20 気づかれない
翌朝、目が覚めたのは九時だった。いつもならこの時間まで寝ていれば母親が起こしに来る。琥太郎は慌てて着替え、リビングに降りて行った。
「お母さん、お父さん!」
人が大勢いた。ソファに項垂れた母親が座り込み、キッチンでは苦虫を潰したような表情の父親がコーヒーを飲んでいる。その周りで気遣う素振りの親戚や知り合いたち。
「ねえ、お母さん! お父さん!」
精一杯呼ぶ。
無情にも、事態は昨日のままだった。誰も琥太郎に気づかず、触ることもできない。
「なんで……」
見回した先に亀屋小太郎がいた。
「兄やん!」
いつもより大きな声が出た。駆け寄る。しかし常になく憔悴した風の亀屋小太郎は、虚ろに一点を見つめるばかりだった。
「こっち見てよ、ねえ。ここにいるんだよ、ここだよ、気づいてよ、ねえ、兄やん」
繰り返し訴える耳に、誰かの呟きが入った。
「――いい子だったのにねえ……」
――だった?
ドキッとする。ひょっとして、自分の死体でも見つかったのだろうか。皆、葬式の準備で集まっている?
誰も喪服は着ていないけど、と思いつつ、会話を立ち聞きして回る。
幸い、そういう展開ではないらしい。自力での捜索を諦めて、ファミリーからの連絡を待っているようだ。
母親の隣に腰を下ろす。膝を寄せ、触れない腕に触る。見た目は若い母親が、一晩でずいぶんと老けた。
「お母さん……」
反射的にあふれる涙を拭い、勢いをつけて立ち上がる。
ここにいても駄目だ。何か解決策を探さないと。
――寺子屋に行こう。
ひょっとしたら誰かには認識してもらえるかもしれない。
その前に腹ごしらえと思い、食パンをトーストして食べることにした。
奇妙なことに、トースターも冷蔵庫も、当たり前に使える。なのにそれが周りの人には気づかれない。トースターの「チン!」という音さえ、誰にも聞こえないのだ。
――面白いな。
かまわず冷蔵庫からマーガリンとイチゴジャムを取り出し、インスタントのコーンポタージュを作る。使い終わったスプーンを、わざと音を立てて流しに落とした。やはり気づかれない。
テレビを点ける。すると、少しして親戚の一人が無言で消した。もう一度点ける。やはり消された。もう一度繰り返す。
消した人の顔には、なぜテレビが何度も点くのか、と訝しがっている様子がない。何も考えずに消しているようで、周りの人も同じだった。見てはいるのに見えていない。とにかく琥太郎の存在に関わる一切が認識されないらしい。
「変なの。ね、お父さん」
頬杖をついた父親は、ぼうっと外を眺めていた。寝ていないのか、顔色が悪い。普段は身だしなみに気を遣う人が、髭も当たらず、昨日と同じシャツを着ている。
「……ちゃんと寝て、ちゃんと食べるんだよ」
見ると涙が零れるので、早く出かけようと立ち上がったときだ。
二階の琥太朗の部屋のドアが「バンッ」と開いた。そこから一陣の風が吹き込み、階段を駆け下りてカレンダーやランプシェードや観葉植物の葉などを揺らした。
一同に「おおッ」とどよめきが起きる。
「あ」
琥太郎は、窓の鍵をかけ忘れたことを思い出した。サッシが緩んでいて、強い風が当たると開いてしまうのだ。ドアまで勢いよく開いたのは、たまたま突風でも吹いたのだろう。
母親が充血した目で、ふらふらと立ち上がる。
「琥太郎……? 帰って来たの……?」
天井を見回しながら哀切な声を振り絞る。
「いや、死んでないから。昨日からいるし」
思わず突っ込む。
声の聞こえない一同は、てんでに勝手なことを言い始めた。
「まさか、今……」
「よっぽど帰って来たかったのねえ……」
「みんなに挨拶したんだな」
「……あれ、タロウ、気に入ってたから……」
亀屋小太郎の呟きに「ふん?」と眉を寄せる琥太郎。指差した先にあるのはカレンダーだった。アニメのキャラクターが印刷されている。
「いや、それ、もらったからかけてるだけで……」
もらったときに喜んで見せたのは、ただの社交辞令ではないか。亀屋小太郎だって、わかっていたはず。さっき風が吹くまでは。
ところが周りの人まで同調して、いいかげんなことを言い出す。
「思い入れがあるのね……」
「好きなものって、そうだよなあ……」
「これも気に入ってたものね……」とランプシェードを愛しそうに見る母親の友人。
「そんなことないよ!?」
当然、衝撃の声は誰の耳にも届かなかった。
これ以上、自分にまつわる勝手な発言を聞いていられない。肌を出さないように着こみ、上着と飲食物を入れたリュックを背負って家を出た。
寺子屋の門を入ったところに、早速むつみがいた。六本の腕に軍手をはめて、植木を眺めている。
「おはよー、むつみさん」
大きく言って、正面に仁王立ちになる。――と思ったら、そちらが背中だったので、改めて正面に回る。
「おはよぅ、むつみさん」
ちょっと言い方を変えて、再度挑戦。……反応はない。
「〈研究所産〉もダメか……」
めげずに次のターゲットを探す。みち子の父親でもある学長が、事務所のほうから出てくるのが見えた。駆け寄る。
「おはよー、
やはり無視して通り過ぎる学長。
「ハゲ」
試しに言ってみる。
聞こえている様子はない。
子どもたちが集まっている座敷も回ってみたが、誰にも認識される気配はなかった。
模型チームはエロスといずみだけがいた。粘土で作った〈神殿〉周辺のパーツに絵の具で色をつけている。
「エロス姉さん」
隣に座りながら呼ぶ。
「なんだっけ、アン……アント……アントシアニン?」
……ちらりとも見てくれない。
机の上にプリントがあった。お化け桜を見に行ったときに茶々丸がもらったもので、ファミリー本社などの大きさが数字で印刷されている。そこに縮尺を計算した数字が手書きで書き込んであった。
思いついて、鉛筆を取った。「おはよう」と書き、いずみの前に差し出す。いずみは、おそらく無意識に、邪魔なそれを押しやった。
もう一度差し出す。いずみは紙を見た。そして何も考えない表情で紙を取り、反対側に置いた。
紙に「怖いものはぜんぶ幻」と書き足し、今度はエロスに渡す。エロスは当たり前に受け取り、横に置いた。
「見てよ」
しつこく差し出す。結果は同じだった。反応はするのに、認識してくれない。
「もう」
諦めて天井を仰ぐ。そこに、大きな顔があった。
輪郭がわからないので、人の顔ではないかもしれない。とにかく人の目に似たものが二つと、顔のパーツらしきものがぼんやり見えた。青白く発光している。天井いっぱいに広がったそれは、琥太朗を見てにこりと笑い、薄れて消えた。
「…………」
お化け、と言葉を失う。
次に、悔しさに襲われた。「彼ら」には琥太朗が認識できる。なのに会話もできないのでは……結局、意味がない。
次に研究所に向かった。入り口のセキュリティを難なく通過し、みち子がいそうなところを探す。いた。
「姉さん。みち子姉さん」
自分の机でドーナツ片手にアバカスを睨んでいるみち子にも反応はない。さっさと諦め、手当たり次第に声をかけてまわる。
いつもなら許可のあるドアしか開かないのが、今日はどこでもセンサーに触れれば開いた。ある意味、得だ。
そういえば寺子屋に茶々丸がいなかった、と思い出す。父親の見舞いに来ているかもしれない。
入所患者のいる区画に行ってみる。いない。休憩室と食堂を覗く。いない。
今日は来ていないのか、と諦めかけたとき、食堂の外のベンチでジュースを飲んでいるのを発見した。
「茶々」
一応、普段通りに声をかけてから隣に座る。
何を考えているのか、茶々丸は庭の松の先端をぼんやり眺めていた。心ここにあらずといった風情だ。
そんなに父親の状態が悪いのだろうか。
「お父さん、大丈夫?」
返事を期待したわけではない。しかしストローを口から離した茶々丸は「うん」と返事をした。
「聞こえるの?」
驚いて問う。
茶々丸は、はっとした様子で琥太朗のほうを見た。正確に琥太朗の目を捉えた――と思ったのも束の間、すぐに不思議そうな表情になり、キョロキョロと辺りを見回した。近くに誰もいないのを確認して、首を傾げる。
「ねえ、聞こえる?」
触れない肩に手を置きながら、繰り返し問う。しかし反応が得られたのは最初の一回だけだった。
じきに立ち上がり、ジュースのパックを食堂で捨てて、エレベーターに乗った。琥太朗もついて行く。
入所者用の部屋に父親がいた。包帯だらけでベッドに横たわる姿は一見して痛々しい。
息子に気づいて「おう」と片手を上げる。命に関わるほどの重症ではなさそうだ。
「お茶、持って来ようか?」
「おお、サンキュ」
怪我人にしては明るい声で応じる。
彼は、お茶を持って戻ってきた息子に「もう来なくていいぞ。寺子屋に行けないだろ」と言った。
ずっと無表情だった茶々丸は、それに無言で答えた。静かに拳を握る。
「じゃ、帰る」と一分ほどして唐突に立ち上がった。
「おう、気をつけてな」
明るい声に送られる息子は、やはり無表情のままだった。
廊下に出たところで小さく「くそッ」と唸る。
――心配してあげているのに、わかってもらえないから?
琥太朗はそのまま、茶々丸について行った。寺子屋を通り過ぎて大鳥居を潜り、鳥居町に入る。一時間半の距離を、茶々丸はほとんどずっと、口の中でぶつぶつ言って通した。内容はわからないが、恨み言の雰囲気だ。
お堀から少し入ったところにある長屋の一軒が、茶々丸と母親の自宅らしかった。近くで数人の女性が賑やかに立ち話をしていた。いずれも、いかにも鳥居町の女性らしい、派手な色使いの化粧と着物を組み合わせている。
一人が帰宅した彼を認め、「お帰り」と一緒に家に入った。
琥太朗は数秒迷ったものの、引き戸が閉まるのを見て、咄嗟に滑り込んでいた。プライベートを覗き見するようで申し訳ないが、茶々丸が怒っている理由を確かめたい欲求に勝てなかった。
家の中は雑然としていた。土間から上がったところの八畳間が居間に違いない。卓袱台と座椅子の周りにテレビ、箪笥、鏡台、飾り棚、室内用物干しなどがあり、茶々丸のカバン、教材、遊び道具なども放り出してあった。
「どうだった? お父さん」
土間にあるキッチンでお湯を沸かしながら、明るい口調で聞く母親。座椅子に腰を下ろした息子は陰気に答える。
「……あと一週間くらいで家に帰れるって」
「そう。明日も行くの?」
「……来なくていいって言われた」
「そうなの? なんで?」
「……寺子屋に行けって」
「あはは。そうよね」
息子は笑わない。長い前髪と太縁眼鏡に隠れた目をさらに俯ける。
笑いを引っ込めた母親が「ねえ」と切り出す。
「お父さん、退所してもしばらくは生活が不便でしょ。うちに置いてあげようかと思うんだけど……どう?」
息子は不満そうに片膝を抱えた。
「……来て、どうするの」
「ん、どうって?」
「……どっかで働くの?」
「どうかなー。働いたことないでしょ、あの人。ギター弾く以外、何もできないもん」
「…………」
「嫌?」
「…………」
「お父さんのこと、嫌いなわけじゃないでしょ?」
「……嫌いじゃないけど」
「まあ、ずっとってわけじゃないから。火傷が治って、自分のことができるようになればさ、あの人だって、住み慣れたところのほうがいいだろうし」
「…………」
茶々丸は額を膝につけて、顔を見せない。母親は作ったココアを卓袱台に置いた。
「ね、いい?」
一秒の間があった。
「寺子屋に行けって言うけどさ」
顔を伏せたまま、こもった声で怒鳴る。
「どうやったら行けるんだよ。みんなに親が鷹狩りだってばれて」
沈黙が降りた。
やっと理解した琥太朗が頷く。父親の怪我が重いせいで、寺子屋に来られないわけではなかったのだ。
長い沈黙だった。体勢を変えないまま、茶々丸が鼻をすする。
「……どうしたいの?」
母親が聞いた。怒っている風でも、悲しんでいる風でもない。もともと何かを諦めているような声音だった。
「……別の寺子屋に行きたい」
母親は少し考えて頷き、小さく同意した。
「そっか」
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