意識はあり、意志はない

 牧原則孝は幽霊やUMAを信じてもいなければ恐ろしいとも怖いとも思わなかった。むしろ人間の方が怖いとさえ感じていた。牧原則孝は純粋にプロボクサーを目指していた。しかし、網膜剥離によりボクサーとしての選手生命を断たれたことから人生を転がり落ちた。知り合いの紹介で喧嘩の仲裁役としてバーで働き始め、そののち、バーの店長から腕のセンスを見込まれ、店長の知り合いである人物のボディーガードを一時の期間、勤めることになった。その人物が反社の人間でボディーガードの仕事をこなすとそれ以降、そういった輩のボディーガードの仕事が舞い込んできた。断ろうともしたが反社である相手の件、それと支払いの良い金銭によって断れなかった。その生活に抜け出すことができず、とうとうボディーガードから運転手として反社の一員となってしまった。

 運転手の仕事はボディーガードより楽であった。襲われることもなくはないが道端で急に得物を持った輩に狙われることを考えるとまだ安全性はあった。だが、その分どっぷりとアングラな世界に浸かってしまった。拷問、解剖、処理といったものを牧原は実際に目をした。そういったことを最初から最後までは見たことはないが、それでも現場の匂いや跡、肉塊、溶解は凄惨なものであった。

 だからこそ牧原はこういったことを平気で行える人間が幽霊やUMAよりも恐ろしいものと感じていた。

 そう今日、この日までは。

 牧原が所属している組には組長と盃を交わした兄弟組があり、その組は美濃部原町で主に密漁、密売を生業としていた。だが、その美濃部原町が先日の津浪に飲み込まれて消失した。それによって牧原たちの組が引き継ぎ、そして近場の港で密漁、密売を執り行うことになった。牧原はいつも通り運転手役として組長、組員を深夜の港まで運んだ。

 深夜の海は波もなく暗く、それは世界の穴のようでもあった。車内にも潮の匂いが入り込んだ。牧原は嫌そうな顔をしてじっと組長たちが戻ってくるのを待った。少しいつもとは違うと牧原は感じ取っていた。いつもなら倉庫に向かうのに今回は船へと向かった。さらに組長たちはここに来るまで車内での様子もどこかおかしかった。困惑と疑惑、苛立ちがあった。

 一時間近くして組長たちが戻ってきた。牧原はすぐに外に出て後部座席のドアを開けた。組長が車に入ったとき牧原は異臭を感じ取った。生魚と薬品の匂いが混ざったようなもの。牧原は運転席に戻ると車中は異臭で蔓延していた。すぐにウインドウを開け、新品の消臭剤を二つも使用。

 牧原はキーを回し、目的地を聞いた。てっきり事務所に戻るのかと思ったら目的地は事務所ではなく山奥の処理場だった。さらに大型トラックと五台の車と共に。そこは肥料にする施設であった。別にこういうことは初めてではない。何度も経験した。しかし、いつもはバンのはず。それが今日に限っては大型トラックであった。しかも追従するように五台の車も。牧原は理由を尋ねたかったが組長たちの雰囲気から何も聞かなかった。

 目的地に着くと牧原はトラックの荷物を下ろすのを手伝わされた。荷物は人の背丈ほどのコンテナだった。それを外に運び出すのには人の手だけでは骨が折れた。コンテナは処理場内の大部屋に運ばれた。そのコンテナの周りには二十名近くの組員、ブローカーたちが取り囲んでいた。彼らは皆、手にはチャカを持ち、眉間に皺を寄せ、強い視線をコンテナに向けていた。その目には恐れの色があった。彼らはまるで死を覚悟した兵士のような空気を醸し出していた。その異様な光景に牧原は息を飲んだ。一体何がコンテナあるのか。

 組員が二人、コンテナの前に近付き組長に指示を仰ぐ。組長が頷き、二人の組員はコンテナを開ける。開け始めると同時に周囲の組員はチャカをコンテナへと向ける。コンテナを開けた二人の組員は逃げるようにコンテナから離れる。

 開け放たれたコンテナからは水が流れた。いや、それは潮の匂いから海水だと牧原は気付いた。

 牧原は不思議に思った。人ではないのかと。いつもなら人のはず。大人から子供まで様々の。しかし、今日は海水だった。海水は地面を広く濡らす。牧原はふと潮の匂いだけでなく別の匂いも嗅ぎ取った。そうそれは車中で嗅いだ匂いだ。コンテナ内の海水は全て流れるも周囲の組長たちは依然としてチャカを構えたままだ。

 しばらくして呼吸音、唾を飲む音の他に濡れた音が木霊する。コンテナから青色の手が現れた。そして顔が。誰かが悲鳴の音を出した。次第に体全体が現れる。

 現れたそれは人ではなかった。全身青魚のような色合で体長は二メートル弱。頭はコーンヘッドで骨のような白い鶏冠とさか、耳はなく、目は黄色で。そして頬を裂くほど大きな口。開かれた口からは上下ギザギザの歯が前と奥にあり二段構え。指は三本で長い。その化け物は濡れた音をだしながらゆっくりと前へ出る。特殊メイクでもないということは本物なのか。しかし、どうして撃たないのか? 殺さなくても威嚇か足を狙うかをするはず。だけど誰も何もしない。ただじっとしてるだけ。牧原は体を動かそうとして異変に気付いた。動けないのだ。動くのは顔のみだ。しかしそれもまるで化け物の瞳を追うように、顔を動かすのみで自分の意志ではない。動かされているというべきだろう。

 前へと出た化け物が手を叩いた。その途端にチャカを構えてた組員は腕を下ろした。まるで操り人形だ。化け物が組員に近付いた。組員は顔に恐怖を張り付けたまま微動だにしなかった。化け物は組員の頭を掴んだ。いや、両耳に指を刺し入れたのだ。長い指が根元まで入ると組員は頭を震えさせ口からは泡を吐き始めた。震えは頭から体全体へと。化け物は指を抜くと大きな口を開き、組員を食し始める。その場にいる全員は動くこともできず、ただ恐れながら補食を目にする。骨が噛み砕かれる音、脳を掬う音。そして化け物が頭を食べ終えると隣の組員の頭を食べ始める。そしてそれが終わると次の頭へと。

 牧原は震えていた。実際には体は何一つ震えることなく立っていただけであったが。それでも心は大きく震えていた。一人、一人と頭を補食されていく。今日が己の最後なのか、黙って待つだけなのか、なんとか回避できないのかと脳をフル回転させ思考する。しかし、何の妙案も浮かばなく牧原は絶望した。今日この日だけで今まで唱えた分以上、神への救いを頭の中で唱えた。

 もう残すは牧原を含めた三人だけとなった。牧原は皆から少し離れたところにいたので助かっていた。しかし、止まらぬ化け物の食欲に絶望しか見出だせなかった。このまま最後に食われるのだと。

 だが、とうとう牧原だけになった時だ。化け物は補食をせず最初の一人の時と同じように指を両耳へと入れた。ぬるりとした柔らかい触感が穴から奥へと突き進む。そして耳の奥が破けるような傷みが走った。指は脳へと進んだと分かった。脳が指にまとわり、電流のようなものが放たれる。それは鋭かったり、鈍かったりと様々であった。しかし、そこに傷みはなかった。だけど意識が落ちそうになったり、はっきりしたりと降りては登るようなジェットコースターに精神は疲れた。

 化け物は両耳から指を抜いた。そして手を叩くと、牧原は意志とは関係なく処理場を出る。後ろには化け物がついてくる。牧原は組長にするように車の後部座席を開ける。化け物は後部座席に乗り、牧原は運転席に。そして車を発進させた。

 向かった先は港だった。牧原は車を出て後部座席を開ける。化け物はゆっくりと外に出て世界の穴のような海へと向かう。そして化け物は飛び込んだ。水飛沫もなく、するりと化け物は闇へと溶ける。まるで本当に穴に飛び込んだように。

 牧原の意志が戻ったのは明け方であった。



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