戸塚大嵜群

 地元には神主かんぬしのいない小さな神社がある。この神社は地元の神社会によって運営、管理されていた。そしてその神社が賽銭泥棒の被害にあった。泥棒は賽銭だけでなく本殿を荒らし、その際に本殿の一部を破壊。そしてその後も2度ほど賽銭泥棒に狙われた。

 これを受け、神社会は監視カメラを設置することに決まった。しかし、そこで問題になったのが費用である。神社会は役所に費用を出してもらえぬかと相談に伺った。しかし、無い袖を振れないということで、残念だがあしらわれてしまった。元々、賽銭の額も微々たるものであったからであろう。役所としては微々たる金額のためにわざわざ賽銭泥棒する罰当たりな輩は放置しておけばいいのではと告げている。しかし、我々としてはたとえ微々たる金額であろうが行為そのものを見過ごせる訳にはいかないと考えていた。

 役所から援助がないならと代替案として私を含めた複数名は賽銭箱を外せば良いのではと考えた。元々賽銭は微々たるもの。参拝者も少なく普段は置く必要もないのではと。そして参拝者の多い正月ぐらいは賽銭箱を置き交代で見張りを付ければいいのではないかという案が話された。これには大多数が賛成した。だが、これに異を唱える者がいた。それが清一郎と玉太郎だった。

 清一郎と玉太郎は本名ではない。これらの名は彼らの先祖の名前である。ここ地元では相生と森の姓が多く、地元住民たちは先祖の名を屋号として使いあい呼びあっている。それはいつからかは分からないが少なくとも私が生まれるずっと前から使われているのは確かである。そしてこの清一郎家と玉太郎家は地元では名の知れた大地主である。ゆえにたとえ多数で勝っていてもこの両名が反対するのであれば我々は彼らが納得するまで話し合いを続けなければいけない。だが、これ以上問題を打開するための案は誰からも発することなくすぐに皆、黙してしまった。

 その日は一旦保留ということで集会は閉じられた。この日の集会にて大勢の心の内には何とかして清一郎と玉太郎の二人を説得しなければと考えた。それからは神社会のメンバーは何度も両家の説得に伺った。しかしながら、二人は頑なに首を縦には振らない。メンバーがどうしてそこまでこだわるのかを問いただしても返事はただ今まで通り行うであった。両家にとって神社には何かに特別なものがあるのだろうか。

 困った我々は次に役所にもう一度直談判に掛け合おうと算段した。しかし、前回と同じでは結果は変わらないので、まず役所を納得させるための材料を考えようと我々は話し合った。そこで出たのが地蔵丘じぞうきゅうであった。神社の近くに丘があり、その丘には二十もの地蔵奉られている。賽銭泥棒は地蔵にも手を出すのではないかと役所に訴えることにした。そうすることで役所から援助が得られるのではないかと安直ながらそう考えた。だが、残念なことに結果は惨敗。その後も妙案が生まれることもなく我々は行き詰まってしまった。

 そんな時に大学の教授から連絡をもらった。彼は社会学部の教授で今回の件に力になるという。しかし、日本文化学部や国文学部とは違い社会学部の人間であったため、我々はいささか不安であった。それが相手にも伝わったのか教授は我々にある事実を述べた。その事実は我々を驚愕させるのには十分であった。それは地元住民ですら知り得なかったこと。いや、勘違いをしていたことであった。

 我々一同は神社の後で地蔵丘ができたと認識していたが実は逆で地蔵丘の後に神社が建てられたという。さらに驚いたことに地蔵丘の地蔵は、実は地蔵ではなく阿弥陀像で歴史は古く6世紀にさかのぼるという。江戸時代に地蔵が集められ丘は地蔵丘と呼ばれ始めた。そしてその後に神社は建てられた。さらに祀られている神も天照大神と思いきや竹内宿禰たけうちすくねであった。地蔵丘がそれほど歴史ある文化財産なら役所の人間を説得させること間違いなしと我々は思えた。だが教授は地蔵丘の阿弥陀像は元々別々にあったものを一ヶ所に纏めたものだと言い、役所を説得させるには山頂にある最後の阿弥陀像を神社に移動させ、神社会が全ての阿弥陀像を管理をすれば費用を用立ててくれるはずと熱弁した。我々としては別に神社と地蔵丘の歴史を語るだけで山頂の阿弥陀像については問題はないように思えたが元は教授のおかげでもあるので我々は教授の案に対して無下に断れなかった。その為、我々は一応、教授の案も含めて役所に三度目の直談判を決行した。すると見事費用が認められ、あとは山頂の地蔵を境内に移動させれば万事解決であった。

 だが、1つ問題があった。実は山頂の阿弥陀像は戸塚大嵜群とつかおおさきむらの信仰対象物であり、それゆえ我々の意思だけでは移動も不可能であった。が、この戸塚大嵜群の人々は世俗と隔離して生活をしていて役所の人間も滅多ではない限り訪れることもないという。そしてここ数十年山頂には訪れている様子はないので、もしかしたら話し合いで解決ができるのではと教授は言う。

 神社会はこの戸塚大嵜群の件について話し合いが行われた。他の群の信仰対象を境内に置くというのはどういうものかと皆口々に非難。だが、不思議と清一郎、玉太郎が賛成の意見を述べた。二人が言うには山頂の阿弥陀像も長年清一郎、玉太郎一家が管理していたという。さらに昔、山頂の阿弥陀像も地蔵丘に迎え入れようとしていたともいう。神社会において強い発言権を持つ彼らの意見に先程まで非難していた人もすぐに掌を返した。

 そして神社会から最年少の私と登山趣味を持つ山内さんが選ばれた。そこに教授と戸塚大嵜群の戸籍に高齢者所在不明問題の可能性があるとして役所から佐々木さんが。この計四人で戸塚大嵜群に出向くことになった。この四人の都合により戸塚大嵜群に伺う日は次の休日とあい決まった。向こうは電話線すらも引かれていないので事前連絡なしで伺うこととなる。もしかしたら再度伺う可能性も考慮しなくてはいけなかった。

 当日の朝6時半、私は神社境内に登山スタイルにリュックで一番乗りで着いた。待ち合わせは朝7時で30分の余裕があった。朝霧が境内を包み、鳥居や本殿をより幻想的な空間に仕立て上げる。待ち合わせ10分前に山内さんが、その後に役所の佐々木さんが到着。教授は待ち合わせ時間から20分遅れて、詫びる様子もなく現れた。

 山頂への道は本殿の裏から伸びる参道を使わなくてはいけない。一般的に参道と言われているが長年手入れがされていないので獣道に近い。登山趣味の山内さんは勿論のことだが、教授と佐々木さんが以外にもしっかりとした足取りで進んだ。道中、訊ねてみると教授はフィールドワークが多く山登りには慣れているとのこと。佐々木さんは仕事柄と言っていた。

 山頂に辿り着き、私たちは件の阿弥陀像を調べた。風雨で輪郭は溶け全体像がぼやけている。それは阿弥陀像ではなく岩と見間違えられてもおかしくはなかった。教授はカメラで阿弥陀像を撮ったり、メジャーでサイズを計り、そしてノートに記録を書き込む。役所の佐々木さんは顎を撫でながら教授の後ろから阿弥陀像を注視する。教授の仕事が終わった後、私達は戸塚大嵜群へと向かった。

 群へはまずここの山頂を越え、北の方角の坂道を下って、北にある山を登り、そこからは尾根を進みながら最後の頂きに辿り着く。我々はそこで一度休憩を取った。そのときの時刻は9時37分であった。私と佐々木さんは汚れも気にせず尻を地につけていた。私たちは疲労していた。教授は地図を取り出し後は山を下り、沢を越え森を抜けた先だと言う。進路は半分を越えているのでもう少しと私と佐々木さんを鼓舞する。私と佐々木さんはなんとか気を昂らせて重たい腰を上げた。けれど、不幸なことに坂を下ったとき佐々木さんが右足を大きめな石につまづき、転んだ。佐々木さんは大丈夫だと言うが、沢に着いたとき彼は休憩を頼んだ。佐々木さんは右足の靴、靴下を脱いだ。挫いたのだろうか足首が少し赤く腫れていた。佐々木さんは沢に足首まで浸けてリュックから湿布を取り出す。湿布をすぐには貼らず、少ししてから沢から足首を抜き出しタオルで拭いた後、患部に湿布を貼った。私は今日は諦めて、体力のある山内さんが佐々木さんを支えて元来た道を戻ろうと提案したが佐々木は首を振り、この程度では問題ないと戸塚大嵜群へ進むことを選んだ。言葉通り佐々木さんその後、一度も休憩挟まず右足を庇いながらも群へと進んだ。

 戸塚大嵜群はさびれ、本当に人がいるのか怪しかった。塀は崩れ、そこから伺える家々も屋根瓦が崩れ、戸は半壊している。佐々木さん曰く役所の最後の記録では修験僧が一人住んでいるとのこと。名前は宮部勘太郎と言い、齢87だそうだ。私たちは彼が住んでいるであろう寺か屋敷か判別できない建物に向かった。その建物は手入れがされているのか比較的綺麗であった。実のところ生きているかどうか分からなかった。役所の佐々木さんが一緒に伺う理由の一つでもあった。玄関口がなく正面に戸が。教授は戸を叩き、声を上げて名のりを上げる。そして戸を無許可で開いた。中は暗くて分からないが構造的に堂であろうと思われる。教授は再度暗闇に向け、名乗りを上げる。すると暗闇の奥から戸が開く音、そして床の軋む足音が聞こえた。足音は近づき、そして姿が見え始めた。まずは裸足の足下。それから次第に姿が現れる。衣服は青装束。柔道着に近いもの。顔が現れたとき私は反射的に目を下へと逸らしてしまった。心臓が鷲掴みにされたかのような苦痛。そしてなぜかやけに心音がうるさく高鳴る。呼吸が無意識から意識へと替わる。教授が何か話し掛けている言葉が脳内で上手く変換されず理解ができない。

 いつのまにか私は客用の屋敷にいた。だがそれまでの記憶がないわけではない。思い出せば確かに記憶はある。現れた人物は宮部氏でこの群に一人で暮らしていると。宮部氏と教授の会話の後からここまでの道中は記憶としてある。だがそれは映像のような記憶であり経験味がない。教授を除いた私たちは皆、暗かった。教授だけが生き生きとしていた。私は一瞬見えた宮部氏の顔を思い出すとまた身震いが走る。あれは人なのだろうか。それにしてもここは本当に客用の屋敷なのか。造りが木造ではなかった。石造りの家で木材は一切使用されていない。私は腕時計で時間を確かめた。すると時刻は夕方の17時であった。私は驚き、時計が壊れているのではないかと思い山内さんと佐々木さんに時刻を聞いた。彼らもまた時刻を確かめて驚いた。そして私は教授がいないことに気づいた。私は慌てて腰を浮かすも山内さんはどうせ宮部氏に話をしにいったのだろう括った。宮部氏の顔が頭の中に浮かび私は反射的に胸を押さえた。私はゆっくり座り、二人に宮部氏について訊ねた。すると彼らもまた私と同じ様でつっかえた。私たちは沈黙した。何をはなせばいいのかわからなかったのだ。しばらくして教授が戻ってきた。彼は誰か一人夕膳を運ぶのに手伝ってくれと言った。それに山内さんが応え、二人は部屋を出た。佐々木さんと二人っきりになり私は彼の足について訊ねた。彼は大丈夫というが顔は疲労で溢れていた。だがそれは足ではなくもっと別の物と見受けられる。彼は横になり腕を枕替わりにした。

 寝息はないから起きてはいるのだろう。私は立ち上がり部屋を見渡した。壁を撫で、調べた。自身の記録、経験から大理石に近いものと想定される。だが、なぜかほん少し違和感を感じる。石とか鉱物等といったそういうものとは違うと警笛を鳴らす。このジレンマを抱え、思案する。山内さんと教授が夕膳を持ち部屋に戻ってきた。夕膳は粥と山菜だった。夕膳に手をつけているとき、そういえばなぜ食事をしているのかと、元は宮部氏に会い阿弥陀像の移動及び管理についての話だったはず。今日、片付けなくても泊まることなく帰宅するはずたった。なのになぜ泊まることを前提のようにしているのだろうか。私はそのこと皆に告げた。教授を除いた皆ははっと気づいたかのように顔を上げ、すぐさま帰宅するように動こうとした。この中で教授だけが落ち着きながら一泊を提案した。佐々木さんの足の怪我もあり、かつ阿弥陀像についてまだ答えを聞いていないと。だが、言葉にはしなかったが私たちはこの奇妙な群で一夜過ごしたくはなかった。もちろんそこに宮部氏も含まれている。山内さんは眉間に皺を寄せながら何も言わずにリュックを背負い外に出る。足取りも早足であった。私と佐々木さんすぐに山内さんの後に続く。教授が床に座り夕膳を食していようとも私たちは教授を無視して外に出る。私たちは外の景色を見て落胆した。外は真っ暗で横殴りの雨が音を立て降っていた。一応、懐中電灯と雨ガッパを用意しているが山登りは危険であると私たちは無言で判断した。部屋に戻って床に座り、夕膳を黙々と食す。粥は塩味、山菜はドレッシングもなにもかけられていないので美味しくなかったので私たちは山菜を粥に混ぜ食べた。

 夜になり蝋燭の火を消し眠りについた。疲れが溜まっていたのかすぐに意識は深い底へと落ちた。

 途中、私は尿意により目覚め起き上がった。懐中電灯を片手にトイレを探したが見つからず私はカッパを羽織り外に出た。外の雨は強くなり、空は雷雲が。雷雲は光と音を幾度となく発する。私は肩を竦めながら早足で塀を越え、近くの草むらの中で放尿をした。人のいない群だし草むらの中なら問題ないと考えたのだ。そして放尿の後、すぐに屋敷へと足を向けた。そこで一瞬の雷光が。私は驚いた。だがそれは光によるものでなく、光が一瞬照らした屋敷の姿に驚いたのだ。屋敷は頭であった。私はライトを頭へと向けると目が合った。それは外観がそうであるではなくまごうことなき生きている頭であった。私が出入りしていたのは口で、口の中にはまだ山内さんがいるはずだ。今すぐ呼びに行かなくては。しかし、足が動かなかった。竦んでいる内に頭は笑い、そして口を閉じた。私は叫び、逃げた。群を越え、森の中に。無我夢中で逃げ、そして大木を見つけ、私はうづくまった。

 翌朝まで私は隠れた。朝になったが空は暗く夜世界だった。雲はなくなっているのに空は太陽のない朝だった。腕時計は朝の9時である。私はおかしいと思いつつ、空が開けるのを待った。眠気や空腹を我慢し私は待った。だが太陽が一向現れなく、また夜の時間が来ようとしていた。私はおかしいと思い、立ち上がって走った。森を抜け、沢へと向かった。方角は間違っていなかった。だが沢は一向に現れなかった。寧ろ私は群へと戻っていたのだ。私は再度、方角を確かめて森へ入った。それでもまたしても群へ戻ってきた。私はもう無理だと諦め尻を地面に着いたところで肩を掴まれた。

 私は悲鳴を上げ振り返った。そこにいたのは佐々木さんだった。佐々木さんは教授が屋敷の外に出るのを見て後をつけたのだそうだ。そこで宮部氏と怪しい会話をしていたのを聞いたそうだ。それで佐々木さんは私たちを呼ぼうと屋敷へと戻ろうとしたが屋敷が忽然と消えていたという。佐々木さんは宮部氏の屋敷へと戻ろうとしたがその屋敷も無くなっていて途方に暮れ、救援を呼ぼうと一人帰宅することにした。だが森を進もうが沢へ辿り着くことができず、またしても途方に暮れたところで私を見つけたそうである。私たちはこの異変に宮部氏と教授が関わっていると考え一度、群へと戻ることにした。空は朝の時刻にも関わらず相変わらずの夜であった。懐中電灯の光も弱まりつつあった。私は空について佐々木さんに訊ねた。が、佐々木さんは今は夜の時間だからおかしくないと告げる。そこで私は彼に今の時間を聞いた。彼は深夜3時と答えた。さらに日付も聞くとまだ一日目の深夜だと言う。私は彼に実体験を述べ、腕時計を見せた。私と彼の時計の短針は違う数字を指している。彼は険しい顔をして思案する。結局、納得のいく答えが見つからないので私たちはとりあへず時間の件は保留という形にした。

 そして私たちは群に着き、宮部氏の屋敷を見つけた。彼は宮部氏の屋敷を見て不思議そうな顔をした。さんざん探して見つからなかったのにこうして私と再度群に戻ると易々と見つけたことに彼はおかしいと感じていた。私たちは戸を叩き、宮部氏の名前を呼んだ。返事はないので佐々木さんは戸を開いた。中は真っ暗。佐々木さんは再度声を上げ宮部氏を呼んだ。奥から戸を開く音、そして足音が。佐々木さんと私の懐中電灯が音の方を照らす。足が現れた。光を上にして足の主の顔を現す。現れた顔は山内さんであった。私たちは胸を撫で下ろした。彼は私たちについてくるようにと言ってこちらの話には答えず黙った歩き始める。山内さんはどこか様子のおかしいが私と佐々木さんは足音を頼りに後に続くことにした。しかし、私の懐中電灯がとうとう切れた。

 すると佐々木さんが予備の乾電池を寄越してくれた。私はすぐに乾電池を交換をしようとするも手が震えてなかなか思うようにいかなかった。私は少し待ってくれと頼むも足音と懐中電灯の光は遠ざかっていく。やっと交換をし終えた私はスイッチをオンにした。だけど光は発せられなかった。プラスとマイナスの向きを間違えたのか確認をしようとしたとき、絶叫がこだました。私は驚き、乾電池を落としてしまった。絶叫は絶え間なく続いている。あまりにも大きな絶叫で誰のかすら判別ができない。私は乾電池を拾うことなく、反転してその場を去った。外は暗く、風雨が私の体を叩く。光は雷のみ。空の轟音が私のはらわたを強く震わせ早く早くと焦らせようとする。私は絶叫が聞こえなくなってから息切れのためか、はたまた両方か、とにかく私は立ち止まり振り返った。雷によるフラッシュが世界を照らし、私に視覚情報を与える。一瞬の光、私は確かに見た。山内さんが屋敷の戸にいた。ほっと安心したが次の光で私は驚愕した。山内さんの体が溶けたのだ。そう見えたのは錯覚だろうか。だが断続的に照らす光によりそれは本当であったと知る。溶けて、溶けて、そしてまた盛り上がり形が生まれる。生まれたそれは宮部氏だった。彼は何かを探しているらしかった。宮部氏は屋敷から続く足跡に視線を向ける。足跡は私のもの。その時、私の体に恐怖という電流が走った。体は勝手に走り出していた。早くここを去らなくてはと。

 そこから先は記憶が曖昧だった。夢のようでもあった。人は得たいの知れないことに対してメタファーを当て嵌めるという。そして私はそのメタファーをイメージしたのかもしれない。それらは本能的に記憶を改竄するために無意識に作られたのかもしれない。その時の私には本当と虚構の境目が分からなかった。あの時、私は逃げていた。ただひたすら森の中を駆けていた。背中からは鬼かあやかしに追われている気配がした。爪や腕が私を捕まえようと伸びている感じがした。私はそんなわけないと思いつつも怖くて振り返ることができなかった。次第にすえた臭いが鼻腔を刺激する。そして耳には深淵からの怒りや怨み、それらとは逆に後ろ髪を引くような甘いいざないの声も混じって私を挫けさせようとする。それらの声は私の頭をねっとりと纏わりつく。それでも私は力の限り走り続けた。足だけでなく体全体を前へと進むように動かす。どれくらい走ったのだろうか。時間という概念が走れば走るほど不思議と朧気であった。そしてとうとう私は力尽き倒れてしまった。顔に泥が付き、唇は地面にキスをしていた。口のなかに土が入る。鼻からは土の臭いが。倒れた私は前へ前へと腕を伸ばす。でもどれだけ伸ばしても体は無常にも動かない。意識が朦朧とする。このまま眠り落ちるのだとわかる。なんとか気を振り絞ろうするも体に無数の穴があるのか力が抜けていく。そして私の意思も闇へと紡がれた糸によって引かれる落ちていった。――ああ、もう、駄目だ。


 気づいたら私は部屋の中、ベッドに仰向けになっていた。上半身を起き上がらせ周囲に目を配らせる。全体的に白い部屋。枕元にはナースコール。私の左腕には点滴がされていた。それらから部屋は病室であろうとわかった。目覚めたというよりも瞬間移動したみたいだ。つい先程まで森の中にいた感覚が残っているのだ。私は頬を叩いた。痛みはある。現実的感覚もある。もう大丈夫だと思い、安心して息を吐くと体力が抜け、私はベッドに倒れた。

 それから医者から質問を受け、その後に家族よりも先に警察がやってきて質問を受けた。戸崎大嵜群に向かった我々に何があったのかと。すべてをありのままに話したかった。だが彼らは信じるだろうか。いや、信じないだろう。だから私はできうる限りの範囲で話した。群に向かったこと、宮部氏にあったこと、そして皆とはぐれ宮部氏に追いかけられたこと。警察はそこを強く探りを入れようと質問繰り出す。困ったところで妻と息子が見舞いにきた。妻は私に抱きつき泣いた。息子は抱きつかなかったこそ目は潤んでいた。家族の登場により、一旦聴取はお預けとなった。

 私は妻に山内さん、教授、佐々木さんについてのことを聞いた。妻は彼らはまだ見つかっていないと言う。さらに戸塚大嵜群には誰もいなかったと。人のみならず動物一匹もいないほど寂れていたと言う。建物は風雨や劣化でどの建物も崩壊していた。それについて聞かされた時は驚いた。確かに建物は人の住める状態ではなかったが全てがというわけではなかったはず。宮部氏がいた屋敷や自分達が泊まる屋敷はまだ大丈夫であったはず。

 そしてさらに驚いたのが私が発見された場所と日付けであった。

 まず見つかったのは森ではなく山の尾根らしかった。そして日付けが我々が出発した日であった。私を発見したのは教授の助手であった。助手は教授の忘れ物を届けようと戸塚大嵜群へ向かったいたさきであった。それで道中で倒れている私を見つけ、病院へと運んだのだ。

 そしてその一週間後に私は目覚めたのだという。


 後日、私は助手である御坂さんに礼を言いに大学へと向かった。御坂さんは大学の准教授で会ってみると年齢は私と近いと思われる。救出の礼と教授たちがまだ見つかっていないことについて懸念を述べた。彼の方からもあの日に会ったことを問われた。私は警察に述べたことを話した。彼は複雑な表情で私の言葉を聞いた。不思議に思った私はまず戸崎大嵜群について尋ねてみた。彼は戸崎大嵜群についてはさほど知識を持ち合わせていなく、教授からの受け売りのような知識を私に与えた。

 彼曰く、なんでも6世紀からの続く修験者の群であったが江戸前期に潰えたとか。潰えた原因は森庄右衛門が道を外れたことであった。普通彼らのいう道を外れるとは天狗道にれることであるが森庄右衛門が逸れた道はそういうたぐいではなかった。それゆえに群の人間たちはそれに気づかず日々を過ごしてしまった。そして彼が秘術、神通力を極め、年がちょうど還暦を迎えた日に悲劇が起こったという。群の老人は殺され、大人の男性は食われ、若者はにえにされたと。そして群にはとうとう彼一人となった。

 彼が語り終えた後、こういう手の話にはよくつきものの謎を私は口にした。もし群全員が亡くなったのならそれをどうして今の世に詳しく伝わっているのかと。そしてその後、森庄右衛門はどうなったのかと。その問いに彼はすぐ答えてくれた。戸塚大嵜群は女人禁制で跡継ぎは隣村の女性に子を産んでもらうか、遠い国から子を買うかさらうかをしていたらしい。群が滅んだ時、隣村には戸塚大嵜群の子を宿していた女がいて、女人禁制ゆえに助かっていたらしい。子を産んだ後、惨劇を知らない隣村の数名が戸塚大嵜群に出産の報せに向かった。しかし、群には森庄右衛門一人しかいなく村民はそのわけを尋ねた。その時に森庄右衛門から群の末路を聞かされ勿論、それを聞いた彼らは森庄右衛門に命を狙われることになる。秘術、禁術を得ている森庄右衛門からしたら彼らは赤子も同然。逃がさぬ術は持ち得ていた。だが、阿弥陀如来の加護により村民は救われ命からがら逃げ延びることに成功したらしい。

 話し終えると御坂准教授は立ち上がって棚からバインダー資料を1つ取り出した。そしてページを捲り、私に中身を向けた。私はそれを窺って声を大にして驚いた。私の声が大きかったのか御坂さんは体を跳ね上がらせた。ページには掛け軸を撮ったであろう古いモノクロ写真がプリントに貼りつけられていた。その掛け軸は江戸時代に描かれた人物絵である。そこに描かれている人物が私が見たあの宮部氏だった。御坂さんはその人物が森庄右衛門と教えてくれた。私は写真とページ内の文章を読むとある事実に気づいた。その掛け軸は命からがら逃げ延びた村民が描いたものだという。そしてその絵を描いた人物が清一郎であり、現在は地元の郷土資料館に掛け軸が保管されているとプリントに記されている。その名は地元の大地主が使っている屋号である。さらにもう一人の名を見つけた。それが玉太郎であった。これは偶然というわけではないだろう。プリントにはその後、彼らは戸塚大嵜群の阿弥陀像を集めたという。そして元々、神社は阿弥陀像を安置するために寺を建てる予定だったが幕府から理由を追求され中止に。その後、何らかの理由で神社を建てられたと。それから時代は明治になる。廃仏棄釈によって政府に目をつけられた阿弥陀像だが、地蔵であると言って難を逃れたと書かれている。なんと地元住民がお地蔵と思い込んでいた原因はそこにあった。

 私は家に戻ると清一郎に話を聞こうと神社会名簿を探した。清一郎はかなりの年輩でスマホやガラケーを所持していなかったので私のスマホに登録されていない。それで家に電話をかけるため神社会名簿を探した。探していると妻が理由を尋ねるので私は清一郎に話を聞くためと答えた。すると妻から思いもよらぬ訃報を聞いた。清一郎は我々が戸塚大嵜群に向かう前夜に亡くなり、玉太郎はその二日後に亡くなったと。


 山内さん、教授、佐々木さんはまだ見つかっていない。捜索も打ち切られた。その後、事件のおかげかどうかは不明だが役所から予算がおり監視カメラは設置される運びになった。そして山頂の阿弥陀像はそのままにすることに。この阿弥陀像も他の阿弥陀像と同じく地蔵丘に置かれる予定だったが私が皆に頼みそのままにすることにしてもらった。

 あれから私は清一郎、玉太郎に替わり山頂の阿弥陀像の世話をしている。北を向くと山がありその向こうには――。冷えた風かそれとも恐怖か、私は反射的に身を震わせた。

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