは甘くてうまかった。


 夫との離婚を決意した中年女性、中山葵は現在別居して前田憲男と暮している。葵は青森県警察刑事部に勤務してる。憲男は彼女の部下だ。

 葵の階級は警視、憲男は警部補だ。

 ある日、葵は憲男に堰き立てられて気の進まない合コンに出席させられた。

 椎名正孝という憲男の同期に一目惚れした。青森駅近くの飲み屋で二人きりで飲んだ。

「椎名君って弘前署に勤務してるのよね?」

「刑事課の課長です」

「どことなく瑛太に似てるね?」

「葵さんは宮崎あおいに似てますね?」

 2人とも今年の大河ドラマの『篤姫』に出てる。

「四十路のおばさんからかって楽しい?」

「今度、京都に行ってみたいな?僕、歴ヲタなんですよね?」

 葵は正孝と正式につきあうことを決めた。

 トイレで卒倒した葵は、現在の記憶を持ったままハタチだった1988年の世界に帰ってしまう。そこは、当時のままの世界で当時のままの人々が暮らしていたが、葵だけは当時の自分にはなかった新鮮な視線で周囲を見つめることが出来た。

 青函トンネル、東京ドーム、瀬戸大橋など大型開発事業が相次いで竣工し話題となり、ティファニーが来日、ティファニー現象が起こる。

 ファミコン用ソフト『ドラゴンクエストIII』の発売日にはゲームショップに長蛇の列が出来た。女性にパンツスタイルが流行し、カラオケボックスが本格的に定着する。

 リクルート事件と呼ばれる、戦後最大の贈収賄事件(企業犯罪)が発覚した。地価値上がり続き、都心部以外にも波及。

 地方博ブームで、なら・シルクロード博覧会、瀬戸大橋架橋記念博覧会、ぎふ中部未来博覧会などが開かれた。

 昭和天皇の重篤報道を受けて、日本各地で祭やイベントの自粛・中止・延期が相次ぐ。


 7月6日

 青森県下北郡東通村の尻屋崎沖で海上自衛隊の護衛艦『さわゆき』の船内から火災が発生、発見から20分後に消火。

 青森県下北郡大間町の大間崎沖で、青森朝日放送がチャーターした小川航空(本社:大阪)のヘリコプターが墜落。1人の死亡確認、3名が行方不明のまま捜査打ち切り。

 

 7月7日 - 7月9日

 日本がホスト国となる第34回主要国首脳会議。北海道洞爺湖町でサミットが開催された。


 7月8日

 “くいだおれ人形”で有名な大阪府大阪市中央区道頓堀の老舗料理店「大阪名物くいだおれ」、建物の老朽化及び時代風俗の変遷等を理由にこの日限りで営業を終了。


 千葉県浦安市舞浜の東京ディズニーリゾート・東京ディズニーランドの正面に国内で3つ目のディズニーホテルである「東京ディズニーランドホテル」が開業。


 7月11日

 最高裁判所、1999年9月に、山口県下関市のJR西日本下関駅で発生した下関駅通り魔殺人事件の被告に対し、一、二審の死刑判決を支持し上告棄却、被告人の死刑が確定。


 ソフトバンクモバイルがアップル製のスマートフォンであるiPhone 3Gを販売開始。


 7月16日

 愛知県内の東名高速道路を走行中の名古屋駅発東京駅行きJR東海バスの高速バスがナイフを持った男にバスジャックされる。バスは美合パーキングエリアに緊急停車、愛知県警察本部の捜査官の説得により、容疑者の山口県の14歳の男子中学生が投降、逮捕。負傷者はなし。


 7月19日

 宮城県北東部の牡鹿半島沖を震源とするマグニチュード6.6の地震、宮城県と福島県の沿岸部に津波注意報発令。


 7月22日

 八王子通り魔事件。


 7月24日

 岩手県沿岸北部を震源とするマグニチュード6.8の地震。詳細は、岩手県沿岸北部地震

 

 同日午後10時20分、弘前駅前の2階建て計4室のアパートで殺人事件が発生した。夜間は人通りが少ない場所だった。事件当時、現場アパートには1階の2部屋に2世帯が住んでおり、2階のうち3DK(6畳2間+4畳半)の1部屋に明石圭と大方ちとせが住んでいたが、隣は空き部屋になっていた。


 事件現場アパートに在住していた大方ちとせは事件当時、明石とともに第一子誕生を心待ちにする日々を送っており、「平凡だが希望に満ちた若い夫婦の生活」を送っていた。


 事件当日の朝、ちとせは普段通り会社に出勤する夫を送り出した。女性は事件5日前の同年7月19日に男児を出産予定だったが出産が遅れていたため、当時の明石はちとせの体調を気遣って会社から仕事の合間に電話をかけるようになっていた。

 同日12時過ぎ、夫が会社から妻に電話した際は特に異常はなかったが、退社する直前に再び電話をかけた際には誰も電話に出なかった。

 明石は「自分が帰宅するころにはちとせも家にいるだろう」と考えながらそのまま帰宅し、午後10時前に自宅に到着したところ、普段は施錠してあるはずの玄関ドアが施錠されておらず、部屋の電灯が消灯していることに気付いた。


 明石はこの状態を不審に感じつつもそのまま寝室に向かってスーツから着替えたが、奥の居間から赤ん坊の泣き声が聞こえたため「子供が生まれたのか」と思いつつ居間の照明を付けたところ、ちとせが変わり果てた無惨な姿で横たわり、その足元で生まれたばかりの赤ん坊がか細く泣いていた。

 その上、ダイニングキッチンにあるはずの電話がなかったために男性は慌てて部屋を出て1階の住民から電話を借り、弘前市消防局消防指令センターへ「救急車をすぐ回してほしい」と119番通報した。この時に電話を貸した住民、及川良純は、椎名から聞き込みを受けた際「明石は『電話が引きちぎられて赤ん坊が出ているから電話を貸してほしい』と血相を変えて頼み込んできた。自分は『ああ、赤ちゃんが生まれたのか』と思っただけで、まさか奥さんが殺されているとは思わなかった」と証言した。


 救急隊員3人は明石からの「子供が生まれている」という通報の内容を受け、隊員のうち1人が臍帯(へその緒)を切断するために鉗子・鋏を持って男性宅に駆け付けた。救急隊員が現場に到着したところ、大方ちとせが3DKの南側6畳の居間で首をロープで絞められて腹部を切り裂かれ、後ろ手に縛られて血塗れの状態で頭を南にして仰向けに倒れていた。

 女性の発見当時の服装は青いマタニティウェア・セーター・ピンクのジャンパーと黒のパンティストッキングで、腹部の傷はみぞおちから下へ鋭利な刃物で縦一文字に約38センチメートル切られ、後述のように子宮内にいた胎児を取り出された上、その腹の中には電話の受話器・キューピーのキーホルダーが詰め込まれていた。


 電話受話器は小型のプッシュホン式で、普段は被害者宅のリビングに設置されていたが、現場検証ではコードが鋭利な刃物で切断されており、血塗れで居間寄りの台所の床の上にあった。現場検証の時点で取り出されていた理由は「発見者らが女性を病院に搬送する際に腹部から取り出したためだろう」と推測された。

 キーホルダーは被害者女性の夫が自家用車のキーホルダーとして使用していたが、事件当日は夫が車を使っていなかったため室内にあった。

 現場一室は血の海で、真上に住んでいた尾財裕翔は『普通の人には想像できないような恐ろしい状態』で息絶えていた」と表現した。

 現場に急行した葵は「あんな現場は今までに見たことがない」と椎名正孝と言い合った。

 刑事ドラマじゃ新米刑事が現場検証で張り切るが、現実じゃ現場に入れるのは本部のお偉方、所轄の課長、鑑識課の人間くらいだ。


 ちとせの横には男の胎児が臍帯の付いた状態で膝・臀部を刺されて下腹部を切り付けられた状態で、血の海の中で産声を上げていた。

「必ずママを襲った犯人を逮捕するからね?」

 葵は赤ん坊をあやしながら泣いた。

「ちとせは通報しようとしたが真犯人に消された?」

 椎名が言った。

「電話線を切ったのはその為でしょうね?」

 葵は言った。


 2人は近くの病院に運ばれたが、ちとせは間もなく病院で死亡した。赤ん坊は出産予定日を超過して胎内で成長していた上、発見時点で既に自力呼吸が可能な状態ではあったが、救急隊員に収容された時点で前述のように「母親が腹を裂かれた際に一緒にできたと思われる刃物の傷」を負っていた上に泣き声が弱々しく外傷による貧血・外界の寒さによる低体温症の症状が現れており、病院搬送時は体温が約30度まで低下していた上に重度の貧血状態で生命の危機も危ぶまれていた。 

 しかし発見が早かったことに加え、ちとせの父親の大方道隆の輸血・搬送先の病院医師団が「保育器で体を温める」的確な事後処置を行いながら懸命に手術を敢行した結果、赤ん坊は全治10日間の怪我を負ったものの、1時間に及ぶ手術により奇跡的に一命を取り留めて生命の危機を脱した。

 

 事件発生を受けて青森県警捜査一課・弘前警察署は「極めて悪質・残忍な殺人事件」と断定して弘前署に特別捜査本部を設置し、「変質者もしくは被害者に強い恨みを持つ者の犯行」と推測して捜査を開始した。

 事件当時、青森県警管内では捜査本部設置を要する凶悪犯罪が相次いでいたため、青森県警は捜査一課の強行班を増設していた。

 北海道警察の瀬島祐希も応援に駆けつけていた。

 椎名はどことなく松嶋菜々子に似てると思ってドキドキした。


 事件前年の2007年8月、青森市内でパチンコ景品交換業経営の老夫婦が何者かに襲撃され、現金230万円を奪われた上に妻が銃で射殺された強盗殺人事件があった。

 事件1か月前には凶悪な少年犯罪として日本社会を震撼させた青森カップル殺人事件が発生していた。

「北海道でも鈴木渚って女子高生が何者かに射殺されてる」

 祐希はそう言って、休憩所のソファに深く座り、冷たい缶コーヒーを飲んだ。

「同一犯の可能性もありますね?」

 前田憲男が言った。

 憲男はペットボトルのお茶を飲んでいた。


 7月26日

 青森県警捜査一課・弘前署が設置した特捜本部は青森県警本部にて弘前大学教授・西村雅人の執刀で大方ちとせの遺体を司法解剖した。その結果、特捜本部は以下のように死因・死亡推定時刻などを断定した。

 

 死因:首を絞められたことによる窒息死で、首には一重の索状痕があった。

 また、出血の量から「腹を裂かれたのは絞殺された後」と推測されたが、衣類には刃物で切断された跡がなかったため特捜本部は「犯人はマタニティドレスをたくし上げた上で下着・妊婦帯をずり提げて腹を裂いた」と推測した。

 産道(膣)は閉じていたことから「胎児は腹部の切り傷から飛び出たか犯人が取り出した」と推測された。


 死亡推定時刻:遺体の状況から「犯行当日の19時30分 - 22時30分の間」とされたが、「被害者は知人女性と当日19時ごろまで自宅で談笑していたこと」から、正確な死亡推定時刻は19時以降と推測された。

 その知人女性は、土屋あずさだ。

 

 翌日、27日の捜査で判明した新事実により殺害時刻は「21時 〜 22時ごろまでの約1時間」に絞り込まれた。

「事件当日21時ごろ、明石の友人の四日市昭が立ち寄ったが、特に室内の異変には気づかなかったようです。また、ちとせは使った食器をすぐに洗う習慣があったにも拘らず、犯行現場には事件発生直前に訪問した土屋あずさを迎え入れた際に麦茶を飲んだ際に使ったコップなどがテーブルの上に放置されていました」

 捜査会議で椎名は報告した。

「他に分かったことは?」

 雛壇に立った中山葵が言った。

 瀬島祐希が挙手した。

「どうぞ?」

「事件現場、被害者女性に事件当日20時ごろ、不審な男が訪れてます」

「具体的には?」と、葵。

「30歳代、身長約165センチメートルで中肉中背、サラリーマン風の丸顔です」

「確かにそれは気になりますね」

 葵は窓の外を見た。日はとっぷり暮れ、一番星が輝いていた。

「男は1人で訪れ、応対したちとせにイナイシさんのところを知りませんか?」と尋ねたそうです。彼女は「知りません」と答えてドアを閉めたが、男に落ち着きがなく不審な点を覚えていたそうです。現場アパート付近に『イナイシ』姓の住民は住んでいません」 

「あのアパートは道路から駐車場を挟んで奥まった場所にありますよね?わざわざ訪ねに来たのは、男は道を尋ねるふりをして室内の様子を窺っていたんじゃ?」

 椎名が言った。

「なるほど」

 葵は犯人はドアから出入りしたと推測していた反面、錠を壊されたなどした形跡がなかったことから『なぜ、大方ちとせは慎重な性格だったにもかかわらずドアを開けられたのか?』という強い疑問点が残っていたが、以上の点から「男は前述の住民宅で失敗した後、同じような口実で被害者女性宅を訪問し、被害者女性が油断した隙を突いて襲撃したのだと葵は思い直した。


 葵は祐希から妊婦の鈴木渚を射殺した容疑者の中に、大方ちとせがいたことを既に聞いていた。さらに明石圭、及川良純、竹内洋、木下未来、土屋あずさ、武藤涼介の6人の容疑者がいたが、ちとせ殺しがあった夜に武藤と木下は函館にあるゲーセンにいたことが防犯カメラで明らかになった。

 葵は、明石&ちとせと同じアパートに住んでる及川良純、事件直前に訪問してる土屋あずさ、夫の明石圭、さらにちとせの元カレで同じアパートに住んでいる尾財裕翔の4人に的を絞ることにした。

 尾財は鈴木渚殺しのときは秋田にある旅館に宿泊していることが、宿泊名簿から明らかになった。

「4人が共犯である可能性もあるよな?」

 男子トイレで一緒になった前田憲男は、小便器の前で椎名に言った。

「うん」

「ところで葵さんとはどうなの?」

「いい感じ♪」

「それってPUFFYの歌じゃん?」


 8月8日

 北京オリンピック開幕(8月24日閉会式)。


 8月15日

 環状七号線でタンクローリーが横転する事故が発生(環七タンクローリー横転事故)。


 8月17日

 東京都千代田区内幸町の帝国ホテルで火災が発生。本館2階の倉庫部分を約20平方メートルを焼く。宿泊客などに負傷者はなし。


 8月18日

 警視庁組織犯罪対策5課と本所警察署は、大麻含有乾燥タバコを所持していたとして、大相撲間垣部屋所属のロシア人幕内力士を逮捕した。

 

 田辺明慶は『週刊醜聞』に勤務する記者だ。青森県警が当時発表した情報は『大方ちとせが腹部を切り裂かれて死亡していた』『赤ん坊は生存している』『現場には物色されたり争ったりした形跡がなかった』という3点の事実だけで、『腹部に電話の受話器・キーホルダーが詰められていた』などの猟奇的な事柄は伏せられていた。だが、夕方、県警捜査一課の取材をしたとき、中山管理官は「事件現場は『赤ん坊が母親の腹を裂かれて取り出されていた』凄惨なものだった」という重要点を教えてくれた。

 事件の核心について緘口令を敷かれていたのだと、田辺は直感的に思った。

 田辺はノートパソコンのキーを叩いた。

《犯行は『被害者に強い恨みを持つ者』か『妊婦に対する強い猟奇性を持つ変質者』の可能性が高い。》

 北海道で殺された鈴木渚も妊婦だった。

 例えば、何らかの理由で子供が出来ない女性?

 奇跡的に助かった男児は事件発生翌日にはミルクを飲み始め、8月20日午後に入院先の病院を退院した。退院直前、父親である被害者遺族の明石圭と主治医が記者会見し、明石は「男児の名前は公表しないが、生まれる前から『男の子だ』と分かっていたため、ちとせと2人で相談してあらかじめ決めていた名前を付ける」と明かした。

 同席していた田辺は嗚咽を噛み殺した。

 なお絞殺の凶器は首に巻かれていたロープとは別の物であり、ロープが巻かれたのは死後とされる。

 犯人は間違いなく殺人を楽しんでいる!

 田辺の怒りは沸点に達した。

「必ず暴いてみせる」

 

 7月31日

 日雇い派遣大手の『オクトパス』が、度重なる不祥事により、厚生労働省から一般労働者派遣事業の許可が取り消されることが確実になったため廃業。

 明石圭も『ミッキー』のオーナーをやめてからは、『オクトパス』に登録して食品工場で働いていた。

 社名の由来はタコ部屋のことだと思っていたが、『オクトパス』には八方に有力な団体という意味合いがあった。

 ちとせまでか、仕事まで失った圭は荒れた。営業マンの安達隆也に無言電話をしたり、あおり運転をしたりした。


 8月25日

 黄昏の青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸を中山葵は眺めていた。昭和63年に廃止された船だ。係留されてる場所はかつての発着所だ。椎名とデートしていた。操舵室や機関室、車両甲板、昭和30年代の青森駅前を再現した『青函ワールド』は圧巻だった。


 特捜本部は最初、以下の事情から明石圭に嫌疑を向けたが、被害者の死亡推定時刻である22時前後にはまだ食品工場で勤務していたためにアリバイが成立した。

 帰宅した直後、家の異変に気づきながらも妻の存在を確かめず、妻の姿を捜す前にスーツから着替えていたことに葵は奇妙な感じを覚えた。

 当日は本来は施錠してあるはずのドアがすんなりと開き、部屋の電灯も点灯されていなかったそうだ。

 報道陣の前で明石が「妻はワインが好きだったので、ワインを注がせてください」と言いながら、グラスに赤ワインを注いで霊前に供えた行為を葵は『あまりにも落ち着き払ったパフォーマンス』という先入観を抱いた。

 夫の潔白が証明されてからも葵は「顔見知りによる犯行」と推測して捜査を進めていたが、聞き込み捜査の結果、事件当日に現場アパート付近で有力な不審者の目撃情報が上がったことから「外部犯の犯行」とする線が強くなった。

「刑事失格ね……」  

 葵は溜息を吐いた。

「誰にだって失敗はあるよ」

 椎名は優しく慰めて、髪を撫でてくれた。ヒグラシが物憂げに鳴いた。

 

 明朝、捜査本部に行くと瀬島祐希が「お二人は将来はご結婚されるんですか?」とフランクに尋ねてきた。

「そのつもりよ」

 葵は言った。

「いろんなことが分かりましたよ」

 祐希はメモ帳を開いた。

 ◎近隣在住の小学生男児2人が『犯行当日21時半ごろ、事件現場付近で見知らぬ不審な男が、時折道路北側の家を窺うように俯きながらうろついていた』と証言した。

 その目撃証言によれば男の特徴は以下の通りだった。

 ⭐年齢は37歳もしくは38歳程度、身長は約175センチメートル。

 ⭐濃紺のTシャツとダメージ加工のジーパン姿でサングラスをしており、薄茶色のベレー帽のような帽子を被っていた。

 ⭐姿勢は俯き加減に、両手はポケットに入れて歩いていた。

「想像するだけで気味が悪いわ」と、葵。

 前田憲男が挙手をした。

「どしたの?ノリ」

 メイクをしながら葵。

「犯人は素人の怨恨犯ではなく外部から侵入したプロの猟奇殺人鬼なんじゃ?」

「どーゆーことだ?」と、サンドイッチを食べていた椎名が眉を潜めた。

「たまごに、シーチキンか……葵さんに作ってもらえよ?」

 前田は茶化した。

「あんまり料理うまくないんだ、で?」

「あぁ……捜査開始直後、我々は現場に争った形跡がなかったことなどから『怨恨の筋が強い』と推測していましたね?」

「うん」

「素人の怨恨犯ならば、凶器・指紋など何らかの物的証拠を残していると考えられません?」

「あ!」

 葵は度肝を抜かれた。

「『凶器が発見されない』『犯人の遺留物も見当たらない』『指紋が丁寧に拭き取られていた』しかも、犯行後にかなり冷静・確実に証拠隠滅を図っています」

 椎名が「おおっ!」と驚いた。

 葵は焦った。

(前田が私を追い抜く日もそう遠くないかも?)

 

 さらに、翌日には椎名が『犯人は医療関係者にいるんじゃ?』と言い出した。

「腹部が38cmにわたりカッターナイフのような薄い刃物で2,3回同じ箇所をなぞって切られています。しかも、臍帯まで切断されている」

「椎名、それってメスじゃねーか?」と、マエノリ。 

 葵の脳裏に『ブラック・ジャック』に登場するマッドサイエンティスト、『ドクターキリコ』が現れた。

 葵はメモ帳に『犯人は妊婦に異常な関心があり、医学的知識を持った成人男性』と記した。

 

 葵と椎名は地下にある遺体安置所に向かった。遺体の傷を調べ、西村雅人に連絡を入れた。すると、こんな返事が返ってきた。

「通常の帝王切開においては『腹を横に切る。何らかの理由で縦に切る必要がある場合は(下腹部にある膀胱を傷つけないために)臍の直下から下向きに切る。そして切開の際も犯人のように一気に切るのではなく、腹壁・腹膜を順に10 - 15センチ切開してから子宮を切開する』という方法を取るため、医者の犯行であればあり得ない」

 椎名は舌打ちをした。

「俺もまだまだだな?」

 再び、ちとせの傷を調べたところ『下から上へ』つまり帝王切開の向きとは逆方向に切られており、さらに傷そのものも帝王切開と比べてあまりにも大きいものだった。

 葵はほんの少しだけ西村のことを疑った自分に怒りを覚えた。


 記者の田辺明慶は武藤涼介を疑った。渚に振られた彼は女性を激しく恨んでいた。

 その指摘を受けた葵は田辺に対し『犯人は土足で上がり込んでいた』というそれまで公表していなかった事実を初めて口にした上で、『その靴の大きさは大人のものだった』としてこれを否定した。

「武藤の足のサイズは23」と、田辺。

「私より小さいの?」

 葵の足のサイズは25だ。


 9月3日

 葵は椎名の運転するスカイラインGT-Rで青森市街をドライブしていた。

 カーステからは宇多田ヒカルの歌声が聞こえている。椎名がパソコンで編集した、その名も『2008年葵にラブ』ってわけの分からんタイトルで、CDの表面に黒マジックで書かれてある。今年、前半に流行った曲だ。

 ①『そばにいるね』(青山テルマ feat.SoulJa)

 ②『LIPS』(KAT-TUN)

 ③『home』(木山裕策)

 ④『愛をこめて花束を』(Superfly)

 ⑤『60s 70s 80s』(安室奈美恵)

 ⑥『HEART STATION』(宇多田ヒカル)

 ⑦『チョコレイト・ディスコ』(Perfume)


「『ポリリズム』は?」

「あ〜入れるの忘れた」


 ⑧『HeartY』(HY)

 ⑨『LIFE』(キマグレン)

 ⑩『キセキ』(GReeeeN)

 

 葵は、TBSでやってた『ROOKIES』を思い出した。葵は高校時代、女子野球部に入っていた。

 前を走るパジェロミニが『GoldenApple 』に入った。台形の建物が連なっている。ここはシードル工房だ。館内には県内各地から集まったお土産が並んでいる。

 明石もここに派遣されていたが、派遣切りに遭っている。パジェロミニはここ最近、事件現場の近くで見られた。

 ドライバーは、年齢は30代後半、身長は約175センチメートル。指名手配犯の男と同じタイプだ。

 ドライバーは男子トイレに入った。椎名が警察手帳を掲げた。

「弘前署の椎名です、アンバーのところにいましたね?」

 アンバーとはアパートの名前だ。琥珀色のamberという意味だ。

「こっ、今度あそこに引っ越すんだ、悪いのか?」

「アソコで殺人事件があったのをご存知ですか?」

「ニュースで見たよ」

「よかったら氏名と住所、教えていただけますか?」

「上原裕貴、能代に住んでる」

「秋田県ですか、豚軟骨が美味いですよね?」

 椎名は歴ヲタであり、食通でもある。

「もう、いいか?小便漏れちまうよ」

 ピーピー♪無線が鳴った。

《あっ、中山だけど?殺しよ》


 葵は現場に午後4時過ぎに到着した。

 遺体が発見されたのは弘前公園近くにある廃墟に置かれたドラム缶の中だ。

 葵は直感的に遺体は明石!と思った。

 弘前公園には、弘前藩主津軽氏の居城弘前城があり、春にはさくらまつりが開かれる。

 腐敗が進んでおり、明石の家族も身元を確認できなかったため、遺体の指紋を明石の所持品の指紋と照合するなどして身元確認を進め、明石と断定した。

 及川、尾財、竹内、木下、土屋、武藤、上原の7人を葵は疑った。

 遺体が入ったコンクリート詰めのドラム缶は重さ計305kgあり、2, 3人で持ち運べる重さではなかったため、捜査本部は多人数でワゴン車やトラックなどの車を用いて遺棄したとみて捜査した。

 アンバー近隣住民によれば、8月末頃まで夜中にバイクの音がしたり、現場宅の2階で騒ぐ声が聞こえたりした。玄関脇の電柱をよじ登って2階の部屋に出入りする木下や武藤の姿や、ベランダに脚立が置いてあるのが目撃されており、近所の主婦は「玄関を通らずに出入りしていて、周辺の人間も気づかなかったのではないか?」と話していた。


 午後7時過ぎ、捜査本部に戻ると瀬島祐希が涙ながらに切り出した。

「このたび、結婚することなり警察を辞めることになりました」

「マジかよ?タイプだったのに」

 椎名は迂闊に本音を言った。

「あぁ!?」

 葵の拳がワナワナと震えた。

「相手は誰なの?」と、葵。

「警察学校の同期です」

「末永くお幸せに」

 葵は握手を求めた。

「お二人こそ、お幸せに……」

 祐希は握り返してきた。

 


 



 

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