第5話 結界突破

 彼は少年が迷っているのを感じた。いきなり神社の狛犬に話かけられて、この森から抜け出す手助けをして欲しいと頼まれたら、誰だって面食めんくらうだろう。さっき少年の瞳の奥に見えたはずの白い光は消えていた。爪をみながら思案する少年に、彼は同情とあわれみを感じた。そして母親のある言葉を思い出していた。

『坊や、あなたもいつの日か、霊力のある人間と出会うかもしれない。そしてその人と一緒に、悪霊と戦うことになるかもしれない。でも覚えていて。霊力のある人間に勇気があるとはかぎらないから。勇気は霊力とは別の能力だから。人間は基本的にみんな勇気を持っているわ。でもそれをちゃんと発揮できる人は少ないの。特に自分の命にかかわる大事な時には。』

 彼はこの少年に期待するのをやめようと思った。この少年には荷が重すぎる。この少年には霊力はあるが、自分の身をかえりみずに、勇気を発揮するという能力はないだろう。まず、この森から抜け出すのが第一だ。その手助けだけを、この少年にしてもらおう。それから母親を一緒に探す人を新たに見つければいいのだ。

「ねえ、雷一らいち君。まず、この森から僕を出してくれないかなあ。」

 少年は上目使うわめづかいに彼を見ると、爪を噛むのを止めて大きくうなずいた。

「いいよ。この森から出るぐらいの手伝いだったら、僕にも出来ると思う。一緒にお母さんを見つけるのは難しいけど。宿題とか部屋の片づけとか、僕も色々と忙しいんだ。それに来年の四月から中学生だし。」

 少年は自分自身を納得させるようにうなづいている。彼の判断は正しいようだ。彼は少年に、再び猫なで声で言った。

「じゃあ、僕が君の肩の上に乗るから、君はそのまま歩いてこの森を出てくれないかな。それで僕はこの結界から出ることが出来ると思うんだ。」

 少年は自分が手伝う内容が、思っていたよりも簡単だったので拍子ひょうし抜けした様だ。

「いいよ、いつでもどうぞ。」

 少年はちょっとおどけた様子で、左肩を下げて身構えた。

「ありがとう。」

 彼は礼を言うのと同時に、少年の肩に飛び乗った。

「よし、準備OK。出発だ。」

 彼は少年をはげますようにわざと大きな声で声をかけた。少年の肩は小刻みに震えている。

 

 雷一は飛び乗った狛犬があんまり重くないので、思わず左肩を見た。狛犬は雷一の左肩に乗っているが、微妙に宙に浮いている。狛犬が乗っているというよりも、狛犬と雷一の左肩が一体化しているという感じがした。雷一は左肩がほんのりと温かいのを感じた。以前、時恵ばあちゃんに貼ってもらった湿布しっぷの様な感覚だ。

「じゃあ、このまま山道を下って、国道に出ればいいんだね。」

 左肩を見ると、狛犬が無言で頷いている。緊張しているようだ。さっき、狛犬は今年で百十二歳だと言っていたが、人間で言うと何歳になるのだろうかと雷一は考えた。犬の一年は人間の七年ぐらいになるとテレビで解説していたのを思い出した。生まれて五年の犬は人間の三十五歳くらいになるという計算だ。狛犬も犬と一緒だと考えると百十二を七で割ればいい。

「えーと、百十二割る七はいくつだっけ」

 雷一は暗算が苦手だ。今回は三桁だからよけい難しい。

「十六かな。」

 狛犬がすぐ答えた。計算が早い。雷一はこいつ、意外と頭がいいかもと思った。

「十六歳か。」

 左肩の狛犬の顔をチラッと見た。人間で言うと高校一年生になる。でも高校生が母親の事をあんなに、

「お母さん、お母さん」

っていうかなと雷一は思った。甘えん坊の百十二歳かと思うと、雷一は何だか可笑おかしかった。

「もうすぐ国道に出るね。」

 狛犬が声をかけてきた。車の走る音が段々大きくなってくる。あと三十メートルぐらい下ると国道に出る。

「結界を抜ける時、ちょっと衝撃しょうげきがあるかもしれない。」

 狛犬が雷一の方を見て言った。雷一は間近で見る狛犬の顔が、少しこわばっているのがわかった。

「衝撃って?」

「結界はさっき上空で見せたように、薄い膜の様におおっているから、そこを突破しようとすると僕たちをね返そうとすると思うんだ。」

「じゃあ、どうするの?」

「僕に考えがある。」

 狛犬は雷一に向かって微笑ほほえんだが、顔がこわばったままだ。その顔を見て雷一の顔もこわばってしまった。山道を下りて、国道の前まで来た。目の前にラップのような薄い膜が立ちふさがっている。雷一は今日こうやって目の前に結界が見えるのは、狛犬の霊力の影響だろうなと思った。なぜなら、今まで自分一人でこの森の近道を通り抜ける時には見えなかったのだから。

「じゃあ、これから僕の言うとおりにお願いします。」

 狛犬は雷一の方を向いて、ペコリと頭を下げた。大きな両耳がダラリと下に落ちた。

「わかりました。」

 雷一もペコリとお辞儀じぎした。

「ううーん。」

 狛犬は低くうなり始めた。徐々に唸り声が大きくなってくる。狛犬の唸り声に連動する様に結界の膜が震えだした。雷一の左肩がだんだん熱くなってくる。

「雷一君、気持ちを集中して僕にエネルギーを送ってくれないか。」

「エネルギーを送るって、どうやって?」

「君の左肩に意識を集中して、気を送る感じかな。」

 雷一は戸惑とまどった。自分にできるだろうか。そもそも自分にエネルギーがあるのだろうか?雷一の気持ちを見透みすかしたように狛犬が声を掛けてきた。

「大丈夫、君ならできるよ。僕が見つけた能力者なんだから。」

 雷一が狛犬の顔を見ると、もうこわばっていなかった。碧い瞳の奥から強い力を読み取れる。雷一を信じてくれている顔だ。雷一は何だかできそうな気がしてきた。狛犬が自分を頼る気持ちにこたえてあげたかった。狛犬をお母さんに会わせたかった。雷一は左肩に意識を集中した。そして自分のこの強い思いが、左肩から狛犬に伝わりますようにと願った。

 狛犬の唸り声に低い重低音が重なってきた。結界の薄い膜の震えが大きくなっていく。雷一は自分のエネルギー、いや願いが狛犬に伝わっていくのを感じていた。

「さあ、進もう。」

 狛犬が雷一の方を向いてうながした。雷一は頷くと結界に向かって歩き出した。

「結界の中に入ろう。」

 前を向いたまま、狛犬が雷一を促す。

「わかった。」

 雷一は頷くと、結界の薄い膜に右足を踏み出した。軽い抵抗感が体を包み込む。例えるならプールの水の中に入って行く感じだろうか。左足も踏み込んだ。全身が結界の薄い膜の中に包み込まれた。雷一は本当に水の中にいる気がしてきた。雷一はなぜそう思うのか気づいた。さっきまで聞こえていた車の音や町の喧騒けんそうが消えたからだ。雷一は何だか大きな水槽の中にいるような気がしてきた。前方にゆらゆらと外の景色が見える。

「さあ、今度は結界の外に出よう。」

 狛犬が声をかけてきた。雷一は狛犬の声がちょっとうわずっているように聞こえた。

「わかった。行こう。」

 雷一は右足を前に踏み出した。しかし、右足が前に出ない。今度は左足を出した。やはり、前に出ない。流れるプールの中で、水の流れに抵抗ていこうして逆に歩こうとしている感覚だ。

「だめだ、足が前に出ない。」

 雷一が左肩の狛犬を見ると、雷一を見つめる狛犬と目が合った。

「結界は入るのは簡単だけど、出るのが難しいんだ。じゃあ、次の手段だ。」

 狛犬は雷一にそう言うと何かぶつぶつと唱え始めた。

「何をするの。」

 雷一の質問に答えずに、狛犬は一心不乱いっしんふらんに何か唱え続けている。雷一が聞いたことがない言葉だ。狛犬の体が段々輝いてきた。最初は白っぽく輝いていたのが段々黄金色になってきた。雷一は驚きと興奮で声を上げた。

「うわー、変身してる。」

 雷一の声に、狛犬はちょっとムッとした顔をして言った。

「変身じゃないよ。お母さんに習った術だよ。体内エネルギーの質度を高めてるんだ。」

 狛犬はそう言うと、さらに大きな声で術を唱え続けた。雷一は左肩にいる狛犬がまぶしいくらい金色に輝いているのを見て、ちょっと感動していた。狛犬は母親と毎日厳しい修業を続けていたに違いない。だから強いきずなで結ばれているのだ。だからよけいに母親に会いたいのだろう。あらためて雷一は何とか狛犬を母親に会わせてあげたいと思った。

「よし、じゃあもう一度、挑戦しよう。」

 雷一はそう言うと、結界の壁に右足を踏み出した。今度は踏み込める。

「いけるよ。」

 雷一が狛犬を見ると、狛犬は前をみて頷きながら術を唱え続けている。雷一は左足を大きく踏み込んだ。顔に結界の壁がまとわりつくのを感じながら前に進むと、視界が開けた。

 国道に出ていた。道路の向かい側にスーパーの広い駐車場が見える。急にいろんな音がまわりから聞こえてきた。車の走行音、スーパーの店員の呼び込みの声、たくさんの人々のざわめきの声。雷一は急に飛び込んできた様々な音のシャワーに、体がけがされていくような錯覚を覚えた。さっきの結界の無音世界むおんせかいが神聖な感じがして、少し残念な気持ちになった。

「ありがとう。僕を結界から出してくれて。」

 声に反応して雷一が左肩を見ると、狛犬が口を左右に大きく広げて笑っている。雷一も狛犬の顔を真似て笑った。ほっぺたが妙にひきつった。

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