19 裏面

 目を開けたとき、辺りは真っ暗だった。

「……え……?」

 記憶を辿る。佐吉に放り投げられて、坂の下に落ちたのでは……。

 束の間、麻痺していた感覚が戻る。寒い。痛い。

 記憶の通り、琥太郎は坂の下の砂利に寝ていた。何時間経ったのか、夜になっている。大きく尖った砂利は、幼く柔らかい身体に優しくなかった。体のあちこちが痛い。ハーフパンツから出た脚をいくらか擦りむいたようだ。冷えたせいで、感覚は鈍っている。

 落ちて気絶したのだろうか? ソポスが反応しなかったのだろうか。黒服は彼を見つけてくれなかったのか?

 とにかく家に帰らないと、と、月のない夜空を見上げて焦る。立ち上がったところで、おかしいと感じた。寒い。恐怖を感じているのに、ソポスが働かない。

 まさか、と左手首を触る。あった。あるのに……反応していない?

 土地勘のない場所なので、どっちへ行っていいかもわからなかった。とりあえず来たほうへ戻りたいが、見通しも利かず、坂を上がる階段が見つけられない。仕方ないので、生えている草を頼りに落ちてきたところを登った。

 けっこう風があり、草や木のごうと唸る音が怖い。誰かが怒鳴っているようだ。四月の夜の地面は冷たく、湿気を含んだ泥で汚れた手先がじんじん冷えていく。

 体も重い。何度か滑り落ちて、ようやく道路に出た。

 市街地からはだいぶ離れているらしい。民家はまばらで、外灯もほとんどない。道路が舗装されていることがせめてもの救いだろうか。来たと思うほうへ、一生懸命足を動かした。


 感覚で三〇分ほど歩いても、まだ住宅地に出ない。相変わらず外灯がほとんどなく、すれ違う人もいない。琥太郎はべそをかいていた。肌の露出した部分が寒いし痛い。加えて、それを助けるはずのソポスが働かない事実が、守り神に見捨てられたような孤独さと恨めしさを感じさせた。

 思い浮かべるのは、自分を探しているだろう人たちのことだった。特に母親とたま子はひどく心配しているに違いない。自分が帰らないと、二人とも寝られないはずだ。急がないと。

「たまちゃん……泣いてるといけないから……」

 そう呟くことで、自分が泣きたい気持ちを押さえることができた。

 何時なのだろうか、通り過ぎる民家に明かりが灯っていることは稀だった。灯っていても、窓が開いていたり人の声が聞こえたりするわけではないので、声をかけるのがためらわれた。もし頼んだら家まで送ってくれるだろうか……と、敷地内に止められた軽トラを見つめつつ通り過ぎる。

 もうしばらく行くと、ようやく家の数が増えてきた。灯っている明かりの数も多くなり、いくらか元気になる。琥太郎は自分の汚れた服を叩いた。

 車に行き合った。乗っているのは黒服組だ。事情を話して送ってもらおうと手を振る。しかし無視して通り過ぎられた。

「……いいけど、別に」

 強がれたのは、この辺がもう見覚えのある場所だからだ。夜こそ活気づく鳥居町の明かりが遠目に見える。そびえる大鳥居のシルエット。それを過ぎれば自宅が近い。

 ところがその前に、たま子と行き会った。養親の梓と一緒に懐中電灯を持って歩いている。

「……コタロー。……コタロー」

 すでに嗄れて出ない声で必死に呼んでいる。

「たまちゃん!」

 気づいた途端、どこに残っていたのかと思う力が湧いた。笑顔で駆け寄る。

 暗いせいか、かなり近づいても相手は気づかない。驚かしてやろうといきなり抱きついた……つもりだった。

 ――え……?

 空振りに終わり、震える。はっとして振り向き、もう一度抱きつく。

 触れない。腕は幻影のようにたま子の体を素通りした。

 呆然と手を見る。がくがく震えている。どうしたというのだろう。なぜ、触れないのか。たま子が幻なのか? それとも、自分が……。

「……コタロー。……どこー?」

 視線を遠くに投げたまま、あちこちを照らして捜しているたま子。その目に浮かぶ涙。

「たまちゃん、ここだよ。こっち見てよ」

 間近から何度も大声で呼びかける。しかし翼ある言葉が届く様子はまるでない。

 付き合う梓は心配そうに娘を見ている。その顔は少し、迷惑そうでもあった。

「ねえ、今日はもう終わりにしない? こんなに暗いんじゃ、捜そうにも……」

 前を向いたままのたま子の目から涙が落ちた。自分の意志を貫くか、養親に従うか……。

 無言で立ち止まった娘の肩を抱いて慰める。

「夜が明ければ、状況が変わってるわよ。そのころには帰ってるかもしれないし。ね?」

「……はい……」

 暗い絶望の声。

 琥太郎の頬も涙で濡れていた。もうお互いの世界が触れ合うことはないのだと悟った。

「……ごめんね、たまちゃん……」

 別れを意図したような言葉が漏れる。

 ――ところで琥太郎はさっきから、涙で滲む向こうにおかしなものが見えるのが、薄々気になっていた。

 それは大きな招き猫のように見えた。たま子の少し脇を、黙って移動している。足で歩いているわけではない。ふつうの招き猫は短毛種がモデルだが、これはそれに比べると毛がふさふさしている。白地に金と黒の模様が入った派手な猫だ。全身が青白く光っている。一七〇センチ近いたま子の背丈を超える大きさ。

 ――なんだこれ。

 ようやく意識がそちらに向いた琥太郎は、その異常さに気がついた。

 たぶん、生き物ではない。まともな猫には見えないし、招き猫が人の脇をずっとついて動くはずもない。たま子たちに見えている様子もないから、おそらく琥太郎と同じ世界の何かなのだろう。

 ならば自分と会話できるかも、と近づいてみる。

「あの……」

 反応はない。……が、耳がちょっとだけ動いた気がした。

「もしもし、こんばんは」

 猫は黙ったまま、大きな黒目をぎょろっと動かして琥太郎を見た。思わず後退る琥太郎。ふつうの猫は可愛いが、これはあまりに大きな目と口に迫力がありすぎる。うかつに近づいたら食べられてしまいそうだ。

 しかし自分を認識してくれた。あとは何か言ってくれないものか……。

 期待に反して、猫は琥太郎を無視した。近づけば目だけ向けるが、口を開く気配はない。

 猫とたま子を追って歩くうちに、自分の家の前まで来ていた。家は明かりが煌々と灯り、玄関前に母親と近所の人たちが集まっている。

「お母さん!」

 一縷の望みを抱いて駆け寄る。

 反応は、たま子と同じだった。待望の息子が帰ってきたことに気づかず、悲嘆に暮れた顔を俯けている。何時間そうしているのか、集まった人たちにも疲れの色が濃い。

「――あんまり思い詰めると、体に悪いわよ。そろそろ中に入ったら……」

 お向かいのおばさんに説得されるも、頑なに首を振る有子アリス

「皆さんはどうぞ戻ってください……」

 死人が囁くような声で告げる。

 念のため、琥太郎は一人一人に声をかけて回った。やはり気づく者はない。

「なんだよ、これだけいて」

 苛立ちを吐き捨てたところで、目が合った。

 人間ではない。有子の後ろにちょこんと座った犬――のようなもの。

「うん?」

 家で犬は飼っていない。近づいて見る。パグに似ているが、顔が違う。いや、顔を車に轢かれたパグかもしれない。だいぶ不細工だが、愛嬌はある。先ほどの招き猫と同様、青白い光に包まれている。

 パグは琥太郎を見て、丸めた尾をぷるぷる振った。

「おまえ――」

 何か自分と関係があるのだろうか。触ろうと手を伸ばす。相手は嫌がらなかったが、触ることはできなかった。手が素通りしてしまう。

「あれ? なんで――」

 同じ世界の存在なら触れてもいいだろうに――。不満に思う。が、文句を言っても始まらないので諦める。

 さて、どうしたものか――と考えるより先に、体が勝手に家に飛び込んでいた。トイレに行きたい。

 家の中は暖かった。反動でぶるぶると震えがくる。用を足すと、今度は強い空腹を覚えた。

 とりあえず汚れた手を洗おうと洗面所に行くと、今度は脚と服の汚れが気になり出す。風呂は沸いていた。琥太郎は一風呂浴びて体を温めた。

 不思議だが、物には当たり前に触れる。皆に認識してもらえないということ以外、琥太郎はいつも通りの行動を取ることができた。

 自分の部屋へ行って部屋着を着る。汚れ物は洗濯機に入れた。明日、母親が見て驚くだろうか。

 ――いや、明日には戻っているさ、きっと。

 琥太郎はちょっと落ち着いて、ベッドに座った。

 どうやら自分はおかしな世界に紛れ込んでしまったようだ。それまでの世界の、裏面とでも呼ぶべき場所に。

 たぶん、自分は、死んだわけではない。寒さや空腹や暖かさをこれだけ感じるのだから。今まで通りだ。何かちょっと間違いが起きただけで。初めてのパターンだが、これがグラウコンの暴走だろう。

 その歪は、一晩寝れば解消されるものなのかもしれない。

 キッチンへ行った。自分のために用意されたのだろうシチューを温めて食べる。カフェオレを作って飲み、テレビをちょっと見た。それから母親のもとへ行ってみる。相変わらず認識されない。部屋に戻る。

 ――大丈夫、焦っても仕方ない。

 ソポスの訓練の際によく唱える言葉を心中で呟く。なるようにしかならない。なるようになる。

 ――寝よう。明日を来させるために。

 布団を被って目を閉じると、たま子や母親のことが思い浮かんで涙が零れた。嫌な考えも次から次に浮かぶ。

 これじゃ寝つけないな――と思ったのも束の間、家に戻れた安心感からか、疲れのせいか、じきに眠りに落ちた。

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