21 秘密
茶々丸の家を出たとき、日は傾いていた。お堀を越えれば自宅はすぐなので、帰ろうかと近くまで行き、そのまま通りすぎた。まだ玄関前に人がいる。気配からして、何の進展もなさそうだ。これでは家にいるほうが滅入る。
悩みつつ、たま子の家に足を向ける。
たま子には、会いたいような会いたくないようなだ。どうせ、心配し疲れているに違いない。
「こんばんはー」
明かりが灯らず薄暗い玄関先で呼びかける。
すると、すぐにドタドタとたま子が駆けてきた。サンダルを突っかけ、琥太朗を素通りして表を見回し、通りまで見に行く。
じきに肩を落として戻ってきた。
「たまちゃん」
すれ違いざまに呼ぶ。しかし気づかない。
「――なんでさっきは聞こえたんだ?」
首を捻る琥太朗。ちょうどタイミングが合っただけで、聞こえたわけではないのだろうか。
居間の明かりが点いた。ぺたんと座り込み、座卓に顔を伏せるたま子。どうやら母親は不在らしい。
「まあ、そう、気を落とさないでよ」
隣にあった座布団に座り、他人事の口調で慰めを言う。
「寒くない? 風邪引かないように気をつけなよ。ご飯食べてる? もっと痩せちゃうよ」
返事の代わりにくすんくすんという泣き声が聞こえてきた。琥太朗も涙ぐむ。
じきに梓が帰ってきた。白髪混じりの品のいい女性である。座卓に伏せたままの娘に柔らかく声をかける。
「遅くなってごめんなさいね。何か食べた?」
問いかけに問いかけで返すたま子。
「――コタロウは?」
苦笑して、無言で首を横に振る梓。小さくため息を吐く。
「……やあね、亀屋さんが来てるもんだから、ちょっと視線が痛かったわ」
「…………」
「ああ、別にあなたを責めてるんじゃないのよ。あなたは恨まれる筋合いなんてないんだから。ただ……あなたは行かないほうがいいと思うわ。余計なことで神経使っちゃうから」
何も言わずたま子が立ち上がった。自分の部屋に向かう。梓が慌てて「おじやでも作ろうか? 大福あるわよ」とかける声にも答えない。
追わずに、琥太朗は門を出た。
そのまま帰る気にもなれず、鳥居町に行って大通りを往復した。電飾と浮かれた客と華やかな衣装の〈娘〉を眺めていると、多少は孤独感が和らいだ。屋台の揚げまんじゅうをつまみ食いし、甘酒をすすりながらゆったり散策する。
帰宅したのは、夜の一〇時過ぎだった。人がいなくなり静かになった家の中で、両親だけが黙って座っていた。
「辛気くさいなあ」
ソファの母親と、オットマンに腰かけた父親に説教口調で言う。
二人とも目の下にクマができ、肌が荒れていた。口を開く元気さえないようだ。
見ていられない、と琥太朗は勝手に風呂に入った。パジャマ姿で歯を磨きながら二人のもとへ戻る。
「そうしてたって、何も変わらないよ。寝れば?」
もちろん反応はない。一つため息を吐いて、口をゆすぎに行く。
景色が変わらないまま一二時が近づいた。
夜中は嫌いだ。気持ちが暗くなる。このまま両親がやつれて死んでしまったら……と怖くなる。目の前にいるのにそれが止められない。
――『怖いものは全部幻よ』。
それは
『怖いもの』は存在しない。自分が『怖い』と感じるのをやめれば、それはただの『もの』になる――という意味だった。
琥太朗はだいたいいつも、うまくやれた。自分をコントロールするのが上手で、怖さも感じないようにできた。
でも今は駄目だ。親が死んでしまうかも、という恐怖は、押さえつけるほどに大きくなる。
――いいや、寝よう。
吹っ切るように頭を振り、「もう寝るよ」と大きな声で宣言して、階段に向かう。
「――あの子」
不意に母親が口を開いた。
「知ってたのかしら」
父親がゆっくり、妻のほうを見る。
「――俺たちが死ぬことをか?」
覇気がなく穏やかとも取れる言い方に、息子は最初、意味が理解できなかった。
「何の話?」
呟いて、急に寒気に襲われた。
死ぬ? 誰が? 両親が?
「何言ってるの? ねえ」
琥太朗は賢い頭で、いろいろな解釈のしかたを考えた。「人はいつか死ぬ」という一般論かもしれない。自分たちの子どもはまだ幼いから、親もいずれ死ぬということをわかっていない――。
いや、そんな話ではない。両親はいつも、個性的な息子を適切に理解していた。過小評価などされたことがない。
膝が震える。聞き間違いではないのか? 比喩として言ったのではないか。
「お父さん……」
そばまで行こうとした足に力が入らなかった。その場で崩れ落ちる。
子どもに聞かれているとは知らない夫婦は続ける。
「誰かに聞いたと思うのか? ――
「……頭のいい子だもの。はっきり言われなくたって……自分で考えて、気づいたのかもしれないわ」
「……気づいていたように思うか?」
「……わからない。でも、あの子は……できすぎだったわ」
「……知っていたから、いい子を演じていたとでも?」
「……そう思えなくもないでしょ……」
「知らなかったよ!」
叫ぶ琥太朗。いい子を演じていた? そんな風に思われるのか。
父親が疲れた顔を妻に向ける。
「……知ってたら、なんだって言うんだ?」
母親は、どこも見ていない目で答えた。
「……辛かったでしょうね……」
頷く代わりに沈黙する夫。
琥太朗は呆然とした。感情より先に涙がぼろぼろ零れた。
自分はこのまま、声も届かないすれ違った世界で、両親が死んでいくのを見るのだろうか……。
悲しみと恐怖が身を包む。それと同時に、強い怒りが込み上げた。
――『いい子を演じていた』?
――俺が両親を騙していた、と?
――被害者面すんな。
逆ではないか。理想的だと思っていた、やさしく理解力ある両親は、実はいい親を演じていただけではないか。
それまでの幸せが全部、偽善と欺瞞に感じられた。
両親だけではない。
――左之丞。
年の離れた兄を思い浮かべる。両親以上に何でも頼れて大好きだった兄。
――あいつも。
怒りは、目の前のやつれた両親を通り越して兄に向かった。
――騙されてたんだ。
――問い詰めてやる。
悲しみと恐怖が、怒りに一本化された。
その瞬間、左手首のグラウコンが息を吹き返した。
気づいたとき少年は、自宅裏の大きな屋敷に住む左之丞の枕元に立っていた。
大工の棟梁として人望を集める左之丞は、今年五〇歳になる。琥太朗の両親は四〇歳前後にしか見えないので、親子関係としては不自然だ。見た目もまったく似ていない。なので表向きは、単に親族ということにしている。
実際には、
左之丞も前日は琥太朗の捜索隊に参加し、今日はずっと有子のもとに詰めていた。左之丞には実の子がいない。代わりに、養親として今まで何人も育ててきたくらい、子ども好きだった。四〇歳離れた弟の琥太朗のことも溺愛していた。今は不安渦巻く考えを酒でごまかして、やっと床についたところだった。
「左之丞」
広い十二畳間の隅に行灯が点るだけの暗い部屋で、恨めしく兄の名を呼ぶ。呼ばれたほうは、ぴくっと身じろぎし、むにゃむにゃ言いながら目を開けた。
「……なんだい、ゆかりちゃん。……もう飲めないよ……」
「誰がゆかりだ、ボケ」
頭上から覗き込む形で、怒りの形相で仁王立ちしている琥太朗。
「おい、左之」
軽く枕を蹴る。ようやく左之丞が琥太朗を認めた。その目が、徐々に大きく見開かれる。
「――琥太朗――!」
驚きを無視して、単刀直入に問いをぶつける。
「うちのお父さんとお母さんが死ぬって、どういうこと?」
「――あん?」
突然で飲み込めない兄に、詰問口調で同じ質問を繰り返す。兄は、ぽかんとしながら「辞世のことか?」と返した。
――じせい?
「辞世って何?」
「だから――」
寝巻に包んだ恰幅のいい体を布団に起こす。
「いつって決めて、ファミリーにやってもらうんだよ」
面食らった。ファミリーが――やる? あれだけ両親が信頼しているファミリーが、両親を殺す?
「なんで?」
当然の問いが口を突いた。兄も当たり前の口調で答える。
「でなきゃ、死ねないじゃないか。アリスもジョージも」
「――――は?」
足から震えが上った。耐えられず、ぺたんと座り込む。合点が行くのと裏腹に、心が理解するのを拒んでいる。
――死ねない。
若く見える両親。親子ほども年の離れた兄弟。周囲にそれを隠し続けている一族。
年齢が上がるにつれてうっすらと疑問に感じる一方で、問題視するのを避けてきた事柄が急に輪郭を持つ。
実はとても――単純な話ではないか。
「――いつ?」
「えー……あと二年か」
聞かれるがまま素直に答える左之丞は、疲れと眠気でぼんやりした顔つきだ。夢を見ていると勘違いしているのかもしれない。
「――嘘だ」
怒りたいのに、涙があふれた。体が勝手に震える。自分の体なのにコントロールが利かない。無力な子どものように両手で顔を押さえる。
「――嘘だあ」
「――――お?」
目を擦り、ぱちぱちと瞬きをした左之丞が、やっと事態を把握した。そろそろと、幼い弟の体に手を伸ばす。――
「――お!?」
驚き八割、喜び二割の声が上がる。
小さい肩をつかみ、頭を撫でる。確実にそこにいることを実感し、一瞬、固まる。
「――――おお!?」
――深夜、広い邸宅に一つの明かりが灯った。それはすぐに家中に広がり、やがて近所を巻き込んでの大騒ぎとなった。
翌日、両親は昼過ぎまで起きてこなかった。その間に琥太朗は亀屋小太郎を誘い、たま子の家へ行った。先に連絡をしてあったので、出迎えたたま子の様子はわりあい落ち着いていた。
「大丈夫、たまちゃん」
ほとんど寝ていないような青い顔と赤い目のたま子は、感情があふれて言葉が出ないようだった。口を押さえたと思うとしゃがみ込む。
「まあまあ、玄関先で、なんだから」
梓に諭され、座敷に上がる。居間の座卓で、梓が紅茶と煎餅と大福と最中とバームクーヘンを出してくれた。置きながら娘の背中を撫で、「やっと食べられるわね」と微笑む。
「たま子、全然食べてない?」
亀屋小太郎が心配そうな声を出す。
聞くまでもなく、もともと痩せ型のたま子がたった二日でさらに細くなっている。
たま子は荒れた唇を動かしかけたが、声にはならなかった。琥太朗を見て浮かべようとした笑みも失敗している。猛烈な眠気に襲われているのかもしれない。
琥太朗は以前、エロスがしてくれたことを思い出した。左手でたま子の手を握る。
生気のない目を不思議そうに向けていたたま子の表情が、一〇秒ほどで力を取り戻した。改めて琥太朗がそこにいることを確認し、涙ぐんで抱きつく。
「……ごめん……ボクのせいで……」
「たまちゃんのせいじゃないよ。気にしないで」
背中をぽんぽん撫でる。鼻をすすっていたたま子だが、少しして平常に戻った。顔色が良くなっている。
「――で、どこに行ってたんだ?」
いつ質問しようかと、タイミングを見計らっていた亀屋小太郎がようやく聞いた。
「おまえたちを追ってた黒服は、おまえが道の脇に落ちたんで探したんだけど、消えた、って言ったらしいんだよ」
琥太朗は覚えている限りをおおよそ正直に話した。たま子の様子を見に家の中まで入ったことと、ソポスと辞世に関する
「声かけたら、たまちゃん、すぐに出てきたんだよ」
はっとするたま子。
「『こんばんは』って言った?」
「そう」
「……やっぱり……聞き間違いじゃなかったんだ……」
これを聞いて目をキラキラさせたのは亀屋小太郎だ。「すごいね、そんなことあるんだね、不思議」と、疑う様子もない。
一方で琥太朗は思い出しつつ首を傾げる。
「茶々丸も一回だけ、聞こえたみたいでさ。なんでだろ。……たまちゃん、そのとき、何してた?」
「何……? ぼーっとしてたかな? 別に何もしてなかったと思うけど……うつらうつらしてたかも」
「そっか。――でね」
琥太朗はたま子と亀屋小太郎の間に目を向ける。
「青白く光ってる変な猫が見えたって言ったでしょ。……今も、見えるんだよね」
「ええッ!?」
吹き出したのは亀屋小太郎だけだった。たま子は『それ』と反対側の琥太朗を見たまま、真顔で言った。
「ボクも見える」
「ええッ!?」
今度は少年二人の声が重なった。
「え、いつから?」
「ずっと。たぶん、生まれたときから」
「なんで教えてくれなかったんだよ」と不満そうな亀屋小太郎。
「他の人には見えないのがわかったから。言うと、変に思われるから言わないようにしてたんだ」
「へー……」
予想外の告白に言葉を失う。
「じゃあ、それって、ついている人しか……」と考え考え語り始めた亀屋小太郎を、「それより」と琥太朗の大声が遮った。
「茶々丸だよ。他の寺子屋に移るかもしれないって」
「あ、そうだ」
課題に気づいて浮き足立つ年長組。
説得、あるいは、ともかくも話し合いに行こうと即決する。その前に、紅茶のおかわりと出された茶菓子で腹ごしらえをした。
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