十本山 ②

 外から来る霧はゆっくりしていたが、だからってのんびりしているわけにもいかない。まだ半分だ。残りの半分は今までの参道とは違い険しい山々なのだ。

 なるべく早めに南の産音謳うぶねうたい山へ向かわなければならない。ここからは尾根伝いではなく坂を下りて、谷間の沢を越えて森へと入り麓から登らないといけない。

 坂を下りて沢で休憩を取った。岩場に座り、パンパンに張った足をマッサージする。湿った空気を深く吸い腹の中の疲労と一緒に吐いた。何度も吸っては吐くも腹の中にうずくまる疲労は一向に減らなかった。むしろ息を吐く度に疲労を強く意識してしまう。

 私は産音謳山の山頂を見上げた。今までの山より高く聳え立つ。このまま帰りたいという弱い気持ちが沸き上がってくる。それは仕方がないのではないか。今までは尾根伝いに歩いていただけで小さく緩やかな勾配を進んでいただけだったが、今からは一つの山を麓から山頂まで登るのだ。さらにこの後には一番高い宝塔山、そして険しい魔王岳が待ち構えているのだ。それを考えるだけで気が滅入る。

 最後に溜め息混じりの息を吐いて重い尻を浮かせた。その時だ。ぽつりと頬に水滴が当たったのは。鳥か虫のしょんべんかと思い、反射的にその場から離れ、空を見上げた。黒い雲が空を覆っていた。あの灰色の霧かと考えたがあれは霧であって雲ではなかったはず。

 まだ本降りではない様子なので急いで沢を渡り、森を抜けて山を登らないといけない。森と山との境界は外からなら分かるが森の中に入ると分からなくなる。いつの間にか山を登っていることがある。今、私は小雨を受けながら木々の間を抜けている。参道ももはや獣道に過ぎず蛇行していれば迷っていたかもしれない。私はがむしゃらに登り続けて木々を抜けた。抜けると大きな風が私の体を押した。

 目に見えるは曇天の空と十本山中央の宝塔山。そう抜けた先は山頂であった。私は息を整えた後にお供えとお経を唱えた。西の産音謳山を望むと霧が尾根を生き物のように壁を乗り越えようとしていた。

 ありえない。私は心の中で呟き、目の前の現象に戦慄した。なぜなら産音謳山の標高は他の山に比べて低いが霧が越えるほど低くはないはず。

 異常だ。このままだと私も思わぬ被害に遭ってしまう。そう感じとり、私は直ぐ様に次の祠へと足を進めた。

 次の祠は東に向かって少し坂を登った先にある。急いでいてもお供えとお経は努めて丁寧に済ませた。そして北に向かい、中央宝塔山との間に聳える浄水小山へと向かった。

 小山という名の通り低く、登るのも今までの中では簡単であった。浄水小山山頂は広く祠の他に東屋のような屋根つきの休憩所があった。私はそこで休憩を取りたかったが雨が本降りになってきたので、すぐにお供えとお経を済ませサックから合羽を取り出した。だが、修験僧の衣装が大きくて合羽を羽織ることができず、私は諦めて合羽をサックへと押し込んだ。

 浄水小山山頂から宝塔山に向かい合った。宝塔山は今での山より高く、そして草木は生えておらずまるで富士のように地肌剥き出しである。それは大きな岩山であった。そして山頂の隣には細い岳がある。そうそれが最後の参拝地点である魔王岳である。

 空模様は灰色、時折光が走り、轟が大気を震わせる。宝塔山手前の森は西側のほとんどが霧に覆われていた。もしあの霧が森全体を覆っていたなら宝塔山は霧の中にあり、それは幻想的でもあっただろう。しかし、今は霧が森を覆う前に向かわなければいけない。

 私は意を決して坂を下りて、雨の中、黒い森の中へと突き進んだ。

 最悪なことに霧が覆うスピードは私が思うよりも速く、森に入ってすぐに視界が白世界に塗り潰された。

 私はヘッドライトをオンにしてスピードを落とし、慎重に進んだ。今の森は危険であった。もしヘッドライトがなければ参道を外れていただろう。

 雷が霧を一瞬黄色に変色させ、轟音が私の胸を打つ。私は大丈夫だと自分を鼓舞させて進む。木々が風雨で揺れて、まるで人のささやき声のような音が生まれる。その音を聞くたび恐怖が生まれ私の心を掻き乱す。土はぬかるみ私の平衡感覚を乱し、脚から体力を奪おうとする。雨は私から体温を奪い、衣装を重くする。それでも私は一心不乱に前だけを見つめ進む。そして前方に小さな穴のような黒点が現れそこに向かい私は力強く進んだ。道は勾配となった。

 小さい黒い点が壁ほどの大きさとなったころ霧が晴れた。いや、霧を抜けたのだ。その黒い壁は崖であった。後ろを振り返ると上ははいいろで下は白色。なんとも不思議な光景だった。今、私は雲と霧の境界にいるのだろうか。それとも霧より上、雲より下の層にいるのか。

 私は崖に両手を伸ばし、丁度良い出っ張った箇所を掴み、右足を窪みに嵌めて左膝を曲げ、腕の力で体を上げさせ腰ほど高みの窪みに左足を嵌めて、注ぎに右足に浮かせて、上の出っ張りに乗せた。いわゆるロッククライミングだ。

 少しずつ、ゆっくり、慎重に登る。落ちたら冗談ではすまない怪我を負う。雨で崖は濡れているので滑らないようにしっかり掴み、そしてきちんと足で踏まなくていけない。

 そして崖の上までもう少しというところで私は背中を強く掴まれた。

 ――何だ! 

 私はパニックになった。それでも体は動揺することなく停止状態で崖にしっかりしがみついた。私は何かと考えた。この場合、鳥だろう。しかし、鳥の足とは違う。大きく肉質のある手だ。

 また異変が起きた。背後からあのお経の時に聞こえた声が投げかけられたのだ。私は恐怖で後ろを振り向くことができず、ただじっとしていた。

 しばらくして背中の圧がなくなり、声も消えた。身の自由を獲た私はすぐに逃げるように崖を登りきり、立つこともできず、四つ足で崖から離れた。ある程度崖から離れて私は胸を掴み、ゆっくりと崖のある背後を振り向いた。

 ――何もなかった。

 ではあれは一体何だったのか。疲れが精神に作用して得たいの知れない経験を生み出したのか。私は立ち上がり、駆け足で山頂へと向かった。だが、山頂に向かう途中にいくつもの崖が聳え立ち、その度に私は得たいの知れない恐怖に怯えた。ただ運よく、あのようなことは起こらなかった。

 宝塔山山頂には社があり、その中に像が安置されている。

 鍵を外し、中へと入った。電気が通っていないのでヘッドライトで私は像のある奥へと進んだ。ヘッドライトの光のおかげか、それとも私が暗闇になれたのかは分からないが社の中はそれほど暗く感じなかった。

 まさかそれが余計なものを認識することに手を貸してしまうとは。

 光の中ではなく暗闇の方で何かが動いたような気がした。反射的にヘッドライトの光を向けるも、写し出されるのは壁のみである。おかしいと思った時、また暗闇で何かが動いた。私はまた光を向けた。しかし、壁しか写し出されず、それが私の神経を逆撫でさせた。私は黄身悪くなって像の前に向かい、すぐにお供えをしてお経を読んだ。私の声は広い境内のなかで反響する。そしてあの声も生まれ、反響する。私は目を、首を動かして発生源を捕らえようとするも反響のせいか声の方向が掴めなかった。

 次第に気温が低くなった気がした。私は体と声を震わせお経を唱え続けた。なぜな短いお経がひどく長いものに感じられた。

 お経を読み終えたと同時に視界が回った。それは私の体が背中から地面に倒れたからであった。背中を強く打って私は咳き込んだ。起き上がろうとするも体の疲れが増幅し起き上がれなかった。瞼も重く、意志を強く持たないと瞼を閉じてしまいそうだ。だが、息を吐いたとたんに弛緩した緊張がとれたのか力がなくなり、瞼が落ちた。そして私の意識も暗い底へと落下した。

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