境界未定地域 ③
土蔵を出ると外は黒から青に変わっていた。それは懐中電灯なしでも歩けるほどに。空もまた青かった。腕時計で時間を確かめると早朝の4時42分であった。私は屋敷側を歩き、そこで小さい戸を見つけた。縁側、人が屈んで通るような小さい戸。たぶんそれは茶室の戸であろう。私は戸を開け、中に入った。中は明かりもなく外より暗い。私は懐中電灯を点けて茶室を見渡した。そしてある人物を見て、私はつい声を上げて驚いた。向こうも私の声に驚き、悲鳴を上げた。恥ずかしながら、まさか人がいるとは思わなかったのでつい声を上げてしまったのだ。そして私はその人物がギース教授であると気付いた。ギース教授は痩せ細っていて初見では分からなかった。もしこの鳴楽村に私を含めて三人しかいないと知らなかったなら別人と認識していただろう。それくらい彼は別人のように変貌していたのだ。目は落ち窪み、頬はこけ、肌は青白く、唇は紫色、額の皺は深く乱れた前髪がへばりついていた。いや、それだけではない。彼は怯えていたかのような表情が別人のように見せているのだろう。きっと戸が開かなくなったのか独りで一晩、怖くて震えていたのだろう。
私は彼に英語でもう大丈夫だと伝えたが彼は依然として怯えていた。私は戸を開いて外へ出るように手振りで伝えるも彼はその戸を閉めて私の腕を強く掴んだ。表情は切羽詰まったもので、私は彼が何を恐れているのかを尋ねた。しかし、彼は目を泳がせ自身の腕を抱き締めるだけ伝えようとはしなかった。私は昨夜からの行動を優しく尋ねた。彼はこちらが英語ができない日本人というのを忘れて日本語を一切使わない英語で語り始めた。けれど、彼はゆっくりと話し、かつ同じ単語を何度も使うので大体は理解することができた。だが、それは突拍子もないことで自分が聞き違いをしたのか英語の喩えなのかと思い、彼が全てを話終えてこちらから質問をいくつかした。できれば首を横に振ってもらいたかったが、逆に彼は何度も首を縦に振った。その反応に私は右手で額を押さえた。
ギース教授が言うには昨夜、屋敷で鍵を見つけたという。それで夜中にブルーモノリスに再度足を向け、鍵を使用したという。するとブルーモノリスから赤い一つ目の白い化物が現れアダムス教授はその化物に喰われて亡くなったという。さらに赤い一つ目の白い化物はアダムス教授に変身して自分を殺して鍵を奪おうとしていると。到底そんな話は受け入れられない。もしそれが本当ならどうして私は殺されていないのか。私はギース教授が外に出ようとしないのでまず一人で外に出て、それからアダムス教授と会いギース教授を見つけたことそして精神が不安定である旨を伝えようとした。私が茶室を出ようとするとギース教授が腕を強く掴むので外に出るのに一苦労した。なんとか説得させて外に出られた。しかもなぜかギース教授は私に鍵を寄越すのだ。できれば封印をと。使用方法は簡単で投げて当てるだけだと。私はその鍵を見て溜め息を吐いた。鍵は鍵というよりフォークのような形をしていたのだ。昔の蝶番の鍵にも見えないし、現代の最先端の鍵にも見えない。どちらかというと銀色の櫛と言われたらそう認識してしまう品物。とりあへず私は受け取り、それをポケットにいれて外に出た。私はやれやれと溜め息を吐き、東地区へと足を向ける。
アダムス教授はすぐに見つかった。ただし、一人ではなかった。絵画に書かれていた青鬼がいたのだ。その青鬼はアダムス教授より大きかった。端から見るとアダムス教授が青鬼に従っているかのように見える。 実際は逆で青鬼を従えているのがアダムス教授だ。青鬼は膝を地につき、アダムス教授に何かを畏まって話しているようだ。絵画では青鬼は白い化物より小さく描かれていた。なら白い化物はあの巨大な青鬼以上に大きいのだろう。ギース教授の言うことは本当だったのだろうか。アダムス教授が青鬼の前に手をかざすと青鬼は碧色の宝石になった。あの宝石は教授たちが持っていたものだ。アダムス教授は歩き始めた。私は恐ろしくてしばらくは足が動けず留まっていた。彼らがいなくなって数分後、いや数十分は経っていたかもしれない、私は腰を抜かして地面に尻をつけた。手足が恐怖で震えていた。胸もうるさいくらい高鳴っている。私は深呼吸して落ち着かせようするも、逆に過呼吸になり始めた。なんとか胸を抑えて落ち着くことができ、私は震える膝を叩き、立ち上がってすぐにギース教授の元に向かった。
だが、屋敷にはギース教授はいなかった。戸は暴力によって潰されていた。私はアダムス教授がここを見つけギース教授を力で引っ張り出したのだと考えた。では彼らはどこへ。一つ考えられるとしたらブルーモノリスだろう。そこに向かわなければ。しかし、分かっていても足がまた固まって動けなくなってしまった。私が向かっても化物を倒すことなんてできないだろう。武器という武器はない。今持っているのは懐中電灯と渡された鍵だ。その鍵を見つめ私は腹を括った。唾を飲み込み、重い足を上げて私はブルーモノリスへと向かった。
ブルーモノリスは淡い光を放っていた。私がブルーモノリスのある窪みに辿り着くと、窪みの中心、ブルーモノリスの前で白い化物とギース教授がいた。ここからでは彼らが何を話しているのかは分からない。分かるのはギース教授が地に膝をつけて、何度も首を横に振っている。そして時折、懇願するような目を向けていた。だが白い化物が雄叫びを上げるとギース教授を頭から食った。あまりにも恐ろしい光景に私は腰を抜かして尻餅を着いた。ここまで咀嚼の音が聞こえてきそうで私は耳をふさいだ。そして白い化物はギース教授の体全てを食べ終え、白い化物はブルーモノリスの中へと入った。
私はどうすべきだろうか。Uターンして全力で逃げるべきか。それともギース教授が渡した鍵を使うべきか。それで助かるかどうかは分からない。でも一類の望みはあるのではないか。ダメ元でもいいではないか。私は全力で窪みへと駆け下りて台の上に登り、鍵を投げた。鍵はブルーモノリスに当たると強く光った。そして反発にあったのかこちら側に飛び跳ねて、地に落ちた。私はすぐに鍵を拾い、その場を去った。逃げるように走り、坂を上がりきって窪みから脱け出した。窪みから少し離れて振り返るとブルーモノリスから淡い光は消えていた。
それからのことは覚えていない。私はいつの間にか村を去り、アダムス教授たちと初めて会った駅へと着いて、時刻は早朝の5時33分だった。短時間で村から駅まで辿り着けるわけはなく、どうやらあれから丸一日経っていたらしい。早朝の無人の駅はどこか異世界へ続く駅のように感じられた。あの後は私はどのような行動をしたのかさっぱりと覚えていなかった。恐怖と疲労がそうさせたのか。それとも常識外の体験が脳を圧迫させ、私の意識を眠らせ、体の支配権を無意識下に置かせ、本能のまま駅へと向かわせたのだろうか。警察には嘘をついた。村で行方不明になったと。捜索隊が派遣されたがアダムス教授たちはもちろん発見されなかった。彼らがどうなったかは知っているから驚きはない。ただ驚いたことに村が朽ち果ていて、私が口にしたような建物はなかったと。村の全ての屋敷、家屋の屋根は下へと落ちていて、全ての建物は瓦礫の山と化していた。さらにもう一つ驚くべきことにブルーモノリスがなくなっていたのだ。どういうことだろうか。私たちが訪れた村は違っていたのだろうか。しかし、捜索隊は私とアダムス教授たちのリュックが朽ち果てた屋敷から見つけたという。ならばそこは鳴楽村で間違いはないようだ。けれども様子が違うというのが気がかりである。警察からは確認のためもう一度村へと訪れて、捜索隊に助言をと頼まれた。正直、断りたかったが私には責任というものがある。致し方なく私は体力が回復次第参加する旨を伝えた。
今でもあの時の光景を思い出すことができる。あれはまごうことなき事実。行けばどうなるのか。またあの恐怖を体験するのか。怖い。怖い。日に日に恐怖という感情が私を圧迫する。それをどうすることもできなく私は日々精神を擦り減らす。周りの隣人たちはアダムス教授たちが行方不明になったことへの責任と罪悪感で私が心を痛めていると勘違いしている。多くの人が憐れみを目に表して、私に的外れな慰めの言葉をかける。そういう時、どうしても真実を告げたいという欲求に駆られる。でも、もし全てを話せば私は精神科に連れていかれるのは予想される。きっと誰も信じてはくれないだろう。私は不安に駆られる時、次は警察も含めた捜索隊で向かうので安心のはずとそう頭に叩き込むことにしている。しかし、恐怖は拭い去ることができず私は銀の鍵を握りしめることにしている。いつの間にか銀の鍵は私の心を落ち着かせるアイテムと化している。だが、銀の鍵はあの出来事の証拠でもある。銀の鍵を見るとあれは幻でも夢でもなく事実であるとまざまざと突き付けられる。
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