異世界転移 ①
剣崎大学には一般の学生には知られていない風習がある。その風習はある一部の学生にのみ伝えられていて、その一部の学生というのが
双海塾というのは戦後、
この双海塾には毎年大晦日に塾長が棺に入り、年を越えるという変わった儀式がある。この儀式がいつからあったのか、そして何の意味があるのかは双海塾の誰にも分からぬこと。此度、十一月の総会にて新塾長が決められた。名は渡辺源、経済学部の三年生。入塾したのは二年の手前で他よりも遅いが、彼は誰よりも頑張って今のポストを掴んだ。この儀式については初めての参加であった。儀式について耳にしたときは一風変わってはいるが棺に入る以外は何のたわいもない風習として認識していた。ただの新塾長になる通過儀礼であり、年末年始の特番、及びに友人知人との初詣に参加できないのが悔やまれるくらいであった。
当日の大晦日、彼は夜の八時からの双海塾のパーティーに参加し、夜十時に指定された構内にある教会に向かった。教会といってもまるっきり本物というわけではない。敬虔なる信徒の留学生用に即席で作られたもので、神父や牧師、シスターもいない。ただ最近では神学部の教授が休日にキリスタンである学生を集め、聖書の一節を語ることがあるらしい。
そんな教会の一室を化粧室代りにした部屋で彼は衣装に着替え、女性にメイクを施された。メイク中に渡辺は自分にメイクを施す女性が双海塾のメンバーでなく初対面の人物ということに気付いた。この儀式は双海塾の一部の人間及びOBしか参加できない。彼女が今まで会ったことがないOGだけかもしれないが渡辺が知る限りは双海塾は女性が極端に少ない。今までOBにこそ会えどOGには一度も会ったことはなかった。渡辺は女性に質問を投げ掛けようとしたが口を開く前に顎を捕まれ鏡へと顔を向けさせられた。それはメイク中だから何も喋るなということだろう。彼は仕方なくじっとしてメイクを受けた。ただ一つ、顎を捕まれ前を向かされた時の力に変な違和感あったことが彼の思考にこびりついた。力が強いというのではない。まるで物理的なものとは違う力が作用したのではと考えられた。メイクが終わると同時に女性はメイク道具も片付けず、すぐに化粧室を出た。彼の衣装は木綿でできた上下オフホワイト色のシャツとズボン。首下には古めかしい翡翠の輪っかが一つ紐で通されたネックレス。髪はオールバックにされている。しばらくして渡辺は四年の先輩に呼ばれて儀式のある礼拝堂へと向かった。
渡辺は礼拝堂には一度だけ訪れたことがあった。その時は広く高く、威厳のある教会というイメージがあったが、なぜか今日に限って小さく感じられ、そして薄気味悪さがあった。前塾長、塾生、OBはスーツ姿で先程渡辺にメイクを施した女性は赤いドレスを着ていた。メイクが終わってからそんなに時間は経っていないはず。渡辺は女性の顔をよく見てみた。どうみても先程の女性だ。どんな早着替えをしたのだろうか。もしくは双子であるとか。渡辺はそんなことを考えながら儀式に参加した。
前塾長が祝詞を発する。渡辺はドイツ語と英語、少しフランス語を習得しているがその祝詞はどこの国の言葉なのか彼には検討がつかなかった。仏教系みたいに本来の言葉を無理矢理英語に当て嵌めたものなのだろうか。しかし、それでも単語が一つも分からないというのはおかしい。そして祝詞が終わり渡辺は参加者に見守られながら黒い棺の中に入る。蓋が開け放たれた棺の中は暗く、それは深い闇へと続く穴のようでもあった。渡辺は慎重に足を入れた。足の裏が底に当たり、それが彼の心を静めさせた。渡辺はそのまま体を横たえて棺に収まった。そして蓋を閉められた。棺の側面には穴があるので密封されるわけではない。それでも蓋が閉じられた瞬間、渡辺は息苦しさを感じた。
恐怖心はなかったが祝詞が終わり、去っていく足音を耳にして寂しさが去来した。しばらく経つとそれはいっそう強くなり渡辺の心をざわつかせた。そこで渡辺は目を閉じ、眠りにつくことに決めた。それは前々から決めていたこと。どうせ棺の中では何もできないので明朝まで寝ることにした。そのため渡辺は前もって長時間起床していて眠気は十分であった。
しかし、睡魔はいっこうに訪れることなく、むしろ意識が冴え渡っていた。度々、目を閉じて羊を数えるも眠りに落ちることは全くなかった。次第に落ち着きがなくなり、渡辺は棺の中で体をそわそわさせ始めた。そして時間が経つにつれ不安が訪れてきた。棺はいざというときのために内からでも開けられる使用になっていた。今、礼拝堂には誰もいない。ならば、ばれずに棺から出ても問題ないのではと渡辺は考えた。もしかしたら歴代の前任社たちも耐えきれずに外に出たのではないか。わざわざ言われた通りにずっと棺の中にいるのは馬鹿ではないのかと。それでも渡辺は棺を開けれなかった。もしルールを破り外に出たと知れたらどんなことを言われるか。今まで外に出たものはいないという。もしばれて自分がルールを破った最初の一人となったならどうなるか。著名なOBたちも参加しているのだ。就職活動にも十分影響があるのではないか。渡辺は何度も蓋の押し上げるかどうか迷った。
そんなときに揺れが棺を襲った。地震だろうか。いや、違う。これは持ち上げられたのだと渡辺は理解した。このようなことはスケジュールにはなかったはず。なら何かトラブルだろうか。棺を開けて尋ねようか。いや、その前に中から尋ねてみよう。渡辺は棺の中からどこへ運ばれているか、何かトラブルがあったのかを尋ねた。棺の中からであろう外の人間には聞こえていないのかもしれないと声を大きくもう一度尋ねた。しかし、外からの返答はなかった。仕方ないので渡辺は蓋を中から上げようとした。けれど蓋を上げることはできなかった。棺には鍵は掛けられていなかったはず。上に重石でも乗っているのだろうか。しかし、そのような気配はない。渡辺は何度も内から棺を叩いた。だがどんなに強く叩いても、抗議をしても向こうからの返事はなかった。渡辺は叩き疲れて、状況確認を諦めた。暗い棺の中でぐったりと横になった。
どれほど経過しただろうか。中からでは時間が分からない。渡辺自身の体内時計では最低でも一時間は経ったと思われる。だがそれは確実性はない。普段の状況なら自信はあったが今は棺の中、疲労や戸惑いが体感に影響がないとは言い切れない。一時間ではなく数分かもしれないし、逆に一時間以上かもしれない。
それにしてもどこに向かっているのだろうか。向きやスピードから絞りこもうとしたがすぐに東西南北、移動距離が分からなくなり諦めた。このようなことをする目的はそして、誰が指揮しているのか。渡辺は棺の中で考える。しかし、結論はでなかった。分かるのはただ揺らされてどこかへと運ばれているということ。一体どこに彼は運ばれているのか。彼は棺の中で眠りにつこうとも考えたが揺れがひどく眠ることができなかった。
揺れが収まり、下から突き上げるような衝撃を受け、移動が終わったのだと気付いた。渡辺はもう一度中から声を上げ、棺を叩いた。それでも外からの返事はなかった。それから数分後異変が起こった。まずは異臭からであった。棺は密封されていない。棺の側面には穴がある。そこから異臭が中へと入ってきた。渡辺は鼻を押え、悶えた。泥とすえた臭い、そして薬品が混じったような臭いだった。目に入ると渡辺の目から涙がとめどなく流れる。我慢できないというところで臭いが忽然と消えた。ゆっくりとではなく一瞬で。残り香も何もなく。そして渡辺の記憶からも臭いが消え、どのような臭いだったか思い出せなくなっていた。臭いの後は騒音が渡辺の聴覚を攻撃した。外国語だろうか。オペラのようでも念仏のようでもある。声は重低音で脳を震えさせる大音量。渡辺は鼻から耳へと塞ぎ替えて苦痛に耐える。その騒音も臭いと同じく急に静まった。彼は蓋を開けられないと知りつつもストレスによりがむしゃらに腕で蓋を内から押したり殴ったり抵抗を示した。するといきなり固く閉じられていた蓋が開いた。
渡辺は蓋がすんなり開いたことに驚きながらもすぐに不機嫌な態度で棺の外に出た。彼は一言文句でも告げようとしていたのだ。しかし、開けようとした口からは言葉はでなかった。渡辺は目の前に現れた光景に目を見開いて驚いた。決して屋外の移動を考えていないわけではない。外であっても動じることはなかった。だが、さすがに見知らぬ世界は想像してはいなかった。彼の目に映る世界は常識の外にある世界であった。空は桃色、雲は緑色、大地は群青色、遠くに見える川は灰色。まるで異世界であった。周りに人は誰もいなく渡辺一人であった。周囲には隠れるような場所はない。それでも渡辺は一類の望みをかけて声を上げた。しかし、声はやまびこを生むだけで渡辺に孤独を突き付けるだけであった。混乱と不安、そして恐怖で渡辺は頭をかきむしった。
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