16 それから
家に戻ってソポスを外した琥太朗は、コートを着たまま「だあッ」と寝転がった。
――失敗した!
また金の手を出してしまった。
あれは、琥太朗が恐怖を覚えて動揺したときに現れる「救いの手」なのだ。自身では『グラウコンの手』と呼んでいる。『グラウコン』は琥太朗が預かっているソポスの名前だ。
出そうと思わなくても、無意識に出てしまう。だから
今回もしあの黒服たちが「どこからともなく現れて消えた金色の手」についてファミリーに報告したなら、それについての解析を研究所に依頼したなら、あっさり見破られてしまうだろう。
そうなれば、ソポスの返上だ。練習で行ったつもりが、大誤算である。
「――あーーッ」
駄々をこねるように両手両足で床を叩く。
寝ていた母親が驚いて「どうしたの?」と駆けつけて来るのは、三分後のことだった。
その晩、なかなか寝つけなかった琥太朗は、翌朝寝坊した。無理矢理母親に起こされ、不機嫌に朝食をとって寺子屋に到着したのは、昼も近い一一時のことだった。
「おはようございます」
外を掃いていた〈研究所産〉のむつみに声をかけられる。
「おはよ。おはよ」
二つの顔にそれぞれ挨拶する律儀さはあるものの、その表情は不貞腐れている。
「どうされたんです?」
竹箒、ちりとり、モップ、窓用スクイージー、バケツをそれぞれの手に持ったむつみが、心配そうに聞いてくる。
「……ううん、別に」
「体調悪いんですか?」
「……ちょっと風邪かも」
精神が不安定なのでソポスを着けてこなかった。おかげで体が重く、余計に気持ちも重い。
「珍しいですね、コタロウさんが」
「……今まではね」
ソポスを返上したらこの状態が続くのだ、と思うと、さらに滅入った。
玄関を入って座敷に行くまで、いつ職員に呼び止められるかとびくびくしていた。今日ほどみち子に会いたくないと願った日はない。
「……おはよう」
亀屋小太郎はどぎまぎしながら挨拶した。琥太朗が、親が死んだような顔で無言で横に立ったからだ。
返事もせず、どさっと胡座をかく琥太朗。
職員は呼びに来ない。蛇の生殺しというやつで、却って不安が募る。とはいえ自ら事務所に出向く気にもなれなかった。
「……どうした? お母さん、どうかしたか?」
首を横に振る琥太朗。
「どうかしてたら、来てない」
低く答える。
「そうだよな……」
「なんだ、今ごろ来たのか」とエロスの声。「おまえも休みかと思ったぞ」
「………………も?」
顔を上げる。座卓を囲んでいるのは亀屋小太郎、いずみ、エロス、たま子――。
「あれ、茶々は?」
「休みなんだよ」
亀屋小太郎が琥太朗の肩に腕を回し、小声で言う。
「お父さんが怪我して、研究所に運ばれたんだって」
「研究所? なんで?」
茶々丸は鳥居町に住んでいる。鳥居町なら常駐のドクターがいるはずだ。
亀屋小太郎が首を横に振る。眉間に皺を寄せて、さらに声を低める。
「茶々のお父さん、鷹狩りなんだって」
「……え?」
理解するのに一秒かかった。
「……え!?」
理解して驚きが倍になる。あの騒動に巻き込まれたのか。
「それって、大怪我したってこと?」
亀屋小太郎は「わからない……」と顔を伏せる。そのままごく小さい声で「言った?」。
はっとして、首を横に振る琥太朗。直接には関わっていない亀屋小太郎だが、何らかの責任を感じているらしい。
見ればたま子もどんよりしている。寝不足と疲れもあるのかもしれないが、何かが気がかりで、心ここにあらずと言った感じだ。
結局、作業が進まないので、昼に解散となった。琥太朗はたま子にその後のことを聞きたかったが、かといって、あの場にいたと打ち明けるわけにもいかない。
仕方ない、研究所に行ってみようか……と思っていると、亀屋小太郎に呼び止められた。一応、笑顔を浮かべている。
「時間あるだろ。うちで昼食べないか?」
「食べたばっかだから、ごはんはいいよ。じゃ一回、家に戻ってから行くね」
亀屋小太郎は「ああ、待ってる」と、念を押すような言葉を付け足した。
「兄やん、関係ないんだから大丈夫だよ。心配性だな」
言いながら腕を叩く。亀屋小太郎は首を振った。
「俺のことじゃないんだよ……」
ソポスを着けた琥太朗は、途端に体が軽くなるのを感じた。嬉しい。勢い余って庭に瞬間移動してしまう。そのまま植え込みを飛び越えて、軽々走り出した。
亀屋金物店の暖簾を潜って呼びかける。
「兄やーん」
「いらっしゃい」
店番をしていた亀屋小太郎の祖母がにこやかに返事をする。
「タロウちゃん、お昼は?」
「食べてきた」
「タロウちゃん、いつも可愛いわねえ」
亀屋小太郎の母親が頬に手を当てて目を細める。
「ほんと天使みたい。うちの子と交換したいわあ」
「兄やんのほうが中身はいいよ」
少なくとも裏表がないから、と胸中で付け足す。
じきに出てきた亀屋小太郎が「おう、こっち」と自室に呼ぶ。
そこに母親が厳しい声をかけた。
「小太郎、タロウちゃんに変なこと、吹き込んだりするんじゃないよ」
「…………」
息子はいくらかむくれて、返事をしなかった。
「どうしたの? おばさん、機嫌が悪い?」
部屋の戸を閉めてから聞く。
「いや……」
亀屋小太郎は困った表情で額に手を当てた。
「ちょっとピリピリしてるんだ。たぶん、どこもそうだと思う、子どものいる家は」
言葉を区切って、続ける。
「菊兄が捕まった」
すぐには反応ができなかった。ぎょっと息を飲む。
「……菊兄が?」
深刻な顔つきで頷く亀屋小太郎。
「昨日……あの後、本当に鷹狩りに行ったんだって。……周一さんは無事だったみたいだけど、菊兄だけ……」
「だけ?」
思わず聞き返す。
「一人だけってこと? 他の人は?」
予想外の質問に戸惑う亀屋小太郎。
「さあ、わかんないけど……」
「たまちゃんは?」
言ってから口を押さえる。なぜたま子の名を挙げるのか。現場に居合わせていたと白状しているようなものだ。
しかし、純朴な〈兄〉は、気遣わしげに頷いた。
「だいぶ心配してる。――いつ出て来られるか、わかんないもんな」
「――菊兄を?」
意外だ。顔見知り以上の関係だったのだろうか。
首を傾げた琥太朗に、亀屋小太郎も首を傾げる。
「菊兄はもう、自分の家に帰ってるよ。一人暮らしのほうじゃなくて、実家のほう。朝から一族が集まって、交代でお説教大会だよ」
「――じゃ、誰の話?」
「茶々に決まってるだろ」
「あ――そうか」
たま子が心配――そちらか。いつ寺子屋に出て来られるかわからない、という意味か。
「でも、あれ? 茶々丸って、鳥居町に住んでるんじゃないっけ?」
「お母さんとね」
「ああ……」
鷹狩りの男性と鳥居町の女性の間に子どもができるのは、ままある話だった。大抵は女性が魔窟に住むことを嫌がって、子どもは鳥居町で育てられる。
「兄やん、知ってたの? 茶々が、そうって……」
自分の親が鷹狩りだと言いたがる子どもはいない。寺子屋でも、家族に関する話題は基本的に出さない。代わりに「同窓生はきょうだい」と教えるのが寺子屋だ。
首を横に振る亀屋小太郎。
「他の子が噂してるのを聞いて、初めて知ったよ。たま子は前から知ってたみたいだけど……」
――だからか。
ニケ党の鷹狩りに参加したのは、被害がどのていどか確認したかったのだろう。ひょっとしたら、その場に茶々丸がいることを心配したのかもしれない。
はあ……、と大きくため息を吐く亀屋小太郎。
「朝、何時に起こされたと思う? 三時だよ。いきなり母さんが部屋に飛び込んできてさ、いるか、いるかって、布団はがされて」
「いるか?」
「俺がいるかってこと。兄さんと一緒に、行ってるんじゃないかって」
「ああ、昨日、会ってたもんね」
「そうだよ。それだけで大目玉だよ。前は仲良くしなさいって言ってたのにさ、今じゃ反対に、口を利いたら同罪くらいの勢いだよ」
「亀屋は絆が強いからね」
再びため息が洩れる。
「そう。みんな仲良いと思ってたんだけど……」
三度目のため息。
「問題が起きたら、途端に兄さんだけを責め始めたんだよ。一方的に『おまえが悪い』、『おまえは一族の面汚しだ』って、全否定だよ。兄さんが何か言おうとしても、全然聞く気がないし。俺……ぞっとしたよ」
心底嫌気が差している風の表情に、いたたまれなくなる琥太朗。
「でも、それなら、怪我とかはなかったんだね?」
「うん。かすり傷一つないみたい」
「ならよかった」
「そうかな……」
日ごろ楽観的な亀屋小太郎が、似合わず虚ろな目をする。次の言葉に詰まる琥太朗。
廊下を歩いてきた足音が、部屋の前で止まった。
「小太郎?」
やや不機嫌な母親の声。
「何?」
戸を開けず、やはり不機嫌に返す息子。
「あの子が来たわよ。――おチカの子」
バン! と勢いよく引き戸を開ける。いつもは温厚な亀屋小太郎らしくなく、母親を睨みつけて店のほうに駆けていく。少しして、たま子と一緒に戻ってきた。
まだその場にいた母親が「小太郎――」と言いかけるのに「うるさいな!」と返して、荒く戸を閉める。
あまりに驚いた琥太朗は、おかしな格好で固まったままだった。
「――すまない」
座布団に座るなり、いきなりたま子が詫びた。顔が強張っている。
「なんで。たま子は悪くないよ。――ごめん、母さんが」
首を振るたま子。
「反応はわかってた。波風立てるとわかってたのに来たんだ。すまない」
「たま子が謝ることじゃないよ。――俺は今回、うちの差別主義がほとほと嫌になったよ」
しばらく無言の間があった。
琥太朗はその間、菓子鉢のぬれ煎餅に熱い視線を送っていた。少し前に存在に気づいてからというもの、目を離そうにも離せなかった。空腹ではないが、満腹でもない。胃に入る余裕のあるときに見ると、我慢するのが辛い。
しかしさすがに今は食べるときではないだろう。袋を開けるのに音が立つし、どうせならゆっくり味わって食べたい。かといって今はぬれ煎餅の、煎餅らしからぬしっとり感と、絶妙な甘じょっぱさを堪能している場合ではない。シリアスな場面なのだ。
……しかしだ、千載一遇のチャンスをみすみす逃すというのも、人としてどうなのか? 叶えられる願いを自ら放棄するというのは、自分自身に対する冒涜ではないか?
そわそわと揺れる膝の辺りから、金色の手の先がニョキニョキと現れ始めていた。
「あ、ほら。タロウ、好きだろ」
気づいた亀屋小太郎が菓子鉢ごと琥太郎に寄せる。
「家にあったから出しといたんだよ」
自分とたま子の分を二つだけ取りながら、いつもの穏やかな笑顔を浮かべる。
「ありがとう、兄やん」
琥太郎は心から礼を言った。
嬉しそうにぬれ煎餅を頬張る琥太郎を、嬉しそうに見つめるたま子。
自分も食べながら「でも、ばあちゃんのがなくなっちゃったから、もらいに行かないとな」と亀屋小太郎が呟く。
亀屋家に居づらさを感じていた三人は、誰からともなく「それなら……」と立ち上がる準備を始めた。
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