明日のマラソン大会が嫌な少年、家出する。

詩野ユキ

第1話 

 紅葉が散り始め、冬がスタートダッシュを決めようとし始めている頃、俺は自分の部屋で固い決意を抱いていた。

 押し入れの奥にしまってあったふかふかのベンチコートを取り出す。いそいそとそれを着込んだら、机の上に乱雑に放置してあった肩掛けの鞄を手にする。中を開くと、マジックテープで開け閉めするスポーツメーカーの小銭入れを出して、俺が小学校1年生から愛用している財布である。ビビりと、俺の耳が何度も聞いた音を響かせて財布の残高を確認。 一、ニ、三、四……。

「不安になんかなってないからな」

 自分しかいない部屋で、言いわけするように小さく呟く。呟いて、はっと何かに気付いて、慌てて扉を見る。

「……」

 扉は僅かに開いていることはなく、しっかり閉じられていた。それを確認してふぅ、と安堵のため息を漏らす。

 こんな様子、お姉…………姉に見られたらたまったもんじゃない。寂しいの? 今日は一緒に寝てあげようかとか? ニマニマ口元を緩ませて、からかってきそうだ。

 姉は高校生。家で僕が一人で遊んでいると、よくそうやってからかってくるのだ。

全く、俺をかわいそうな奴だと勝手に思い込んで同情するのはやめてほしい。子供扱いしないでくれよ、と心の中で思うも、姉にそのことを言えた試しはない。

 なんか勢いに負けて何も言えないんだよなぁ。

 意思が弱いのか、決意が弱いのか、それとも思いが弱いのか。

 …………。

それ全部同じ意味じゃん。小学生の俺の脳内辞典には語感のいいフレーズは収録されていないようだ。もっと本を読んでおくべきだったかな。

 でも大丈夫。子供っぽい言葉しか呟けない俺も、今日で何かが変わるはず。俺は学校で習ったんだ。人間として成長するには、嫌なことに嫌と言える人間になりなさいと。黙っていては相手には何も伝わらないよ、行動してみよう、と。

「……ふふっ」

 この先の展開を想像して俺は思わず笑みをこぼす。強者が強者と出会ってワクワクした時みたいな、この先一体どうなってしまうんだろう! みたいなそんな感じの笑みだ。

 財布の中身を確認したら鞄に戻し、肩にかける。少し心もとないが仕方ない。小学生に財力を求められても、駄菓子の当たり券で胸を張ることぐらいしかできない。外は寒いので防寒対策は念入りに、お姉ちゃんが編んでくれた毛糸のニット深くまでぎゅっとかぶり、手袋をつける。壁に立て掛けてある鏡の前に立つ。

「……」

 ビシッと決まってカッコいいかなと思っていたけど、なんか違った。背の低い雪だるまみたいだった。

 まあ見た目はいいのだ。寒さを侮ってはいけない。俺はファッションより暖かさを重視する派なのだ。

 粗方準備を終えた、時は来た。部屋の扉に手をかけ、ドアノブをゆっくりと捻る。そこで、今までの自分を思い返す。

 飄々と生きてきたこの小学校5年生までの俺よ。今日、俺は大人としての一歩を近づくために、嫌なことは嫌ですと言える人間になるために、自分の意思を主張する。

 そう力強く胸の中で決意を表明し、俺は扉を開き部屋を出る。トタトタと階段を駆け下りて、ささっと高速のすり足で玄関まで駆け抜ける。そして、行ってきますの一言もなしに、ガチャリと玄関の扉を開けると、一目散に家を出た。

「俺は大人になるぞ! 」

 冬空の下。小学校五年生、佐ノ亘は明日開かれるマラソン大会が嫌すぎて、意見の主張とかいう名のボイコット、つまり家出をした。


 家出した俺がてくてくと、目的もなく歩いているとぴゅうーと風が沸騰したヤカンのような音をたてて吹き抜けた。ベンチコートを着てるとはいっても、風が吹いている冬の屋外は寒く思わずぶるっと身震いをする。

 こんなに厚着をしているのにまだ寒い。にもかかわらず、マラソン大会の時はみな半袖半ズボン。何が悲しくて、モンスターが大量発生している場所に軽装備で挑まねばなれぬのだ。それに、あの過酷さ。マラソンは走り終わった後の爽快感が気持ちいとか、ほざいている特殊な人間がいると聞いたことがあるが、きっとその人たちは将来危険なマゾ男になるに違いない。…………ん? となると、マラソン好きな人間は早く捕まえた方がいいのではないか。きっと性犯罪の件数が減るに違いない。

 ……いつかこの案を実現できないだろうか? ワンチャンマラソンという存在も撲滅できそうだし、一石二鳥じゃないか?

 本気で思っていた。うんうんと首を縦に動かし、満足げにほほ笑む。

 それで大いなる社会貢献を果たし、俺は一生働かなくても、社会が養ってくれようになれば…………。うん。天皇陛下と握手してる姿までは見えたな。

 そんな誇大妄想を繰り広げながら、歩みを進めていたが、ビタッと足が止まる。

「……っ! 家出第一の壁が!? 」

 カッ目を見開いて、じっと先を見つめる。

視線の先には交番があった。交番の前には、お巡りが警棒片手にくるくる回して立っている。

 逡巡し、引き返すべきかと少し悩んだが、取り合えず丁度いいところに電柱があったので、傍の電柱の後ろに隠れる。電柱の影から半分だけ顔を覗かせて、交番の様子を確認した。

「……」

 この家でミッションは絶対に失敗するわけにはいかない。誰になんと言われようと、絶対に引き返すものか。大人になるには嫌なことをきちんと嫌と意見できる人間でなくてはならないのだ。

とすれば、現在の俺の選択肢は二つ。回り道をして交番を避けるか、このまま真っすぐ何食わぬ顔で突き進むか。

安定択は回り道。何食わぬ顔戦法はもしお巡りに、あれ君? 一人でどうしたの話しかけられたら一巻の終わりだ。

散歩です、と答えればいいじゃんとか軽々しく思っちゃったならば、それは早計と悔い改めて。いや、改めろ。俺にそんな度胸があると思うなよ。自慢ではないが、人と話すのはあまり得意ではない。

「うーーん」

 電柱の後ろで顎に手を添えて、考える人張りに熱心に考える。勇気を出して突き進むべきか。

 …………でもやっぱり。

 ゆらりと手を下ろし、顔を上げる。目をスッと細めて、大きく一回頷く。

結果、回り道をすることにした。

 うむ。安全第一だな。

 方針が固まったので、回れ右をして後ろを向く、速やかに違う道に移ろうと早足で進み始めようとして……。

 俺の足は軽快に歩みを進めておらず、先ほど動揺、大木のようにビタッと地面に張り付いていた。

 直立不動になっている俺の足が微かに震えだす。電動マッサージ機みたいに微振動し始めた。

「なっなんで! こんなタイミングよく、振り返った所にグルルと唸り声を上げるブルドッグがいるんだよ! 」

 小学生の俺はプルプルと涙目で、悲痛の叫びをあげた。心の底からの叫びであったと思う。だってあまりに必死の叫び声で、最後の方なんてかすれすぎてハスキーボイスになってたもん。

 グルルと唸り声を上げるブルドックは、その短い足でよちよちと、ゆっくりと一歩ずつ近づいてくる。

 突然の犬出現により気が動転している俺は犬に向かって抗議の声をあげる。

「ブルドッグならグルルとかい鳴き声をあげるなよ! せめてブルルって鳴け! 」

 しかし、相手はブルドッグなのそんな抗議の声に、はい、分かりましたと答えてくれるわけもなく。むしろ、俺の大きな声に反応してより一層大きな唸り声を出す。

「うわわわわわ。グルル言ってるよ! もうエフ1のレーシングカーみたいな音になってるよ! 」

 ブルドッグに追い詰められてしまった。まさかいきなり野生のブルドッグが出現するなんて思いもしない。

 ん? よく見るとブルドッグの首には首輪がまかれている。野生ではなく、ペットのブルドッグのようだ。

なんてちょっと冷静に分析してみたけど……。

ブルドッグに身の危険を感じた俺は電柱から飛び出し、ブルドッグとは反対方向にかけ出した。

「くそぉ! ちゃんとつないでおけよ見知らぬ飼い主ぃ! 」

 あんな往来にブルドッグを解き放ちやがった飼い主に恨みの言葉を叫んで走り去った俺は、ますますブルドッグの飼い主に恨みを覚える。

 やってくれたな。

「おや? こんな寒い日に一人でお出かけかい? 見たところ雪山に登りに行く登山家みたいに、やけに重装備で身を包んでいるけど……迷子ではないよね? 」

 俺がひぃひぃ息を切らして走った結果、交番の前にいたお巡りに見つかってしまった。だらだらと冷や汗が流れる。

流石に家で少年だとは気づかれていないとは思うが、ないやら疑惑の目を向けられている気がする。膝に手をついてはぁはぁと息を乱していたが、深呼吸して落ち着かせると、できるだけ愛想よく笑顔を作ってお巡りに顔を向けた。

「……こんにちは。お勤めご苦労」

 凄い間があった。

「おっおう。…………律儀な少年だね。あ、ありがとうと言えばいいのかな? 」

 突然小学生に労いの言葉を駆けられてやや困惑気味のお巡り。さっきよりも表情が険しくなった気がする。眉が八の字に吊り上がっていた。

 俺は笑顔を顔に張り付けたまま、じっと動かなくなる。

頭の中では直前の自分の発言を猛省していた。

何言ってんだ俺! 何、どこかのお偉いさんみたいに、上司気取って声かけてんだよ。ああ、どうしよう。お巡り、すっごく険しい顔で見てるよ。腕まで組んで、俺の頭から足まで品定めするようにまじまじと見てきてるよ。

くそう。こうなったのもさっきのブルドッグ、ひいては放し飼いをしていた飼い主のせいだ。絶対に許さない。今度出会ったら絶対に復讐してやる。

と心の中で怨嗟の炎をメラメラと燃やしているとお巡りが再び話しかけてくる。

「君はどこに住んでる子なのかな? ほらここ交番でさ。中は暖かいからちょっと、中に入ってお話聞かせてくれないかな? ココアも出るよ」

 険しい顔だったお巡りが、今度は分かりやすく、ニッと白い歯を見せて、張り付けた笑顔を向けてきた。

 うわぁーーーーー。完全に疑われています。もうどうすればいいのでしょう。疑われていることに疑いの余地がありません。万事休すですか、これ? 

 もう何と答えればいいのか分からなくなった俺は、お巡りを真似するように、ニッと白い歯を見せて、口角を吊り上げる。

「あははははは」

 とりあえず笑ってみた。

 笑いながら細めた目を徐々に開いて、どんな反応をしているのかなぁと、恐る恐る確認してみると……。

「…………え、どうしたの? 大丈夫? 変な物でも食べたの? ささっ、とりあえず交番で休んでいいよ。ココアはたんまりあるから」

 凄い真顔で普通に心配された。状況は増々悪化した。むしろ余計にお巡りの印象に残る状況を作り出してしまっているせいで、適当な言い訳ではこの呪縛から逃れられそうにない。

 まずい。まず過ぎるぞ! 本当にどうしよう。このままじゃ、このお巡りに温かいココアをご馳走になりながら、ほっと一息。お巡りが赤ちゃんをなだめるような優しい声で、どうしてそんな恰好をして交番の前を彷徨っていたんだいと聞きき、俺は顔を真っ赤にしながら、……マ、マラソン大会が嫌すぎるのでマラソン大会が終わるまで家出しようとしてました。という結末まで待ったなしじゃないか! 

小学校五年生にして人生一生の恥だよ。人生一生を背負うタイミングが早いよ。

ああっ! もう! 本当にどうしてこうなった! マラソン大会から逃げようとしていただけなのに、余計に恥をかいて、マラソン大会に出るなんて絶対に嫌だ! 

「…………その、あの……」

「ん? なんだい? 」

「ココアは大丈夫です。さっき家でたんまり飲んできたので、また今度の機会にします」

「そ、そうかい。既にたんまりココアを飲んでいたんじゃしょうがないね。糖分の取りすぎは体に良くないからね」

「そ、そうですよね! 子供の時からきちんとした生活習慣が大切ですもんね! …………はい。うん。ではご心配ありがとうございました。それでは、僕はこれで」

 ぺこりとお辞儀してさりげなく立ち去ろうとする。くるりと背を向けて、お巡りの視界にいるうちは焦らずゆっくりと一歩ずつ離れていく。

 よしっ! なんとかっ

「いやいやいや、ちょっと待ってね。なんだか凄く当たり前な感じで帰ろうとしてるけど、ダメだよ少年? ならばココアは出ないけど交番の中でお話をしてもらわないと」

 ポンと肩に手を置かれた。

俺はギギギとさびれた機械のような速度で首を振り向かせる。振り向いた先では、お巡りが口をへの字に曲げて険しい表情をしていた。

 アーメン。

 口を引き結び、だらだらと冷や汗を流しながら、最善の回答を探し頭をフル回転させる。しかし、そんなものを途端に思いつくわけもない。

 今なら指名手配犯の恐怖が分かるよ。こんなに心臓がどきどきしているんだね。

 そして俺が無理やりお巡りの手を振りほどいて走り去ろうかと、愚策している時だった。

「あら、久しぶり昭君。交番の前でどうしたの? 」

 突然背後から、おそらく女性だと思われる和やかな声が聞こえてきた。万策尽きたと言わんばかりの真顔をお巡りに向けていた俺だけど、その声を聞いて驚きのあまり、思わず振り向く。

 振り向くと、視界に映るのはやはり女性。それも、俺の二倍ぐらいの身長があり、背中のあたりまで伸びる艶やかな黒髪を頭の後ろ一つ結びにし、西洋人形のように端整な顔立ちをした大人の女性であった。

 もちろん面識はない。俺は全く知らない謎の美女に、え? 何言ってんの? という言葉を顔に張り付けて視線を送る。

「昭君、一年ぶりぐらいかな? 久しぶりでお姉さんの顔忘れちゃった? 私だよ私ぃー」

 されどこの美女は俺の視線を受けても、にこやかな笑顔で話しかけてくる。実は俺の隣に誰かいるのではないかと、周りキョロキョロ見てみるも、やはりここにいるのは俺とお巡りとこの美女だけである。

 え、俺って実は昭君っていう名前だったの? 俺達ァ健康優良不良少年ですか? 

 そんなわけで実は自分は、街をバイクで颯爽と駆け抜ける不良少年なのかもしれないと思い、まじまじと美女の顔を眺めて見るが、やはり全く見覚えがない。

となると、この美女はオレオレ詐欺ならぬ。私私詐欺の常習犯なのだろうか。お巡りの前で犯行に映るとは、なかなかのつわものである。

どちら様ですか? 俺がそう呟こうとした時、それより早くお巡りが先に口を開き、それを遮った。

「あなたはーーーこの少年の保護者様ですかな? 」

 首を僅かに傾け、少し頭を下げる。遠慮と疑問のまじった低姿勢でお巡りが言った。

「保護者ってわけではないんですけど、私は昭君の親戚で、今日私の家に来ることになってたんです! ね、昭君! お母さんからそう聞いてるよね! 」

 美女は俺に不可思議な笑顔を向けて、ね! ね! と念を押すように繰り返す。

 じぃーーと効果音が聞こえてきそうな程、俺は棒立ちでその美女を見つめる。

「昭君がなんだか、初対面の人に謎の笑顔を向けられて困惑しているように見えるのだけど、気のせいですかな? 」

 美女は、あははは、と口元を隠して大きく笑い、

「気のせいですね! 」

 太陽のような笑顔を見せてそう言い切った。

 いや、気のせいじゃないんですけど。全くその通りなんですけど…………ただ。

 美女がお巡りに笑顔を振る舞き、お巡りとにらめっこしている間、俺は視線を僅かに下げて顎に指をそえて少し考える。

 家出をどうにか成し遂げたい俺としてはこの状況、ありがたいことなんじゃないか? この美女には全くの見覚えはないし、俺は昭君ではないけれど、この人の言い分に乗っかっておけば、お巡りの魔の手から逃れられるのではなかろうか。まあ、お巡りが悪い人ではなく俺のことを心配して言ってくれているのは分かっているのだけど、今の俺にとってその親切心は困るのだ。

 よし……。

「……なんだか、昭君が真剣な面持ちで考え事をしているように見えるのですけど」

「最近の子供はあまり人と話したがりませんからね。向かしの江戸っ子とは違うんですよ。ほら、それにもうすぐ思春期だし、言いたくないことの一つや二つあるものですよ。ね、昭君! 」

 美女が頭にポンポンと手を置いて、そう言う。

 しかし、お巡りはまだ納得いっていないのか、表情が晴れない。そうですか……と小さな声で煮え切らない様子で呟き、で訝しむように目をすっと細めている。その様子に流石に美女も困ったのか、先ほどまでの天真爛漫な笑顔に陰りが見える。

「あーーそう言えば! お母さんは今日仕事で帰りが遅くなるから、まさこ叔母さんの家に遊びに行けって言われてたんだった! 」

 俺はポンと開いた手に握りこぶしを乗せて、某見た目は子供、頭脳は大人な少年のような声で高らかに宣言した。俺はとりあえず私私詐欺に引っかかっててみることにした。

もしこの人が危ない人だったら、それはその時考えよう。

「……」

 流石にあからさま過ぎたのだろうか、睨み合っていたお巡りと美女が二人とも視線をぶつけ合うのをやめて、ばっと顔を俺の方に向ける。え? といった表情で僕のことを見下ろしていた。

わずかな沈黙の後、美女の脳が現在の状況を理解する。

 そしてどこぞの女子高生かよ、とツッコミたくなるようなキャピキャピ声で言った。

「もぉお! 昭君たらぁー。おてんばさんなんだからぁ。あと私は叔母さんじゃなくてお姉さんだぞぉ! お巡りに疑われてちょっと焦ったんだぞぉ! 」

「ご、ごめぇーーん! 寒くて頭が可笑しくなってた! 」

 ……上手く合わせようと思ったら、美女のノリが予想の斜め上過ぎて、俺も変なノリになってしまった。

 美女がキャピキャピノリを続ける。

「それは大変! もしかしたら、強迫性障害かもしれないね! 急いで病院に行こう! 」

 ばっと美女が僕の手を握る。しかし、その握る力が存外強く俺の口から要らぬ言葉が漏れてしまった。

「いっ……このゴリっ」

「……」

イッタァァ! 

さらに強い力で握りしめられた。

思わず抗議の視線を下から向けると、仏のような表情で見下ろされる。その背後になんだか金剛力士像のようなものが見えた。

生物の生存本能から、頭の中に黙らなければならないという指令が駆け巡る。僕はぎゅっと口を堅く結んだ。

それを見て、美女はふふふと満足そうに優しい笑顔を見せる、ぐいっと俺を自分の体の方へ引き寄せた。

「……」

お巡りはこの一連の茶番劇に呆気に取られて、ぼうっと口を半開きにしていた。

「じゃあ、お巡りさん。私達は一刻も早く病院に行かなくてはならないので。さようならお巡りさん! 行こうか昭君! 」

 まくし立てるように矢継ぎ早に言うと、俺の手を引っ張って歩き始める。

「さ、さよなら! 」

「……あ、はい」

俺は引っ張られながら、ちらりと後ろを見た。そこでは、お巡りはまだ口を半開きにして突っ立っていた。


 美女に手を引かれながら十分程歩き続けた。既に交番は視界から完全に見えなくなっていた。そろそろいいだろう。一歩前に立ち俺の手を握り、前だけを見て淡々と歩みを進める美女の

腰あたりを空いている方の手でちょんちょんと触る。

 美女はピタッと足を止める。どうやら美女も俺のチョンチョンで意図を察したらしく、手を放してくれた。

 俺はまず一番気になっていたことを単刀直入に聞いた。

「あなたは私私詐欺の常習犯ですか? 」

 美女の目が点になる。大きく目を見開いて呆然としているようだ。

 その反応を見て、俺も違うと気づき安心する。ほっと一息ついた。

「よかった。違うんですね」

「当たり前でしょ! まさかずっと私に手を引かれながら私私詐欺の常習犯だったらどうしようとか考えてたの!? 」

 美女は心外だと言わんばかりに、眉をしかめて金切り声を出す。

 俺は何をそんなに怒っているのかよく分からないので、平然と答えた。

「はい、そうですけど。あの状況だったら普通、そう思いません? 」

「えーーー。悲しいなぁ。私は君が私の完璧な演技を見て心の中で感動。そして意図をくみ取って演技に乗るっていう。完璧な信頼関係を築けていると思っていたのに」

 俺はやれやれと肩竦めて、

「そんな簡単に信頼関係が気付けたら人間苦労はしませんよ」

「君小学生だよね?! なんで、さも人生の半ばを迎えた人みたいな反応なの? 」

「最近の小学生は色々あるんですよ。のうのうと生きていたゆとり世代とは違ってね」

「かっちーーん。まさか、助けた小学生にこんなにマウントを足られるとは思っていなかった

よ。お姉さん驚きだね」

 その言葉を聞いて、最初の疑問を思い出す。

「え。そういえば助けたって言いましたけど、私私詐欺じゃないとしたらどうして僕のことを、助けたってのもなんか変ですけど…………助けてくれたんですか? 」

 それを聞くと美女は自慢げにふふんと鼻から息を漏らし、腰に手をあてて胸を張った。

「聞きたい? 聞きたいよね? …………いや、そんな嫌そうな顔をしても、実は心の中では

君がとてもこの訳を知りたがってるツンデレ君だってことは私分かってるから。そういう出来る系のお姉さんだから」

 面倒くさそうで本当に聞きたくなかったのだが、勝手に脳内補完されてしまった。俺を勝手

にツンデレにするのはやめてくれ。

「お姉さんね、人の表情を見ればね、その人が感情が大体分かるの! 数々の修羅場を潜り抜

けてきた私は、類まれなる人間観察力を身に着けていたの! それでさっき君の焦りと困惑に

包まれた横顔を見てビビッときたわけ。……ふっ、しょうがないなぁ。理由は分からないけど

いっちょお姉さんが困っている小学生を助けてあげますか、とね! 」

「辛い人生だったんですね。叔母さんはきっと宇宙飛行士に向いてますよ。俺応援します」

「ちょっと! それどういう意味! あと私は叔母さんじゃないよ! お姉さんと言って! 」

 きっと長いぼっち人生だったのだろう。人の表情で殆ど感情が分かるほど人間観察をしてき

たとなると、さぞ孤独に強いのだろう。宇宙空間に放り出されても落ち着いて対応できそうだ。

「私に哀れみと期待を混合した視線を向けないで! どういうつもりよ! それに私はもうち

ゃんと立派な職業についてますぅ! 残念! 」

 自称お姉さんことこの美女は、小学生相手に両手を広げて全力で煽ってきた。

「へぇ? どんな職業ですか? 」

 ひくひく眉をひくつかせて、変な職業だったら心の底から馬鹿にしてやろうと思い。どうに

か声を抑えてきいた。

 お姉さんはきらーんと目を輝かせる。しゅばっと腕をクロスさせ決めポーズで言った。

「聞いて驚きなさい! 女優よ! 」

「……………………へぇーーー。それは、それは………………凄いですね」

 あまりに胸が苦しくてお姉さんを直視できなかった。目から溢れそうになる雫を必死に抑え

る。

「ねぇ、なんでさっと目を背けて悲しい顔をしているの! ポケットからおもむろに飴を取り

出さないでよ! いらないよ! 私本当に女優だから! 最近ちょくちょく有名なのにも出て

るのよ! 」

そう言うと、お姉さんポケットからスマートフォンを取り出す。カツカツと音を鳴らし何

検索すると、ほらっ! と俺の顔の前に持ってきてその画面を見せつけてきた。

 じーーと目を凝らして画面を見ると、そこには映画の出演歴が羅列されたうぃきぺでぃあが

映っていた。見ていくと、中にはアカデミー賞ノミネート候補にまで上がった作品など、俺で

すら知っている作品がちらほらとあった。

「えーーこれ本当ですか? 知ってる映画がちらほらあるけど、俺お姉さんみたいな人、映画

で見たことないよ? 」

 するとお姉さんは、でしょうねと強く頷いて、

「だって私、通行人みたいなわき役でしか映画出たことないから」

 虚ろな目で斜め下を向いて、へっと自暴自棄気味に声を漏らし、その悲しい真実を暴露してきた。

「あーーーーなるほどぉ」

 なんだかいたたまれなくなって、どう反応を返せばいいか分からなくない。くそぉ! 学校

ではわき役しかやったことない女優への対応の仕方何て習わなかったぞ! 今こそ先生、分かりませんと手を上げて教えを乞いたい気分だ。

 キョロキョロ周りを見渡す。視界の左隅に公園が見えた。

軽く話を聞いた限りではこのお姉さんが本当に親切心だけで、俺を助けてくれたのかは些か疑問が残るが。結果だけ見れば助かれたのは事実である。見たところ悪そうな人でもないし、それになんだか色々溜まっていそうな様子。とりあえず、話ぐらい聞いてあげるか。家出中でどうせやることもないんだし。

そう思い、俺は提案した。

「あそこにベンチがある公園があるんですけど、そこでお話でもしますか? 」

 指を指してそう言うと、お姉さんは朧げに顔を上げて公園を見る。そして、目じりに浮かんだ涙を拭きとると、弱弱しい声でするぅと呟くき、力なく首を縦に動かした。


 という訳で、家出中の俺は女優のお姉さんと公園でお話をすることになった。

 俺が先に公園のベンチに座っていると、お姉さんが遅れてトタトタとやってくる。両手には飲み物が入った缶を持っていた。公園の入り口付近にある自販機で買ってくれたようで、わざわざ俺の分まで気を利かせて買ってくれていた。

 目の前まで来ると、両手にある缶をグイっと差し出して、どっちがいいと聞いてくる。左はココアで右は微糖のコーヒー。いつもだったらココア即答のところだけど、現在家出中の俺としてはこの家出を得て大人に一歩近づくつもり。ふっと鼻につく笑い方をすると、

「コーヒーで」

 やっぱ、様々な試練を乗り越えないと大人になれないからなぁ。苦さを制すものは大人っぽさを制すのだ。

 ……あぁ、にげぇ。

「小学生でコーヒーとは大人だね、少年」

 孫を微笑ましく見守る祖母みたいな視線を向けて、そう言う。

「あっお姉さんもそう思います? ですよね! ですよね! 俺、今日一歩、大人に近づくんです。さあ、そんな大人な俺になんでも話してくれていいですよ! この大海原のように広い器量でなんでも優しく受け止めてあげますから! 」

お姉さんに大人と言われて気分が良くなった俺はポンと胸を叩いてそう言った。

「うぅぅ、ありがとう、少年! 最近東京から逃げるように帰ってきたせいで、家での私の居場所がなくてね。誰も私の愚痴を聞いてくれなかったんだよ! ところで、君の名前は? 」

「俺は亘です。佐ノ亘、小学五年生です」

「亘君か! よろしくね! 私は荒々木乙衣。芸名は乙乙でメメって読むわ。年齢は内緒よ! でもお姉さんなことには間違いないから、そこはがっかりしなくてもいいわよ! 」

 そして、乙衣さんは別にどうでもいいことをやけに主張して、家に居場所がない原因、東京から逃げかえってきた理由とやらを話し始めた。


「……だけどさぁ! 私の演技にキャラクターの魂が感じられないってなにっ?! 私だって必死にやってるつもりだよ? 私の思うキャラクター像をしっかりイメージして、全力で表現したつもりだよ。それにキャラクターの魂が足りないって、魂が感じにくいような脚本も問題なんじゃないかなぁ! 」

 乙衣さんはグイっと残りわずかだったココアを飲み干すと、胡乱な目つきではぁと重々しい溜息をつく。人生に絶望したブラック企業のOLみたいになっていた。

 俺はささくれだった乙衣さんの気を落ち着かせようと、まあまあと柔らかい声色で話しかける。

「でも、監督さんがそう言ったんですよね? ずぶの素人じゃなくてプロ中のプロである監督さんが、そう言ったんなら、何か足りないものがあるってことなんじゃないですか? 」

 うん。大人っぽいフォローが出来てる気がする。

 ちょっと自信ありの俺のフォローを聞くと、乙衣さんは顔を横に背け、死んだ魚のような目をしてけっ、と唾を吐く真似をした。

「でも何さ足りないのものって! もうそんなの私には分かんないよぅ! 」

「……はぁ」

 俺はすっと乙衣さんから視線を外し、正面を向き奥にある遊具を遠い目で見つめた。

 自分で話を聞くといっといてなんだが、とても面倒くさい。さっきから俺がどうフォローしようにも全て荒んだ返答で返される。常時爆発する無限グレネードの傍に座っている気分だった。

「……」

しばらく、ぼうっと遊具を眺めていたが、ちらと目端で見ると。

隣では乙衣さんが太股に両肘をついて背中を丸め、ダンゴムシみたいにうなだれていた。思わず、じーーと湿っぽい半眼を向ける。その視線に気づき、乙衣さんが何さ? と不満げな声を漏らし、荒んだ視線を返してきた。

「大海原のように広いその器量で私のことを受け止めてくれんでしょ。ねえ、受け止めてよ! さあ! 」

 ああ、面倒くさい! 

 乙衣さんがここまでやさぐれてしまっている原因を端的に話そう。

 乙衣さんは小さい頃から女優になるのが夢だった。18歳のころ夢に向かって進むチャンスを掴み、東京の劇団に入る。初めての大都会での生活に四苦八苦しながらも、目の前に広がるチャンスに愚直に突っ込み続けた。最初はどんな役でも、演じれるならばと率先して行い。会場の設営と片付けの時間の方が長い生活も少なくなかった。

けれど、数年もその劇団に所属し続ければ、劇団で主役などを演じる機会が多くなってくる。そしてある日。いつものように公演を終えて舞台袖にはける乙衣さん。いつもと違うことが

起きる。そこには、びしっと黒いスーツに身を包んだ見知らぬ男性が立っていた。不思議そうに近づく乙衣さんと目が合うとペコリ頭を下げ、内ポケットをごそごそとあさくると、そこから……。

乙衣さんは名刺を差し出された。その名刺には念願の芸能事務所の名前がっ! 

乙衣さんは晴れて事務所に所属する女優となったのだ。そこからは、また初めの劇団の頃と同じような生活。事務所所属といっても無名なのでオーディションをクリアしなければならない。乙衣さんお馴染みの、わき役ばかりの生活が続いた。しかし、それがここまで乙衣さんを荒んだ人間に変えてしまった大きな理由ではない。

ある日、わき役生活に転機が訪れた。以前、わき役として出演した映画の監督から、今度主演で演じてみないかとお声をいただいたのだ。そのことを聞いてマネージャーと手を取り合い、砂漠でオアシスを見つけた旅人ばりに喜んだ乙衣さん。

なのだが……。

「あーーーーあ。マネージャーさんと遂にスター人生の始まりですね。とか言って前日にマネージャーさんに高いシャンパンをまで奢って祝勝会したのに……。主演が演じれるって調子のって友達全員にサインはなるはやでっ! とかメッセージ送ちゃったのに……なんだよっ! 」

 その時、ブブッと乙衣さんの腿ポケット入れられている携帯が振動する。ポケットから取り出して、画面を確認すると、乙衣さんはますます絶望した表情になって、はははと乾いた笑いを零した。

「ああ、この瞬間もその映画いつ上映されるの? 友達と一緒に見に行くねって♡ と心をえぐるようなメッセージが飛んできてるよ……とほほ」

 そう、乙衣さんは祝勝会の次の日、一応最終決定の前に演技を見せてくれて監督に頼まれ、乙衣さんなりに精一杯頑張った結果。勢い余って見事に、主演のお誘いのお声に続いて、主演お断りのお言葉まで貰ってしまったのだ。創作の世界は残酷だからね。人への情より、作品の質である。

 最初聞いた時は、申し訳ないけど、いやぁ、こんな分かりやすい転落人生する人世の中にいるんだなぁと、思わず感心した。

 俺は隣に座る心底哀れな女性にすっと目を細めて優しい視線を送ってあげる。

「まあまあ。乙衣さん。諦めなければ次がありますよ」

「……安西先生にも早く私の前に来てって伝えといて。このままじゃ私、不良少女になっちゃう」

 と、適当な言葉投げかけつつ、え、少女っていう年齢じゃないでしょ、というツッコミを喉の奥にしまっておいて、だいぶ前から気になっていたことを訪ねてみた。

「少し訊いてもいいですか? 」

「……なに? 」

 今にも消え去ってしまいそうなほどか細い声で答えると、相変わらず背中を丸めたまま、顔だけを横にクイと動かしてこっちを見る。目元が僅かに赤く腫れていた。

「乙衣さんってどうして人の表情を見ればその人の感情が分かるようになったんですか? 」

 えーー? と乙衣さんが不満そうな声を漏らす。

「そこ? 今そこ気になる? 私を慰める方が重要じゃない? 私家族の皆にすら私主演の映画楽しみにしててね! とか宣言しちゃったから凄く帰りづらいんだよね? ねえ、マジやばくない? ……え、思いだしたらなんだか滅茶苦茶やばい状況なんじゃないかと思い始めちゃったんだけど」

 突然真理を見つけたみたいに、はっと真顔になって自分の状況の悲しさに気付くのはやめてほしい。あなたはおそらく結構前から終わってます。

「今東京が嫌すぎて地元に逃げかえってきてるんだけど、実家の玄関を開けて理由を話した時はきっと絶対零度の眼差しに違いないよ」

 家族を見る目じゃない、おそらくゴミ捨て場の汚物を見るような視線を向けられるよ。と自分の肩を抱きしめながら身震いして言う。

 この人は何個ポカをやらかしているんだ、とたった今明らかになったnewポカにも驚き、この人の頭の中には、未来という言葉が存在しないんじゃないかと思う。

「マジですか。なんで先のこと考えなかったんですか。今の小学生でもそのぐらいは考えますよ。あと、人の感情分かるのは普通に気になったんですよ。てか、むしろそっちの方が気になりません? 普通に凄いですし…………それに、乙衣さんぼっちだったのかと思ったのに、友達いるし……」

「ちょっとそれどういう意味よ! 友達がいないから人間観察ばかりしてる悲しい学校生活のおかげでこの力が身についたと思ってるの? 心外だわ! 私は女優としてきちんと役の気持ちになりきれるようにと長年、人の表情を研究していたのよ! 」

 カッと目を見開いて、小さな自尊心が傷つくのか、変な勘違いはやめてと言わんがに申し立ててきた。

 ちょと予想外の理由に僕は思わず、へぇと舌を巻く。女優に対する気持ちというのは本物という訳だ。

「で、その力は演技に生かせたんですか? 」

 ふっと乙衣さんは口角を吊り上げて自信あり気にほほ笑むと、

「全く生かせなかったわ。だって人の感情が分かるだけで、演者として感情を表現するのとは全くベクトルが違ったもの。カウンセラーとかに使えそうね。患者に心から寄り添うカウンセラーとして人気が出そうじゃない? 」

「……」

 ふぅ。

 予想を裏切らない、このポンコツぶりを見せつけれて俺は顎を前にくいっと突き出して、ゴミを見るような視線で、喜々と話す乙衣さんを見下す。

「それにはマネージャーに、自信満々に私こんなことやってるんです! って話した時に気付かされたわ。それ結局どうやって演技に変換するんですかって真顔で言われて、何も言えなかったの。あの時ほど虚無感に襲われたときはなかったわね。それに演技するときに見るの、紙だし。紙に人の顔映ってないし。むしろ、本をたくさん読んだ方がよかったんじゃないかと、その後、後悔の念に苛まれたわね」

「はぁ……そうですか」

 乙衣さんの話を聞いて、どっと疲れがたまった。最初は親切心で聞いてあげようと思っていたけど、微糖のコーヒー一本じゃ割に合わない気がしてきた。コーヒー苦いし。美味しくないし。そんなこと考えてしまうと、頭の中で意地悪なささやきが聞こえてくる。

 もうこの人を放って俺は自分の家出を続けてもいいんじゃないだろうか? 別にいいよね。触らぬ神に祟りなし。もう無理だよ。この人の絶望度合いは神様級に匹敵するんだと思う。きっとこのまま、最後の主演のお声を頂いたところをピークに没落し、腐敗した人生を送っていくのだろう。うん、なんかそう思うと、隣に座っている今も腐敗が始まっているような気がしてきた。よし、もうさっと立ち上がり、さりげなくこの場を離れよう。

 スタッとベンチから立ち上がった。ベンチに上に置いてあった自分が飲んだ空き缶を手に取ると、鞄をえっちらと肩からかけ直す、そして、視線は決して隣で負のオーラを放つ厄災に向けないようにして、ぼそぼそと早口で言った。

「……では。俺はこれで、ちょ、ちょっと用事があるので」

 乙衣さんが何か変なことを言う前にと、若干小走り気味で足を動かし始め……。

 三歩程歩みを進めたところで、ガシッと肩を掴まれた。

 …………。

 ピタッと足を止めて、ゆっくりと、本当にゆっくりと、死神に背後を足られた気分で、首を回転させ俺の肩に手を乗せる人の方を見る。

 すると……。

 この状況ではあまりに不自然な、眩しい笑顔で、一定のリズム感覚で首を左右に振り続けていた。

 俺は厄災から逃れることに失敗した。私私詐欺どころか、とんでもないモンスターに捕まってしまったのかもしれない。


「ねえ、ねえ? さっき何しようとしてた? まさかとは思うけど、こんな可哀そうな私をほったらかしにして、どこかに行こうとしてたのかなぁ? んーー??? 」

 乙衣さんからの逃亡に失敗した俺は、逃げようとしたことをぐちぐちと嫌味ったらしく問い詰められていた。

 目を見開いて顔をぐいぐい近づけてくる。

 鬱陶しい! 

 ぐい、と乙衣さんの顔を押しのける。それでも乙衣さんのうざうざモードが収まることはなく、今度は少し顔を放して、ウッディかよと言わんばかりに目を見開いてこちらを凝視している。律儀に挨拶なんかしてないで、無言で突っ走ればよかったと後悔した。

「……違いますよ。用事があったんですよ。決して、どうせこの人はこの先落ちぶれていくんだから、ほっといてもいいかな、とか思ったりしてませんよ」

 乙衣さんは、俺のもう助からない乙衣さんを出来る限り全力で思いやった返答を受けると、予想外にも声を荒げた。

「いやいやいや思ってんじゃん! そうとしか思ってなかったでしょ! 完全に見捨てるつもりじゃん! しかも何その顔! スッと目を細めて悟ったような顔で私を見るな」

 全く贅沢な人だ。これ以上どう慈しめと?

 でもこのままじゃ乙衣さんが面倒くさそうなので、とりあえず応急措置を取っておく。

「これで勘弁してください。小学生にこれ以上を要求するのは酷じゃありやせんか? 」

「でた飴! 困ったら飴を渡してその場を乗り切ろうとするの何? 最近の小学生にとって飴の価値はそんなに高騰しているの? 」

 その後も、やんややんやと他愛もないやりとりを繰り返した。

「……はぁ。じゃあ俺は何をすればいいですか? 」

「私を助けて、出来れば主演の座に返り咲けるようにしてほしい」

 この人は真剣な顔をして何をほざいているのだ。

 さっきまで話を聞くだけでいいとか、言ってたくせにさり気にお願いの内容がグレードアップしている。これが誕生日にプレゼントをせがまれる母親の気持ちか。相手の反応を見ていけると思ったら、ちょっとグレードアップしちゃうんだよなぁ。俺は今度から我慢しよう。

 ダメ人間のおかげで一つ成長した。

「……無理ですよ。俺はただの小学生ですよ? 小学生に出来ることなんて当たりが出やすい駄菓子屋を知ってるぐらいです」

「えーーー。じゃあ私はどうするのよぉ? 」

 乙衣さんはベンチにごろんと横になる。足を俺が座る反対側にだらんと伸ばし、頭の先を俺の太ももあたりにぴとっとくっつける。俺の顔を下から見上げていた。

「諦めるしかないんじゃないですか? 戦略的撤退です。早く身を引けば案外楽に終わるかもですよ? 」

 むぅーと眉を寄せる。

「女優を諦めろってこと? それは嫌だよ。私絶対女優は諦めないもん」

「……」

 ちらっと寝ころぶ乙衣さんを見ると、パチッと目が合う。綺麗なビー玉のようなその大きな瞳には、私、絶対、女優やる、という言葉が刻んで見えた。

僅かな沈黙が流れる。。

「……」

「…………そうですか。」

 スタっと立ち上がる。

スタートダッシュを決めた。

しかし……。

「甘い! 」

 寝ころんだまま、手を頭上に伸ばし、俺が立ち上がるよりも早く俺の太ももしっかりキャッチする。ビタッとベンチに太ももを押さえつけられ、立ち上がることを阻まれる。

「もうっ! しつこいですよ! 諦めないなら諦めなければいいじゃないですか! それで解決してますよ! 」

 乙衣さんは絶対に逃がすまいと、しっかり俺の太もも握っているくせに、言葉上では謙虚の雰囲気を醸し出してくる。

「そこを一緒に考えてほしいの。何か方法はない? どうか、お願い。この通りだから」

「どこがこの通りですか。せめて俺の太もも放してから言ってくださいよ。断っても引き下がる気ゼロじゃにですか」

 乙衣さんは、えへへと、照れくさそうにはにかんで笑うと、

「まあまあ。私って良く辛抱強い人だって褒められるからねー」

 俺の言葉のどこに褒めている要素があったというのだ。その理解の出来ない思考回路に、俺はこの人から逃げ出すことは不可能ではないか? と嫌な考えが脳内をよぎる。

がっくりとうなだれる俺。(勿論太股ホールドされている)乙衣さんは上目遣いでまじまじと眺めていた。

すると、何か気になることでもあったのか、乙衣さんの眉がぴくっと持ち上がる。思い立ったように口を開いた。

「さっきから亘くんさぁ。用事がある、用事があるって言ってるけど、用事ってなに? しかも今思えばだけど……交番でお巡りさんに話しかけられてた時になんであんな息が詰まりそうな苦しい表情をしていたのかなぁ? 普通の小学生だったら、お買い物です! とか天真爛漫の笑顔で能天気に答えていそうだけど? …………怪しい」

 じーーと目を細めて、じっとりとした視線を送ってくる。

 ぐっ! この人今更余計なことに気付きやがった。どうしよう。乙衣さんに家出していることを全然話したくないのだが。絶対笑われるに決まってる。あとそんな元気いっぱいな小学生は殆どいない。日常アニメの小学生じゃないんだぞ。現実の小学生は、むっと態度の悪い視線を向けて、小さな声で別に、と答えるだろう。偏見が過ぎたか……。

 俺はどうにか誤魔化せないか、ほらあれですよ、あれ。初めておつかいみたいな? と適当なことを嘯いてやり過ごそうと試みるが、乙衣さんに何を買いに行くのと即座に聞かれ、ノックダウン。しゅんと俯いて黙るしかなかった。

 俺が何かを隠していることを確信した乙衣さんは疑いの色に加えて、にやにやと悪戯めいた表情をする。

「あれぇーー? 何を隠しているのかなぁ?? お姉さんに言ってごらんよ。悩みがあるなら聞くよ。お互い悩みを持つもの同士、心ゆくまで語り合おう」

 とか言うくせに、完全に勝ち誇った顔で、言葉の裏には、早く言えよ。私が全力でからかってあげるから、という腹黒い意志が覗いていた。

「……嫌ですよ。絶対笑いますもん」

 ふいっとそっぽを向いて口を尖らせる。

「大丈夫。大丈夫。絶対笑わない。私を信頼して! ほらこの目を見て! 絶対に約束は守りそうな澄みきった瞳でしょ? まるで女優になるために生まれてきたような輝きを持ってるともいえる」

 意味の分からない自画自賛をしながら、ぱっと大きく目を見開いてじっとこちらを見つめてくる。キラキラと輝く大きな瞳は、全く信用のならない詐欺師の目に見えた。

 しかし、その後俺がどうはぐらかそうにも、乙衣さんは引き下がることはなく。大人のくせにねぇお願いぃ! と母親におもちゃをねだる子供のように俺の太ももに頬をこすりつけ始めたので、終ぞ俺は諦めてしまった。

 絶対に馬鹿にされることが予想つき、はぁlと重たい溜息を零す。

「現在、俺は家出中なんです。だからお巡りに話しかけられた時困ったってたんですよ」

「……」

 どうせ口元を抑えてクスクス必死に笑いをこらえているのだろうと、チラリと隣を見るたが……。

 予想とは違っていた。

乙衣さんは、えっ……。と驚いた様子でぽかんと口を開け固まっていた。すると、絶対に逃がさないと逃走中のハンターのごとく、ずっと俺の太ももを掴んでいたのに、呆気なく放す。ばっと勢いよく体を起こす。突然豹変した乙衣さんの様子に、今度は俺が呆気に取らていると、間髪入れず俺の腕をとって、手首まで包んでいたベンチコートの袖をぐぐっと肘元までまくり上げる。

 じーーと犯行現場で証拠品を見つける探偵のように、腕をまじまじと観察していた。

「な、何してるんですか? 」

「…………ふぅーー。とりあえず腕には痣はないか。次は反対の腕と足をっ」

 思わず、ぱしんっと頭を引っぱたいてしまった。あうっと可愛らしい悲鳴が聞こえる。

「虐待されとらんわ! …………あっ、すみません。俺の家族は皆いい人ですよ! ……でも心配してくれるたのはありがとうございます。ちょっと今のツッコミは良くなかったと思うので飴上げますね」

 乙衣さんは俺がはたいた場所をさすさすしながら、飴を受けとるとジト目を向けてくる。

「じゃあ一体なんで家出なんてしてるよ。最近の小学生は家出をおつかい感覚でするものなの? 」

 それはあまりにも前衛的な時代ではなかろうか。そんなことになったら、世の中の親御さんたちは戦々恐々だ。行ってきますの一言にドキリと心臓を揺らされることになるだろう。

「俺が世の小学生を代弁して言いますけど違います」

「じゃあ、なんなのよ? 」

「それは……」

 ぎゅっと口を結んで苦い顔をする。乙衣さんは何も言わずじーーと見つめてくる。俺が答えるの待っていた。

「………………寒い日に半袖半ズボンで外に出るのって頭が可笑しいと思いません? 」

「……? ま、まあ」

「大勢の人に温かい目で見守られながら、応援されるのって心が痛いですよね」

俺の回りくどい言い回しに、乙衣さんの脳内に疑問符が増殖していく。

「つまりどういうこと? 」

「……明日、学校でマラソン大会があるんですよねぇ」

 顔を斜め上に向け、青空を遠い目で見つめながらそう言うと、乙衣さん、は? と一瞬唖然とする。しかし、だんだんと驚きで見開かれて目が細まっていくと、手の甲で口元を隠すように顔を背け、くくくっと笑い声を必死に殺していた。

「ほら笑った! 」

「いやっ……! 待って…………笑っ……てないよ! 」

 目の端に涙を浮かべて、肩を上下に小刻みに震わせさせながら何を言うのか。

乙衣さんはひとしきり笑い終えると、胸元をさすりながら、はぁーーと満足に息を漏らした。

 俺は嘘つきに断罪の視線を送る。

「ごめんごめん。そんな怖い顔で睨まないでよ。あまりにもお馬鹿な理由だったから……ついね? 」

「ついね。じゃないですよ! 愛想を笑いを浮かべながらさり気に悪口言わないでくださいよ! 俺は真剣に家出をしてるんです! 」

 俺の剣幕に乙衣さんはびくっとたじろぐ。

「ご、ごめんよ。そっか本気で家出してるんだね。……そっか、真剣なのか。私考えなおしたよ。馬鹿にしてごめん。私も本気で女優を諦めたくないと思っているから、その気持ちは痛い程分かる! 」

 俺の思いを認めてくれたのは、嬉しかったけれど、乙衣さんと同じだと言われると、なぜか手放しに喜べない。胸の中がモヤモヤした。

「……でも亘君も悩みを抱えてたんだね。主演女優を落とされて、こんな絶望のどん底の中で生きているのは私ぐらいだけだと、思ったいたけど、世界は狭いね。同士がこんなところにも」

 白い歯を見せて俺をちらりと見ると、すぐに空を見上げて、この世界は残酷だなぁとかぼやいていた。

「……」

自分で笑うなとか言って、せっかく同調してもらって、哀愁漂わせた雰囲気で、空を見上げてなにやらキメ顔で語らせてしまっているところ悪いですけど、俺達の悩みはそんな壮大な悩みじゃないと思います。

 公園には冬の寒さをヒシヒシ感じさせる冷たい風が枯れ木を揺らしていた。


 最初は乙衣さんには絶対に家出のことは打ち明けたくない! と強い思いを抱いていておれだったけれど、乙衣さんの悩みを知って、自分の悩みを打ち明けたことによって、俺と乙衣さんの間には、ただの友情とは違う、何か特別な絆が…………それはきっと本物の……。

 本物をしりたいあなた、今俺と乙衣さんの間で、本物が誕生しようとしていますよ。

「いやぁーー。悪いのは私じゃないよね! 脚本、私以外の演者、演技を行った環境、延いては監督が悪いんだと思う」

「全く、その通りですよ! 嫌なことや上手くいかないときって大抵自分が悪いとかいう、狼藉ものがいますけど、違いますよね! 悪いのは自分以外の全てですもんね! だからマラソン大会をボイコットしようとしてる俺は正しくて、マラソン大会を行う学校が悪いんですよね」

 乙衣さんがかぁーーと、仕事明けの一杯を飲んだ時みたいな声をだし、ポンポンと俺の肩を叩く。

「良いこと言うね! だよね、私もそう思う! 」

 …………はい、本物とかいってすいません。ただの負け犬の傷のなめ合いです。本物どころか、普通の友情より濁った関係です。

乙衣さんに公園に拘束され、あれこれ話しているうちに、乙衣さんのエキセントリックな性格と相まって、俺も触発されてしまう。俺達はお互いの傷をなめ合い、先に進むのではなく、足踏みして、周りのものすべてに荒んだ考えをぶつけあう最悪な状況が誕生していたのだ。

 と、ここまで頭を馬鹿にして乙衣さんに付き合って、醜態を晒していた俺だったがそろそろ我に返る。現実を見た。

「……でも実際、俺はともかく乙衣さんはやばいですよね。俺は明日マラソン大会が終われば住むだけですけど、主演女優はもうどうにもならないじゃないですか? 」

 さっきまで我が同士! と肩を組んで杯を交わさんばかりの勢いだった奴から、突然心をえぐる言葉を投げかけられ、ぎょっとする乙衣さん。手を顔の前でブンブン振る。

「は? え? 何? いやいやいやいや、何言っちゃってくれてんですか。突然の裏切り? それなら、こっちにも考えがあるよ? 」

 俺はほぉうと、余裕たっぷりに上から目線な態度を示す。言ってみてくださいよ、という思いを暗に込めて、目配せをした。

 乙衣さんは不敵な笑みを浮かべる。あらーと近所で雑談を繰り広げるどこかの叔母さまたちみたいに、口元に手を当てて、

「そんなこと言っていいのかなぁ? 私、大人です。あなた子供です」

 ロボットみたいに副助詞の抜けたカタコト言葉でそう言うと、さっとポケットからスマートフォンを取り出し、ポチポチと何かを打ち込む。俺の顔の前に勢いよく突き出した。

至近距離まで近づけられたものだから、一瞬明るさで画面に何が映っているか、分からなかった。目が光になれ、画面に表示されているものを、目を凝らして確認してみる。

そこには、画面に下に緑色の通話発信ボタン、画面上端に白い色で119の数字が表示されていた。

「なっ……! 」

「ふふふ。私の目論見に気付いたようだね。私の主演女優がどうにかならないと亘君があきらめるのなら! 私は一人だけ不幸になるのが嫌なので警察に家出少年を保護しましたって連絡するから! 」

「なんて人だ! そんなことしても何の解決にもならないじゃないですか! 」

「そうだよ。なんの解決にもならない。でも、何の解決にもならないからこそするんだよ! ただの腹いせだね」

 清々しい顔でふざけたことを言い放ってくれる。全く、とんだ糞野郎だ。

 くっ……でも! 俺に出来ることといったら……!!

「いやいやもう飴はいらないよ。私のポケットにちゃんと保管されているからね」

 飴作戦はポケットに手を入れようとしたところで、未然に防がれた。戦いの中で成長しているだと?! 

「じゃあどうすればいいんですか! 俺に出来ることなんて何もありませんよ! 」

 打つ手がなくなった俺は、子供の十八番逆ギレを使うことにした。

 小学生の本気の逆ギレは流石の乙衣さんも効果があったようで、若干表情を引きつらせていた。

「そ、そんなに怒らないでよぉ。私だってどうにかして欲しくていっぱいいっぱいなんだもん」

 肉食獣に睨まれた衝動物のような様子で、しゅんとしぼんだ声を漏らす。足元を見つめ、ベンチを指先でぐりぐりしていた。

グイグイ来られたら、ツンと突き放すことが出来たが、そんなしおらしい姿を見せられると、どうにもやりにくさを覚えてしまう。

 大人がずるいですよ。そういうのは子供の技でしょうに。俺よりも子供らしくあらないでください。

と思ったところで、子供よりも子供っぽい乙衣さんには関係なさそうであるけれど。

「そりゃあ、大変のなのは分かりますけど……」

 落ち込み気味だったのがますます加速して、再びダンゴムシのように膝の上に顔を埋める乙衣さん。

 面倒くささは抱きつつも、最初に話を聞くといったのは俺であるわけだし、半分……三分の一くらいはどうにかしてあげたいな、という気持ちがあったのは事実。

なので、じゃあ、監督に直談判しに行ってあげますよ! と宣言してあげるぐらいことが出来ればいいなぁと思っていたりはするのだ。

……でも。

 本当に小学生に本気で心配される大人ってどうなんですか? 

 俺はしょうがないなぁ、と思いながら温かい眼差しで乙衣さんを見つめると、さすさす優しく背中をさすってあげる。

「うん…………。どうしようもないことってあるんですよ。本当、そんな不条理なことなんて心の底からなくなってほしいって思いますけど、小学生の俺ですら三つぐらいは体験してますからね。一つはマラソン大会が当人の意思なしで開催されることですね」

 まだまだ人生のひよっこの小学生の俺だけど。俺なりに必死に考えて言葉を捻りだす。この言葉どこまで届くかは分からないけど、ほんの少しでも慰めになればいいと思って。

柔らかい声色で、優しく背中をさすりながら慰めていると、うぅぅ、と微かに震えた声が耳に聞こえてくる。

「……私、本当に一生懸命だったの。毎日欠かさず練習して、有名な俳優さんの本とか読んで、少しでもそういう人たちに近づけるようにって憧れて」

「……そうですね」

「私の家族ってミュージシャンがいたりとか、世間で有名な人がいたりしない、ありふれたごく普通の家庭だったし、それだから私が女優になるって言っても本気で信じてくれる人はいなくて。表面上ではみんな、頑張って温かい言葉をかけてくれるけど、本気で信じてくれてる人はいない」

「でも、それは仕方ないんじゃないですか。みんな自分の夢がありますから。他人の夢に親身になってあげられるほど、皆も適当じゃないんですよ……多分」

 夢とは何か、家で俺に語ってくるお父さんの受け売りだけど。

 ぅぅぅ、膝と顔の隙間間から漏れていたうめき声に、ずっずっと鼻をすする音が加わる。ベンチの前の地面にはぽたぽたと水滴が垂れ、乾燥した白みががった土を色黒く染めていた。

乙衣さんは、頷くように数回首を上下に動かす。

「うん。分かってるよ。私だって認めてもらうためにはやってなかったもん。一番はやりたいからやってたし……でもずっと夢を追いかけてるとなんだか寂しくて、ちょっと私のこと気にしてくれないかなって思いが胸の奥にあって。今まで言っちゃだめだって鎖でガジガジにして封じ込めてきたのに……うぅぅ…………! 」

「……」

 さすさすと背中をさすり続ける。さっきの能天気な様子とは売って変わって、弱弱しく震える乙衣さんの姿は、大人だというに、ぽんと指先で触れば崩れ落ちてしまうんじゃないかという脆さを感じさせた。

 大人でも子供みたいに泣くことがあるんだ。

 乙衣さんはもう泣いていることがバレバレなのに、それでも必死に我慢して、半べそ状態で、つもりに積もった感情を爆発させる。

「だから主演が決まった時は本当に嬉しくて、やったぁ! 夢が叶うっていう思いと共に、胸の奥底でくすぶっていた鎖がはじけて、皆に見て貰えるって思って舞い上がっちゃっったの。…………そしたら、この結果だし。もうなんでぇ。嫌ぁ……」

 こんなにも赤裸々に思いをぶちまけながらも、泣き顔だけが絶対に見せよとしないのは、女優だけは絶対に諦めないという最後の意地か、既に成功して大スター達がみれば、そんなことに意味はないと失笑されてしまうかもしれないけど、根拠のない馬鹿な意地は嫌いではないと、僕は思わずふっと頬を緩めてしまった。

 俺が勝手に馬鹿な意地だと決めつけるのは失礼だよね。

…………でも、馬鹿な意地か。

 乙衣さんの背中をさすりながら、顔を上げて遠くをぼんやりと見る。

 俺は自分の意見を言えるのが大人の一歩だとか、なんとか言ってマラソン大会をしたくないがために、家出したけど……でも仮に家出したとしてこの先どうなるというのだろう。仮に今年のマラソン大会を回避できたとして、また来年にもマラソン大会は俺の気も知らないで、おまたー? と飄々とやってくるわけだし、それに中学生になってもマラソン大会があって、しかも部活もあって、姉に聞いたところでは勉強も小学生とは全然変わって滅茶苦茶大変になって。もしかしたら、嫌味な上級生に絡まれて不遇の学生生活を送ることになるかもしれないし。そして中学校三年生になったら高校受験があって、それを乗り越えても高校ではもっと必死に勉強しなくちゃいけなくて、

そして、もう…………………うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!。

 終わりの見えない真っ暗の穴底に永遠と落ち続ける。この暗闇の底はいつ見えてくるのか。

嫌なことがこの世の中に溢れすぎている。目を逸らして逃げ続けようとしていても、嫌なことは固く閉じられた瞼をこじ開けて、その現実を目に焼き付くまでまじまじと見せつけてくる。それでも嫌だから逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて……。

 


 一体その先に何があるというのだ。 

 

 俺は絶えず乙衣さんの背中をさすさすしていた手を止めると、ポンポンと肩を叩く。乙衣さんはごしごし、丹念に涙を拭ってからおもむろに目を向ける。その目とは、誰が見ても泣いたんだと、分かるほど分かりやすく赤く腫れていて……。

「あーーあ」

 諦めの声ともとれる、疲れ果てた声を漏らすと、

「今度は俺の愚痴も聞いてくださいね」

 ふっと苦笑を浮かべて乙衣さんを見つめるのだった。


 次の日。空は晴天。燦燦と輝く太陽が頭上に登っているというのに、半袖半ズボンによって未防備に晒された四肢に触れる外気は脳に、早急に温かい恰好をするように! とSOS信号を受信させた。周りには俺と同じように季節外れな短パン小僧どもが群がっている。左を見れば、生徒にこんな格好をさせておきながらちゃっかり長袖長ズボンジャージに身を包んだメガネの先生が、スタートの合図用のピストルを右手に握り立っていた。

一本の白線の前にバーゲンセールの景品のように無造作に並べられた生徒たちが持つ表情は様々。ガチガチ寒さで歯を鳴らすものもいれば、一位をとってやると、情熱の炎で瞳を燃やしいる。(これが将来有望なマゾ男だ。)お巡りさーんここですよ。白線手前に危険因子がうじゃうじゃと鼻息荒くスタート合図を待っています。

俺はもちろん集団の後ろの方でガチガチ歯を鳴らす人。どうしてこんなことやらねばならないんだ、と不貞腐れた表情で隣にいる見知らぬ生徒に一緒に、ねえ、一緒に走らない絶対置いてかないからさ、と話しかける。

というのが、マラソン大会が心の底から嫌な俺の定番パターンだったのだが……。

あーーあ。ほんと、やめたい。どうしてこんな事してるのだろう。本当だったら今頃隣街の公園で寒さに震えながらも、ホットミルクの温かさに体の芯から痺れているところだっただろうに。それはそれはで辛そうではあるけれど、絶対にこっちのが嫌だ! 

俺は将来有望なマゾ男たちに両サイドを挟まれて、白線の前でスタートの合図(死刑宣告)をじっと待っているのだった。

まあ心の中でどんなに愚痴を漏らそうが、目の前に隕石が落ちてマラソン大会が中止になってくれることはなく。刻一刻とスタートまでの時間はなくなっていく。

そして……。

合図のピストルを鳴らすだけという、優雅な仕事を与えられたメガネの先生がいちについてー。よーーい、と声をあげる。その声が響いた瞬間左右に並ぶ男たちの表情がキリっと変わる。戦争にでもいくのかよ。思わず言いたくなってしまうような重々しい表情ですっと前傾姿勢を取った。

ああ、始まってしまう!! 

もうこうなったらやけくそだぁ! ええい、このくそぉ! と俺も隣の並ぶ男達と同じように険しい顔をして前傾姿勢を取る。

パンッ! と周辺にわずかな火薬の匂いを漂わせ、マラソン大会の合図を告げる軽快なピストルの音が響き渡った。

耳に残ったピストルの余韻はドタドタという騒がしい足音であっという間にかき消される。白線の前を位置どっていた上位プレーヤーは信じられない速さでぐんぐん遠くに離れていく。俺も引き離されたらおしまいだと思って、普段運動しない重たい足を無理やり持ち上げてドスンドスンと足を動かす。が、それでも万年ドベ付近をマークする俺には限界がありその差はみるみる開いていく。そして上位集団と下位集団の差が出来初め、上位集団が最初のコーナーに差しかかった時だった。

「あっ……」

 と間抜けな声を漏らす俺。だんだんと斜めになっていく視界の奥に、明日学校の運動場の周りを囲むフェンスの外から見ていてください。と約束し、呼びつけた乙衣さんが写る。あ、の形で口を開き、目を大きく見開いていた。

あーあ。やっぱりマラソン大会なんて大嫌いだ。


 男子の部のマラソン大会は終了した。走り終えた生徒達ははぁはぁと息を荒げて、殆どの生徒が膝を抱えて、セコンドに座って燃え尽きたジョーみたいに動かなくなっていた。俺は手に握ったはがき半分ぐらいの大きさの紙を見て、はぁーーと思いため息をつく。もう一歩も動きたくと悲鳴を上げる、足にもう少しばかりの強制労働を強いて、立ち上がると、ピストルを撃っていたメガネの先生の元に歩いていく。ちょっとトイレに行ってもいいですか?と許可を貰ったら、トコトコとトイレがある方向に歩いていく。トイレの前についたが、トイレに入らず少し横に逸れて、後ろのフェンスに向かう。そこには、黒髪の後ろ背で髪を一本に結んだ。見た目だけは立派な大人が立っていた。

 フェンス越しに前に立つと、俺を見て乙衣さんはにひひ、と笑う。

「お疲れさまでした」

「本当にお疲れでしたよ。もう一生やりたくないですね」

「惜しかったね。あそこで転ばなければもうちょっと順位が上がったかも……ね? 」

 俺はガクっと肩を落とす。

「そこはせめて断言してくださいよ。まあ、でも…………」

 正直俺が想像していたシュチュエーションとはだいぶ違うので逡巡しながら。

 理想は半分ぐらい行くつもりだったんだけどなぁ。

照れくささを誤魔化すためにポリポリと頬を掻きながら、手の中に握られていた紙を広げた。ふいっと顔を背け視線は合わせずに、手だけ押しやって紙を乙衣さんの目の前に持っていく。

「46人中39位です。笑いたければ笑ってください。これでも万年40位台の俺からしたら大記録なんです。もう感動で胸がはち切れんばかりの思いです」

 昨日はあんなに子供っぽくクスクス俺のことを笑っていたくせに、なんだか優しい顔で、温かい視線で俺のことを見つめてくれちゃって。

「ううん。笑わないよ。ありがとね」

 温かい表情に加えて、温かい言葉までかけてきて、すっと目を細めて柔和な笑みを浮かべてくるもんだから、俺の心臓はドキリと跳ね上がる。昨日と今日では別人じゃないか、と思わず錯覚してしまうほどだった。

「来年は俺の愚痴をたくさん聞いてくださいよ。乙衣さんのせいでこの地獄に足を踏み入れることになったんですから」

 冗談まじりに俺がそう言うと、乙衣さんは、乙衣さんらしく朗らかに、あははっと笑って、

「私のせい? お互い様でしょ? ふふふっ……。でも来年は映画の出演で忙しいかもしれないなぁーー」

「それはないから大丈夫ですよ」

「酷いっ! 」

「冗談ですよ。でももしそうなったら映画は一番に見に行きます。その代わりに来年の俺の雄姿も見届けてください」

 俺の言葉を聞くと、嬉しそうに頬を緩めて、ニカっと白い歯を見せて笑った。

「しょうがないなぁーー。全く亘君は子供なんだから」

 そして、じゃあ私皆に謝りに行くからじゃねー! と別れの挨拶を残すと、颯爽と走り去っていく。

 そこで乙衣さんが犬を連れていることに気づいた。しかも見覚えあるブルドック。ははっと力の抜ける笑い声が出た。飼い主はお前かい。凄く納得した。

「頑張ってくださぁーーい!! 」

 俺がそう声を荒げると、だんだんと小さくなっていく乙衣さんは振り返ることなく拳を天に掲げた。その背中は少しだけ立派な大人の背中に見えた。

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明日のマラソン大会が嫌な少年、家出する。 詩野ユキ @shinoyuki

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