十本山 ③
瞼を上げて、上半身を起き上がらせた。どれくらい眠っていたのだろうか。ポケットからスマホを取り出して時間を確認しようとした。しかし、スマホはなく、さらに辺りは社の中ではなかった。なぜか私は外にいた。立ち上がり私はさらに驚いた。ここは社の外でもなかったのだ。
大地は黒く、空も雲で覆われ、雲の切れ間から赤い光が射し込んでいた。空気は腐臭の匂いを放ち、気温は生暖かい。おぞましく不気味な世界であった。
とりあへず私は現状理解のため散策を開始した。まず私のいる場所は草木のない平野のようであるが隆起や窪みがあり、どちらかというと砂漠地帯のようでもあった。
私は高く隆起している地に向かった。大地は硬い場所もあれば沼地のように足を奪われる箇所もあり不規則で危険であった。
隆起している地に辿り着いた私はその地から伺える広大な景色を見て驚愕し、足を震わせた。
なんと、そこには海が広がっていたのだ。
私は山の上にいたのだ。それがどうして海の近くにいようか。
夢かこれは夢なのか。
瞼を何度も擦るも景色は無情にも変わらなかった。これはまごうことなき現実。
緑色の海がうねり回って渦を作る。渦の中心から煙が昇る。向かい風が海の匂いを運ぶ。私はその匂いを嗅ぎ、鼻を押さえた。それは腐臭であった。この世界の腐臭の正体は海の匂いだったのだ。
砂浜に白い何かが蠢いていた。最初は波の名残りかと考えていたが、それは波ではなく生き物であった。それは全身が白く人型で何も身に着けていなかった。ここからでは大きさは分からないが少なくとも人より大きく見える。数は三十以上あり、それらはみな脇に何かを抱えていた。
私は奴らにばれないよう身を屈めた。奴等は一列に並び行進していた。私は奴等の進行方向に視線を向けた。そこには黄色い丘があった。が、よく見るとそれは丘ではなくピラミッドであった。その冠には黒い像がある。
いや、違う。
目を凝らすとそれは像ではなく生き物であった。羽を持ち角を生やし筋骨隆々の肉体。そしてこちらの視線を感じ取ったのかそれは振り向いた。私と黒い化け物の視線が交差する。そして奴は笑った。私は驚き、尻餅をついてすぐさま立ち上がり逃げた。
目を覚ますと暗闇の中、一つののっぺらぼうな月が目に入った。
私は頭を動かすと月もぼやけるように動いた。意識がはっきりして光であると気付いた。そう、私が頭部に装着したヘッドライトの光だったのだ。私は起き上がり、先程の夢について考えた。今でもまだ鮮明に浮かび上がる。ピラミッドの黒い何かと目が合ったことを思い出すと身が震える。
私はサックを抱えてその場を逃げるように出た。外は雨が降り、次の魔王岳に雷が落ちた。大気は震え、風は暴れ狂い、目の前の岳は名前の通り魔王の住む居城の風格を醸し出していた。
魔王という言葉を使うとピラミッドのあれを思い出す。きっと全部夢だったんだ。疲労と心理的なストレス、宗教的活動と普段とは違う環境によりあのような夢を見たのだろう。私はそう納得させ魔王岳に向かった。一度小さい坂を下って山の肩を進むと参道が見えた。参道は足の踏み場が細い崖で下は深くはないが落ちると怪我するのが容易に想像できる。唯一の救いは左側には岩壁があるということだ。もしこれがなければ綱渡りになっていただろう。
確かここで能代さんと泉さんが口論になり止めに入った長谷川さんと泉さんが崖を転がり落ちたのだ。
私は慎重に岩壁に体を寄せ、手は岩を掴み崖の上を歩く。
下を見てはいけない。
私はそう言い聞かせて進む。
風が崖へと誘うかのように煩わしかった。私は一歩一歩慎重に進んだ。
そしてなんとか崖を進みきった私は膝に手をつき、一息ついた。
息を整え、気を引き締めた私は岳の前まで進んだ。近付くほど岳が大きな壁となり私の心を圧迫する。
岳の上から下へといくつものチェーンが並び、一つ一つの長さは短い。それは命綱代わりのものでチェーンの上まで登りきればその上にぶら下がる別のチェーンを掛け登るのだ。
そしてチェーンの他に足の踏み場も設置されていた。あくまでそれは休憩及び、チェーンの付け替えの時に使用するものである。
ふと山は足で登り、岳は腕と脚で登れという格言を思い出した。誰が言ったのかは思い出せない。でも今思い出しすということは大事な言葉だったのだろう。
雷が行く手を阻むかのように岳の上に落ちた。私は一歩退き、引きついた笑みをこぼした。
でも、なぜかそれを征服したい欲求に駆られる。
ああ、負かしたい。ふんぞり返る偉そうなこいつ勝ちたい。
私はチェーンの端を腰部にある金属の輪に掛け登り始めた。一つのチェーンを登りきったなら別のチェーンに付け替える。それを幾度とし、私は峰に辿り着いた。そして最後のお供えとお経を読んだ。いつも通りにお経を読み、いつも通りにあの声が聞こえ始めた。
やはりかと、なんとなく来るのではと理解していた。声は一度止み、そして間を置いてユルサナイと告げた。私は驚き、目を見張った。今度は確かに日本語として聞こえたのだ。私はお経を読み上げた後、辺りを見渡した。空は暗雲に覆われ大地は霧に覆われている。宝塔山と魔王岳のみの世界。
私は岳を降りた。これですべて終わったのだ。後は家に帰り休もう。明日は有給を取っている。明日も今日の疲れをとり、のんびり過ごそう。日常を期待として私は動いた。
チェーンを掛けては降り、チェーンの先まで降りたなら別のチェーンを引っ張り上げ、そのチェーンの先を腰部にある金属の輪に掛けてゆっくり降りる。それを何度も繰り返し、岳を降りていく。
だが、岳の真ん中まで降りたとき別のチェーンを掛け替えようと、チェーンを引き上げるとそのチェーンは腕ほどの長さしかなく短かった。私は岩壁を注意深く見渡し、別のチェーンを探す。しかし、降りるためのチェーンはこれしかなかった。
どういうことか?
登るときには確かに全てのチェーンは長く、私の身長よりも長かった。さらにその短いチェーンは短いだけでなく赤黒く錆び付き、ほんの少しの力で引き千切れそうでもあった。
私は念のためにそのチェーンを掛けた。手に着いた錆の汚れを衣装で拭いた。衣装は汚れたが今日散々と雨や土の汚れを吸っていて今さら錆の汚れ一つ気にも止めなかった。そして私はできるだけそのチェーンの分まで降りた。するとチェーンはすぐに千切れてしまった。それにより、私は命綱なしで岳を降りる羽目になった。降りている最中にお経を読んでもいないのにあの声が聞こえた。
ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ。
怨嗟の呻きを払おうと首を振るも無情にも声は聞こえる。私は耳を塞ぎたかった。だが、今は岳を降りている最中だ。手を離してはいけない。
何かが私の両肩を掴み下へと押した。私はその力でバランスを崩し、手を岩壁から離してしまった。足も壁の出っ張りから滑り、私は体を岩壁に擦るように落ちていった。そして大きな壁の出っ張りに右足が当たり、その反動で後ろに背中を向けて落ちていった。
サックからの衝撃で肺に圧迫を受けて、肋骨を痛めるような咳を吐いた。サックのおかげで命拾いしたようだ。私は起き上がったが右足に激痛を感じて尻餅をついた。裾を捲ると右足首が青黒く変色し腫れ上がっている。骨を折ったのか捻挫のどちらかであろう。私はサックから救急キットを取り出そうとジッパーを下げた。サックの中は瓢箪型の徳利が壊れ、中の御神酒がサックの内部を濡らしていた。御神酒も残り少なかったのでさほど惨事にはなっていなかった。私は救急キットを取り出して、湿布を足首に貼り、その上を包帯で巻いた。私は右足首に負担をかけないように慎重に起き上がり、右足を擦りながら帰路へと向かった。魔王岳から琳開山までは坂一本道で下るだけ。ただ問題が一つ。それは坂が長いということ。私は何度も自分を鼓舞して右足を引きずりながら坂を下りていった。霧が薄まり木々が見え、私ははやる気持ちを抑えて、足を動かした。
もうすぐだ。
と、その時だった。肩を掴まれ私は地面に押し倒された。私は私を押したそれを見た。それはあのピラミッドの黒き化け物だった。恐怖が視界から脳へと流れこむ。そいつは口端を伸ばして笑った。だが、笑みはすぐに怒りへと変わる。そいつは感情を私にぶつけるように言った。
ユルサナイと。
それを聞いて私は絶叫した。いや、まるで絶叫を許されたかのように私は声帯を潰すほどの音量で叫んだ。
恐怖で心が揺さぶられる。脳が震える。意識が支配される。魂が掴まれる。体が弛緩する。
絶望だ。絶望しかない。
私は諦めた。一切を。
しかし、その黒き化け物は忽然と消え去り、周囲も変化した。まるで瞬間移動したかのように視界が変化したのだ。
私はベッドの上で横になっていた。白いカーテンが風に揺られ、部屋には太陽の光が射し込んでいた。病室だと気付き、枕脇にあるナースコールを押した。白衣の天使が部屋に入ってきて私の名前を読んだ。私は上半身を起き上がらせようとしたがナースに止められた。私はどうしてここにいるのかを尋ねた。ナースは簡単な説明の後、詳しいことはドクターからと言い、部屋を去った。
しばらくしてドクターがやってきて私の体を診察した。そして怪我のことを説明した。
右足首は捻挫。体の前面には無数の打撲痕と裂傷。捻挫はまだ引いていないが打撲痕と裂傷はほとんど治っているとのこと。最後にドクターは救出時のことを話した。救出時といっても病院に運ばれてきたときの話で山での救出時の話は若人会の人たちから話を聞くように言われた。
翌日、能代さんと鶴岡さん、丸さん、池谷さんの練習登山メンバーが見舞いに来てくれた。怪我の具合を聞き、そして能代さんは申し訳ないと頭を下げて謝る。
私は救出時のことを尋ねた。能代さんが言うにはあの日帰りが遅いことに危惧した能代さんたちは私に何かあったのではと練習メンバーから救出メンバーを選出し、雨足が弱まった頃に十本山参りを逆に回る形で登山を開始。そして宝塔山の社で私が倒れているのを発見し、おぶって下山したとのこと。
一つ疑問があり私はもう一度私がどこで倒れていたのか尋ねた。能代さんたちは宝塔山の社の中だと答える。
どういうとこだろうか。
確かに私は宝塔山の後、魔王岳に登ったはず。そして謎の化け物に肩を掴まれ地面に押さえ付けられたはず。
能代さんは後日、プロの登山家に依頼して魔王岳の参拝を済ませると教えてくれた。
しかし、プロの登山家が魔王岳を登ったが、お供えはすでに済ませてあったらしい。能代さんたちは驚いたが、私はやはりなと心の中で呟いた。そしてあの日の出来事は全て現実のことだったのだと知ると恐怖が私の心を支配した。
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