裏面編
11 研究所
寺子屋が休みの日、琥太朗は研究所に行く。
道場と呼ばれる広い畳の部屋で一人、ウォーミングアップをして待っていると、頭上の大きなモニターにみち子が現れた。明るい笑顔と高い声は寺子屋で会うときと同じだが、白衣を着て、手にはタブレット型アバカスを持っている。学長の二六歳の娘は、最近ようやくドクターの称号を手に入れたところだった。
「おはよー。調子はどう?」
「すごくいいよ」
琥太朗はシャツにベストにハーフパンツという普段通りの格好だ。左手にはコイン型のチャームがついた革紐のブレスレット。
「でもグラウコンを外すと体が重いんだ。そろそろ筋力トレーニングをさせてくれない?」
「ダーメ。どうせやり始めたら夢中になっちゃうでしょ。あなたは体の成長が遅いんだから、無理させられないわ。心配しなくても、時期がくれば始めるわよ」
「ちぇー」
「ウォーミングアップは済んでるわね? ――どうぞ」
ラフな号令をきっかけに、琥太朗は軽く目を閉じた。ブレスレットには触らない。自然に腕を広げる。
次の瞬間、広い道場の真ん中に浮かんでいた。
別室から観察している研究者たちの間に、軽いどよめきが起きる。
「移動したわね……」
「瞬間移動だ……」
目を開けた琥太朗は、自分の現在地に納得した様子で、ゆっくりと降下した。
みち子がスピーカー越しにしゃべる。
「すごいわね。自分を瞬間移動させられる子は初めて見たわ。――それ、練習してないわよね?」
琥太朗は面倒くさそうに片手を振る。
「してないよ。今ここで初めてやった」
「ならいいんだけど。濫用が懸念される場合は、ソポスを回収することになってるから」
「はいはい、わかってます」
小さいころから散々言われている。研究所の外では、常人とかけ離れた行動をしてはいけないと。
次に琥太朗は金色に輝く星形の星を浮かべてみせたり、花火を打ち上げてみせたりした。観客よろしく、気楽に手を叩いて褒めそやす研究者たち。
「やっぱり、できがいいわね、この子は」
誰かが呟いた一言が琥太朗の胸に引っかかる。
「今日、ほしこさんっている?」
モニター越しに聞く。
「いるわよ。どうして?」
「たまには会いたいなと思って」
アバカスで所在を確認するみち子。
「……いいわよ。一〇分後に所長室に行って」
所長室の場所はいささか変わっている。エレベーターに「所長室」のボタンが出ているときに、それを押すと所長室のある階に着く。それが何階なのかは知りようがない。ときにみち子たちの研究室の隣だったり、別の場所だったりする。部屋の大きさや中身も一定ではない。
「ちわっす」
扉を入りながら、一応の挨拶をする。数週間ぶりに所長を見た瞬間、思わず「太った?」と聞いていた。
「何よ、失礼ね。それが第一声なの?」
書類の積み上がったデスクに、コーヒー片手に軽く腰かけているのは、一見してふつうの中年男性だ。チェックのシャツ、コーデュロイのパンツの上によれた白衣を羽織っている。癖でうねった髪はおそらく無精で伸びたのだろう、無造作に後ろで束ねている。いかにも研究に忙しくて身なりにまで構っている暇がない、という雰囲気。やや違和感を覚えるとすれば、パンツの下がストッキングにパンプス、唇にペールオレンジのリップを塗っている点だろう。
それよりも琥太朗は、腹部だけがぽっこり盛り上がっているのが気になった。もともと細身ではなかったが、この数週間で急成長している。
「そういうお年頃なのよ。ね、姉さん」
一緒についてきたみち子が、勝手知ったる様子でコーヒーを淹れながら言う。「姉さん」はマチの一般的な敬称だ。
「でも、たしかに……」と、改めて自分の上司を見やる。コーヒーを一口飲んでから、笑って琥太朗に言う。
「何年前かしら、初めて見たとき、すごく格好いい人だと思ったのよ。それが所長になって、やけに若くて格好いい所長ができたねって、みんな噂してたのに。それが数年でねえ……」
うるさそうに手を振る星児。
「お説教はたくさんよ」
「姉さん、まだ若いんでしょ。ちょっと老けすぎじゃない?」
「そんな話はけっこう。何の用なの?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
所長だけあって忙しいのだろう、と考えた琥太朗は、早速本題を切り出す。
「俺って〈研究所産〉?」
若き研究者と所長は、無言で一〇歳の少年を見た。きょとんとしている。
「誰かそんなこと言ったの?」
「そうじゃないけど……」
「なんでそう思ったの?」
所長とみち子が口々に問う。
「だって俺……変わってない?」
強気が身上の少年が、ほんの少し言い淀む。
「見た目が?」
「それもあるけど……」
「中身と外見で成長の早さが違うこと? それは……ただの特性よ。別に研究所でどうかしたわけじゃないわ」
「でも俺、研究所で生まれたんでしょ」
「だからって別に、遺伝子操作なんかしてないわよ。……あなたが変わってるのは、生まれつきよ」
真顔で言われて、琥太朗は眉尻を下げる。それはそれで複雑な気分だった。同時に半分、ほっとする。
「じゃあ、俺ってふつうの人間なの?」
「ええ」
明るい笑顔で頷いたのは、みち子だけだった。
「ほしこさん?」
渋い顔で視線を逸らした所長に、鋭く疑問符を投げる。
「まあ、その話は……時期が来たらしましょう」
「それってさあ」
「安心しなさい。あなたは人工の人間じゃないから。その意味では、ふつうの人間よ」
いつかするつもりなら今しても一緒だろう、と琥太朗は思うが、星児に今話す気がないのは明らかだった。しぶしぶ引き下がる。
「すべては成り行きだ……」
低く、呪うような女性の声が背後から届いた。驚いて逃げた拍子にデスクの書類を撒き散らす。
「これ、無作法な。落ち着いて座っておれ」
「ぶ、無作法はどっちだよ」
突然現れたエロスに文句を言う。白地に花柄のドレスという春らしい装いのエロスは、手にクッキーの大きな缶を捧げ持っていた。
「いつからいたのさ、姉さん」
「おぬしより前からいたわ」
「言ってよ」
「茶菓子を用意していたのだ」
言葉通り、クッキーの缶をみち子と星児の間に置く。
「わーい。おいしそー」
細身なわりに大食いなみち子が目を輝かせる。
「早く取らないとなくなるぞ、少年」
自分も椅子に着くエロスを、琥太朗はじっとりした目で見る。
「――なんでいるわけ?」
「ご挨拶だな。おぬしが来るというから待っていたのだ」
「いや、研究所に」
「それは、寺子屋が休みだからだ」
「なんで寺子屋が休みだと、ここにいるの?」
「それはおぬしと同じ理由だな、少年」
「この人もソポス使いってこと?」
声を高くして聞くも、みち子の返事は「知ってるでしょ?」と素っ気ない。
「紹介はされてもらってないよ」
「言わないわよ。ソポスのことは他言無用だって、あなたも承知してるでしょ」
「しかし、持っている者同士はわかる……」
やはり低く無感情に呟くエロス。
「……わからないようでは……」
「そりゃ、わかるけど」と、反抗的に言って、ぼすんと椅子に座った。座り心地はよくない。
あら? という顔をする星児所長。
「仲良くないの? 二人」
「何その、仲良くなって当然、みたいな」
「そう思ってたわ」
「微妙だよ。――姉さんが変わり者すぎて」
「変わり者同士でいいじゃないの」
クッキーを頬張りながらあっけらかんと言うみち子。琥太朗が睨めつける。
「みち子姉さん、わざとこの人を俺と同じチームにした?」
「寺子屋の? 知らないわよ。エロスが自分で判断したのよねえ」
無表情に頷くエロス。
その人形めいた顔をしばらくじっとりと見た後、ベールをめくるように聞く。
「ねえ、この人って……〈研究所産〉?」
「違うわよ」
所長が即答する。
「じゃあ、ふつうの人?」
「それも違うわね」
先ほどと違い、所長と研究者は顔を見合わせて「ふふふ」と嬉しそうに笑った。
「ええ? じゃあ、何? ――俺と同じ、何か?」
「いいえ。あなたや私たちとは根本的に違うわ。――根本的に違う、ヒトよ」
自慢げに笑んで、強く言い切る。
「根本的に違う――ヒト?」
それは、〈研究所産〉ではないのか。
いぶかる少年に、ドクター二人はさらににやける。
「この子はね――まだ世界に数人しかいないアントロポスの一人なの」
「アン……?」
初めて聞く単語だった。しかしその響きにはっとする。衝撃と驚きの眼差しをエロスに向ける。
「…………エンケパロス?」
「いいえ」
強く否定したのは所長だ。
「エンケパロスはただの機械でしょ。この子はゼウスが創った、新しい人間よ。いい? 新しい、ニンゲン。それ以上でもそれ以下でもないわ」
「…………」
明るい表情のドクターたちに、議論を受けつける気はなさそうだった。言葉を飲み込み、「ああそう」とだけ呟く。
その新しいニンゲンとやらを視線で撫でる。いつも共通してつけているのは、ポニーテールを結んだリボン、イヤリング、胸元のブローチ、左手中指の指輪――。
やけに幅のある指輪は、最初から気になっていた。
「ねえ、姉さんのソポスは何て名前?」
「教えるはずないだろう」
「名前くらい、いいでしょ」
ふん、とエロスが息を吐く。小馬鹿にした顔つき。
「そなたのは、そのブレスレットだな」
言い当てられてドキッとする。他人に悟られないよう、小さいときからずっと気をつけていたのに。
続けて左手を見せる少女。
「ちなみにこの指輪は違うぞ。これは――アントロポスの印のようなものだ。機能は特にない」
不貞腐れる琥太朗。
「そなたの長所は、同年代と比べては賢いことだ。欠点は、自分を過信していることだな。寺子屋の子どものなかで一番賢いくらいで自惚れているのが、何とも子どもらしい」
弁護を求めて大人に目をやる。しかしみち子も星児も、にこにこと二人を見ているだけだった。
「帰る」
くだらない、とばかりにさっさと立ち上がる琥太朗。ふと思いついて星児に聞く。
「ねえ、ゼウスって今も生きてるの?」
「やあねえ、生きてたらとんでもない
「ふうん」
どこまで信じていいのか、わかったものではない。
琥太朗が部屋を出ると、なぜかエロスもついてきた。エレベーターまで並んで歩く。
「ショックだな。姉さんがふつうの人間じゃないなんて」
何となく騙された気分の琥太朗は、率直に不快感をぶつけた。
突然そんなことを言われて、エロスのほうも唇を尖らせる。
「ふん、私をロボットだと思うんだろう。構わんがな、おぬしのために言ってやる。それは浅はかな考えだ」
「どうしてさ」
「おまえ、自分の母親がロボットかどうかを疑ったことがあるか?」
「は? ないよ」
「なぜ」
「なぜ? ――だって、そんなはずないもん。俺を生んだんだから、ロボットのはずがない」
「なんでおまえは母親がおまえを生んだと知っているんだ? 生まれたときのことを覚えているのか?」
「そんなことないけど――」
「なら、人から聞いただけだろう」
「――まあ、そうだね」
「母親がおまえを生んだというのも、私がアントロポスだというのも、どっちも人から聞いた話だ」
「まあね」
「おまえがふつうの人間だということも」
「――まあ」
「でもおまえ、疑っただろう。誰に言われたわけでもないのに、自分は〈研究所産〉かもしれないと」
「――――」
「疑おうと思えばできる。母親が本当はロボットかもしれない、と。可能性は否定できない」
「できるよ。前に指切って血が出てるの見たもん」
「ほう。私も血ぐらい出るがな。自然治癒もする」
「……作り物と本物じゃ違う」
「しかし見分けはつくまい。おまえがふつうの人間だと思っている人間が実はロボットでも」
「…………」
「私だけが異物だと思うから気に障るんだ。実はおまえの信じる世界が、おまえが考えている通りだとは限らないのに。失望の裏には期待があるんだ。己が抱く無根拠で身勝手な期待が」
「…………はーぁ」
突き当たりで立ち止まる。大袈裟にため息をつきながら、作り物めいた美貌と向かい合う。
「だから何?」
不機嫌さを隠さない琥太朗。ぴくっと眉を震わせるエロス。
「おまえのほうから喧嘩を売ってきたんだろうが」
チン、と鳴ってエレベーターのドアが開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます