9 草原

 ひとまず元通りになった一行は、改めて脱出口を探した。

「あの」と最初に発したのは、いずみだ。

「あそこに、あの……」と天上を指差す。他の子たちがふざけている間に見つけたらしい。

「あれ……木?」

「桜の木に見えるな」

 それは彼らとおよそ一八〇度反対のところにあった。そのため幹はほとんど見えない。桜の木を真上から見たような状態だ。

「よし、あれを目指そう。……どっちから行く?」

 リーダーが聞くと、見事に全員が違う方向を指した。

「なんでだよ」と、元気を取り戻した茶々丸が琥太朗に食ってかかる。「そっちじゃ遠回りだろ」

 言われて真剣に驚く琥太朗。「はあ? そんなことないよ」

「あるよ、なんでわざわざ逆方向に行くんだよ」

「逆? 逆じゃないよ」

「逆じゃないかもしれないけど、上るのが面倒だな」と、亀屋小太郎がおっとり、茶々丸のほうに荷担した。

 これにたま子がむっとする。

「何言ってんだ、亀。上るも何も、全部一緒だろうが」

「そうかな。こっちのほうが平らな気がしない?」

「しない。錯覚だ」

「いーや、こっちは下りだから、こっちのほうが楽だね。コタロウのだと上りだから!」と茶々丸。

「どうして。真上に行くんだから、どっちからでも上りでしょ?」

「真上じゃなくて真下に行くと思えば、どっちからでも下りだな」

 ――喧喧諤諤の末、たま子が決めた「横」からに決着した。


 それぞれのイメージに反して、道のりはごく平坦だった。遠くは弧を描いて見えるのに、足元は平らでしかない。上りも下りも、意識させられることはなかった。

 距離にして三〇度ほど進んだところで、亀屋小太郎が何かに躓いた。勢いよく草むらにダイブする。

「うお、亀兄、今すごいきれいに飛んだよ! 芸術加点!」

「褒めなくていい。着地に失敗したから減点だ。――亀、大丈夫か」

 大丈夫ではなかった。よほど硬い物にぶつかったらしく、右足を抱えて悶絶している。

「何に躓いたんだ?」

 たま子が覗き込む。一見して大きな石のような物がそこにあった。

「あ!」

 側面を見た琥太朗が飛び上がる。

「これ……胴体!」

「は?」

「やれやれ、突飛なことを言うな、少年。断面の次は胴体か」

「と、突飛って、姉さんに言われたくないよ……。嘘じゃないし。ほら、見てよ」

 筋肉と血管が複雑に絡み合うような断面を上に向ける。動物の体にしては組織がカラフルで、生々しさがない。

「エンケパロスのだ!」

 茶々丸が嬉しそうに叫んだ。

「ああ……」と了解するたま子。「ここに来てたのか……」

 石のように見えた滑らかな面は、人工の肌の部分だった。そう思えば肋骨と鳩尾みぞおちの形に見えてくる。メイド服らしき断片もそばに落ちていた。〈ぐるぐる〉にぶつかって部分移動してきたものに違いない。

 琥太朗はそれらを自分のリュックにしまった。

「重くない?」と、いずみが心配そうに聞く。

「全然。楽勝」

「……コタロウくんて、力持ちだよね。見た目と違って」

 褒めるのではなく不思議そうないずみ。琥太朗は返事を保留した。リュックのベルトを握る手に、革紐のブレスレットが揺れる。

 亀屋小太郎の回復を待って、再度歩き出す一行。しばらく行くと、どこからか猫の鳴き声が聞こえてきた。

「へー、こんなところにも野良猫がいるとはね」

「なんで野良って決めつけるんだ。勝手に入り込むような場所じゃないだろ」

「猫かどうかもわからないしね」

「そうだな、姿が見えないと……」

「おいでー、猫ちゃーん」

「よせ、猫じゃなかったらどうするんだ」

「人の言葉がわかるんなら、それは猫じゃないな」

 他愛のない会話を聞き流して、亀屋小太郎は猫の声に耳をそばだてていた。

「この声……」

「どうした、亀?」

「……知ってる気がする……」

 もうしばらく進むと、より声がはっきりした。

「ニャーン」

 草の上に、灰色の可愛い猫の頭があった。

「あ、やっぱり!」と駆け出す亀屋小太郎。「次郎吉おじさんとこのハナ!」

「あ、兄やん――」

 言いかけてやめる。わざわざ教えなくてもわかっているだろう。先ほどのエンケパロスの胴体、そして今回の猫。頭しか見えないのは、体が草に隠れているわけではなく……。

「ぎゃー! なんだこれ!」

 放り投げられた猫の頭が宙を舞った。

「言えばよかった……」

「あわわわ……ハナ!」

 我に返り、慌ててそこらを探す。

「ニャー」

 幸い、無傷で見つかった。猫本人は首だけになっていることに苦痛を感じている様子がない。

「ほう、体のない猫か。珍しいな」

 エロスの一言を冗談と捉えて笑う一同。琥太朗はそっと耳打ちする。

「姉さん、これ〈研究所産〉とかじゃないから」

 はっとするエロス。「ハッ」と口に出す。

「きっと、おじさんとこにいるハナは、体だけなんだろうね」

「そ、そうだ、タロウ! 早く持ってってやらないと」

 悲劇に気づいて焦り出す亀屋小太郎。上着のポケットに小さな首をしまい、桜の木に急ぐ。後を追う一同。

「また転ぶぞ、気をつけろ、亀」

 言い終わらないうちに、再びダイブした。

「ほーら」と呆れるたま子。

「いや、今のはおぬしが悪い」とエロス。たま子が心外そうな顔をする。

「ボクが? なんで?」

「言霊というのを知らんのか」

「――ボクが転ぶって言ったから、それが実現した?」

「そうだ」

 たま子はドレスの美少女をしげしげと見た。

「エロスって、そういうのを信じるタイプ? それとも冗談?」

「冗談などではない。信じるも何も、現に今そうなったではないか」

「いや、偶然でしょ」

 エロスは小馬鹿にした表情で「ふん」と鼻を鳴らす。

「――まあ、それが偶然だと思うなら、それがその者にとっての真実だな。あえて否定はしまい」

「――エロスって、難しい言い方するよね。頭いいの? それとも格好つけてるだけ?」

 この会話に険悪な雰囲気を感じて焦ったのがいずみだ。口論に発展する前に止めようと、無言のまま二人の間に割り込む。

 気づいたエロスが、咄嗟に身を避けながら「触るな」と鋭く叱った。びくっとして首を竦めるいずみ。む、と眉をつり上げるたま子。

「怒鳴らなくていいだろ。言えばわかる。犬の子じゃないんだから」

「怒鳴ったつもりはない。驚いただけだ」

「驚いたからって――。なんで、触っちゃいけないのさ」

「気を悪くさせたならすまない。ドレスを汚すと困るのでな、つい」

「遠出するってわかってるのに、なんでそんな格好で来るんだよ」

「ポリシーだ。服装に関しては、他人にとやかく言うつもりもないし、言われる筋合いもないと思っている」

「そうだけど――だったら、汚れても自分のせいだろ。ちょっと触ったぐらいで……」

「すまない。小さい子が苦手なんだ。過去に嫌な思い出があって、それを反射的に思い出してしまった。彼に非があるわけではない。失礼した」

 エロスはやたらと理屈めいたことを、すらすらと無感情に口にする。対照的に感情をエスカレートさせるたま子。

「小さい子が苦手なら、なんでコタロウには……」

 憎々しげに呟く。

「うん?」と相手にしない様子のエロスに、いよいよ腹を立てる。

「コタロウにはずいぶんと馴れ馴れしいじゃないか」

「そんなことはない。ふつうだ」

「どこが? みんなもう噂してるぞ。おまえとコタロウは仲が良いって」

「揚げ足を取るようで悪いが、みんなというのは誰だ? おぬしの主観ではないのか?」

 赤くなるたま子。

「――寺子屋のみんなだよ」

「この性格なのでな。気の弱い子には避けられる。あれは気が強いから……それだけのことだろう?」

 他意のないエロスの表情に、納得半分、疑い半分のたま子。半分だけ眉を上げて口を尖らせる。

 琥太朗は二人の後ろについて様子を窺っていた。間で、いずみが開く口もなくおろおろしている。

 その仕草が小動物のようで可愛らしいと思い、ふと、いずみのキノコ頭に手を伸ばした。

 触れた瞬間、世界に異変が生じた。

「――なんだ?」

 全員が頭上を見上げる。急に辺りが翳ったのだ。

 エロスはそのとき、いずみと琥太朗の両方がすぐ後ろにいることに気づいた。琥太朗を睨んで「チッ」と舌打ちする。

「なんで太陽もないのに曇るんだ?」

「――言ってて変だと思わない? 亀兄」

 のんびり話している余裕はなかった。曇ったと思うとすぐに日没の暗さになった。これではじきに真っ暗だろう。

「走れ」

 桜の木がゴールだという保証はない。しかしたま子には別の選択肢もなかった。一同を急がせる。

 進むごとに辺りは暗くなり、どこからか吹き始めた風が強くなってきた。一面の草がざわざわ言う音も大きくなってくる。

 最初は遠くで「ピュー」と聞こえた。じきに「ウォー」と唸る音になり、それが「オーィ」という男の低い声になった。

「――なんだ? 人?」

「振り向くな。走れ」

 琥太朗はほんのちらっとだけ後ろを見た。ほとんど闇の中、草の上に人影らしきものが立っていた。それも大勢。背が低く横幅の広いやや不格好な人影が、横一列に並んでこちらを見ている。

「おーぃ……」

「おーーい……」

「おーーーいぃ……」

 風の音だったものが、今や完全に人の呼び声になっていた。

「なんか、近づいてない?」

 茶々丸が震える声でそう呟いたとき、すぐ後ろで「どんッ」と聞こえた。まるで人間の重さの物体が遠くから飛んで着地したかのように。

「振り向くな!」

 たま子が叫ぶ。

 ――幻だ。

 胸の内で唱える琥太朗。動揺してはいけない。あれが実体のはずがない。そして自分は、こういう状況に慣れている。

 ――大丈夫。

 左手首のブレスレットをやさしく撫でる。

 ――怖いと感じるものは全部幻なんだから。

 と、そのとき、すぐ前にいたいずみが転んだ。助けるつもりが、一緒に転がる琥太朗。

 わあッ、と弾けるようにいずみが泣き出した。もうほとんど視界が利かない。たま子の位置からでは二人は見えないだろう。

「どうした?」

 たま子の声。返事をしようとする。

 しかし声が出なかった。喉と口を、硬い大きな手に押さえられていた。

 いずみの泣き声も止まった。おそらく同じ状態。

「どうした? ――いずみ?」

 再びたま子の声。

 返事がなければ異変に気づいてもらえる――という期待は一瞬で消えた。

「――ダイジョウブダヨ、ネエサン」

 いずみによく似た声だった。

「いずみ? 無事なのか?」

「――ウン、ヘイキ」

 草の上を足音が移動する。ペタペタペタ……。いずみのスニーカーの足音とは違う。それよりも小さくて、裸足のような。

「コタロウは? いるよな?」

「――シンパイナイヨ、タマチャン」

 すぐ隣から聞こえた。ペタペタペタ……。やはり同じ足音が移動していく。

「大丈夫だな。よし――」

 微かに見えるたま子のシルエットと足音が遠ざかっていく。その後を小さな人影が追う。頭が左右に大きく揺れる、奇妙な影。

 体を押さえる生暖かい感触は、頭や背中にも広がっていた。重い。大柄な大人にのしかかられているようだ。耳にヒュー、ヒューと吐く息がかかる。

 ――怖いと思っちゃダメだ。

 琥太朗は先ほどから必死にそれを念じていた。怖いと思ってはいけない。思えば――とんでもないことになる。

「――コワイ、コワイヨ……」

 細く高い、子どもめいた奇妙な声が聞こえる。

 ――煽ろうとしても無駄だ。こんなものは少しも怖くない。

 近くでいずみの気配を感じた。必死に格闘している。もがく手が琥太朗の膝を叩く。

「コワイヨォ、タスケテェ……」

 瞬間、声が大きくはっきりした。と思うと――

「コワイ、コワイヨ……」

「タスケテ、シンジャウ……」

「コロサレル……コロサレルヨォ……」

 数が増えた。ざわざわと草を踏んで集まってくる何か。囲まれている。

 ――まずい。

 エロスの警告を思い出す。

『あの子どもに触るな』

『あの子どもは怯えている』

『触ったらまずいことになる』

 やっとわかった。触って、まずいことになった今。

 塞がれていない鼻で深呼吸をする。胸の鼓動を感じる。いくらか速い。

 ――大丈夫。少し焦ったのは、原因がわからなかったから。今はわかったから大丈夫。

 琥太朗は心拍数を意識的に遅くした。小さいころから研究所で受けている訓練の一つだ。速やかに瞑想状態に入る。そして、右手で左手のブレスレットを触った。


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