8 次元の扉
「――ドア?」
黒い何かを前にした一行は、一様に首を捻った。
正面から見ると、縦に長いかまぼこ形をしている。大人の身長ほどの高さで、何かの入り口のようだ。真っ黒で、その黒さは底知れぬ深い闇に見えた。それだけならトンネルに近い。
しかし横に回ると、そこに厚みはなかった。薄い板というのでもない、鉛筆でスッと引いたくらいの存在感の薄い線があるだけである。
「物体」とは思えない。それがくっきりと地面に立っている。
「〈ぐるぐるさん〉みたいなものか」とたま子が顎を撫でながら言う。「あれも角度が変わると見えないんだろう?」
「違うよ、姉さん、〈ぐるぐるさん〉はあ、横から見ても後ろから見ても同じなんだよ」
ねっとりした嫌みな口調で茶々丸が応じる。
「そうなの?」と呟いたいずみに、亀屋小太郎が「見たことある?」と聞く。
「うーん……まだ」
素直に「ない」とは言いにくいらしい。
「兄やんはある?」と琥太朗。
「うーん、それっぽいのを、遠目に見たことはあるけど……」
「それ本当に〈ぐるぐるさん〉ですかあ?」
茶々丸の小馬鹿にした言い方にかまわず、たま子が「どこで?」と質問を重ねる。
「寺子屋の敷地内だよ。裏の、事務所のあたり。一回だけだけど」
「なんで遠目にそれが〈ぐるぐるさん〉だとわかったんです?」
「だって、やけに大きかったから。事務所の屋根と同じくらいあったんじゃないかな。一瞬だからよく見てないけど、変な人影がいるなと思って、もう一度見たら消えてたんだよね」
茶々丸が吹き出す。「それ本当に見たって思ってるんですかあ? 見たことがあるって思いたいだけじゃなくって?」
亀屋小太郎がうるさそうに見る。文句に口を開く隙を与えず、たま子が肯定する。
「まあ、人の話を総合すると、だいたいそんな感じだよな。大きい、人の形、もう一度見ると消える……」
「姉さんはあります?」
「ボクか……。ボクは、見ている人を見たことがある。……と思う」
「はい? なんですって?」
たま子は思い出すように一瞬黙った。
「……道で通りかかったんだ。ボクの前に、道路の真ん中で突っ立ってる人がいた。その人は、軒先くらいの高さのところをじっと見つめて、何か考えているような、怒っているような顔をしていた。視線の先に何かあるのかと思って見上げたんだけど、何もわからなかった。……ボクは変な人かもしれないと思って、横を通るのをためらって、しばらくその場にいたんだ。でもその人はずっとそのまんまだった。まるで何かと睨み合ってるみたいに、じっと同じところを見てて。……こっちに気づいてる風はなかった。結局横を通ったんだけど、別にボクには何もなかったよ。行きすぎてから振り返っても、そのまんまだった。で、気になってもう一度振り返ったら、いなくなってたんだ。忽然と。ボクはなんとなく『負けたんだな』と思った」
飾り気のない口調に真実味を覚えて黙る一同。
重くなった空気を払拭しようと、亀屋小太郎が考えなしに口を開く。
「それってでも、変なのを見たわけじゃないんだよね。その人が消えたのも、単に移動しただけかもしれないし……ねえ」
「でも、見えないって怖いな。自分は必死に戦ってるのに、周りの人には見えもしないって。助けてもらえる可能性すらない」
急に真剣な口調で呟く茶々丸。いずみの顔色が青くなる。
「今はそれよりこっちだろ」
はっきりした声でエロスが話を戻した。「ああ」と黒い空間を見る一同。
「……出口、っぽくない?」
誰からともなく囁き合う。しかし当然、飛び込んでみようという無鉄砲はいない。
「ドアの形をしてるだけで、通っても素通りするんじゃない? もしくはぶつかって跳ね返されるとか」
にやけた口調を復活させて茶々丸が言う。
「そうだな」
エロスが頷く。と同時に、茶々丸の背中を強く押した。一メートルほども飛んで、茶々丸は黒い空間に消えた。
「おい!」「ちょっと!」と驚嘆の叫び声が上がる。一番おとなしいいずみでさえ「何やってんの!?」と叫んだ。
本気か演技か、きょとんとするエロス。
「言ってただろ、痛い目にあいたいって。絶好の機会じゃないか」
額に手を当てて空を仰ぐ亀屋小太郎。
「お化けに、っていう部分を忘れてない?」と呆れ顔のたま子。
琥太朗はすぐさまドアの後ろを覗き込んだ。一拍の間を置いて「ん?」と発し、さらに一拍後に「うげ」と漏らす。
「な、何? どうした?」
慌てる亀屋小太郎。
しっかり者の〈弟〉は素早く「来ないで」と制した。「ちょっと……気持ち悪い、かも」
「え、え? 何? どうなった?」
「コタロウが言うんじゃ、よっぽどだな……」
心持ち顔色を悪くするたま子。
「ネズミのミイラを下駄箱に入れられても、顔色一つ変えなかったあいつが……」
それを聞いて笑い出す亀屋小太郎。
「そうそう、いたずらした犯人の口にそれを押し込もうとして、逆にタロウのほうが先生に叱られたんだよね。相手大泣きで、他の子もどん引きでさ」
「あれであいつの本性がバレたんだ……」
「あれから、年少の子がタロウに近寄らなくなったよな。それまでちやほやしてたのに」
保護者よろしく思い出話に浸る年長二人。
「ん?」と屈み込む琥太朗。「動いてる……」
振り向いて他の子たちを呼ぶ。
「来ていいよ。多分――生きてる」
「待て。どういう状態なんだ? 本当にボクたちが見ても卒倒しないレベルか?」
「どういうっていうと……断面、だね」
「何?」
「断面になってる」
顔を見合わせるたま子たち。
「……意味がわからないんだけど」
「茶々丸が、スライスされて地面に落ちてる。真ん中の部分だけ。あ、輪切りじゃなくて、縦にね。だから……脳味噌とか内臓とか血管とか骨とか全部見えてる」
聞いただけで、いずみがしゃがみ込んだ。
「あ、血は出てないよ。組織も損傷してないし、脈打ってて、生きた標本みたいな」
そのとき、覚えのある声で「えー、何?」と聞こえた。琥太朗が驚く。
「茶々丸? 聞こえてるの?」
「……うーん? ……聞こえてる……でも何か、頭がぼんやりする……」
「頭? 頭って、どこにある?」
「……えー? 何言ってんの? ……あれ、でも……」
少し間があって、問いかける。
「なんか変だな……俺、どうなってる?」
「断面になってる」
「……何? 何になってるって?」
「断面になってる」
「……何?」
「断面」
「なんだこの不毛な会話は」
眉を顰めたたま子がまず向かった。琥太朗と同じ場所を見て「うげ」と漏らす。
余計に怖じ気づいた亀屋小太郎は、引け腰で「どうした?」と聞くばかりで一歩も近づけない。
たま子が答える。「まあ、おまえは見ないほうがいいな」
続いてエロスが見に行く。片眉を上げたと思うと「ほう」と感心する。
「若いだけあって、さすがにきれいな内臓だな。標本としてはモデル級だぞ」
しかし今の茶々丸に冗談が通じる気配はない。「何? 何の話?」とやや不機嫌だ。
「おまえはここで待ってろ」といずみに言いおき、意を決して見に行く亀屋小太郎。ドアの向こうを覗き込んだ途端、貧血を起こしてへたり込む。
「だから、なんで来るんだ。いいって言ったのに」
たま子が迷惑そうな顔をする。何か言い返そうとした亀屋小太郎だが、口を押さえていて声にはならなかった。
「おまえ、アニメが好きなんだな?」
突然、エロスが断面に質問した。
「えー? ……うん……。それが?」
「よかったじゃないか、二次元の世界に行けて」
意地悪く言うのに対して、琥太朗とたま子が反論する。
「行けてっていうより、なれてだね」
「このパターンは期待してないだろうなあ」
無視してエロスが提案する。
「ちょっと突っついてみないか?」
「どこ? この辺?」
琥太朗はあばら骨を、ちょん、と突っついた。
「うわ!?」と反応がある。
「ここはなんだろう?」
腹部にある空洞をたま子が指差す。
「胃だな」「胃じゃない?」と二人。
「……なんで空洞?」
「ああ、たまちゃん、これ、スライスだからだよ。半分に切ったところじゃなくて、縦にうす~くスライスしたうちの一枚。それ以外のところは見えないんだよ」
「そうか、スライスか」
一応頷くものの、あまりピンと来ていない様子。
「うん?」と茶々丸の声。「あー、これ……ひょっとして、人?」
茶々丸の頭の部分がエロスの足の近くに寄っていた。
「何か見えるの?」と琥太朗が聞く。
「……線が見える。周りのは短いけど、これだけ長い。さっき動いたし」
エロスは一旦足を上げて、また同じ場所に下ろした。
「あ、消え……て、また出た」
「ちなみにボクたちは見えてる?」
「誰? たま子姉さん? 声は聞こえるけど……見えるのは短い線ばっかだよ。短い線がそこらじゅうにある」
「短い線?」
「たぶん、草のことだよ」と琥太朗。茶々丸の断面は草原に横たわっている。
「なるほど。茶々、上は見えないか?」
「上? 上ってどこ?」
「ボクたちはおまえを囲むように立っているんだけど」
「わかんないよ。見えない。上がどこだかわかんない」
ふうん、と息を吐くたま子。「こっちは見えないんだな」
「こっちは三次元だからな」とエロス。感情のない瞳をたま子に向ける。
「そなたも二次元に行きたいか……?」
たま子は答える代わりに、スッとドアから遠退いた。
エロスは次いで琥太朗に視線を向ける。
「少年、大きくなりたいだろう」
「……なんで断言?」
「おぬしが小さいからだ」
「気にしてません。けっこうです。あと、失礼だ」
「無理をするな。その入り口を潜ってみよ。きっと新たな世界が開けるぞよ」
エロスが指したのは、茶々丸が入った側ではなく出た側だった。
軽い好奇心を浮かべるたま子。「こっち側から入ると……?」
「次元が上がる、おそらく」
「四次元の俺……って、どんな?」
首を傾げる琥太朗に、エロスは足元を指して見せる。
「三次元の我々が二次元化すると、こうなる。体の一部が薄い線状に残るだけだな。ここから『四次元の我々が三次元化した場合』が導き出せる」
「四次元の我々が……?」
たま子と琥太朗が同時に眉を顰める。
「どゆこと?」
「だからだな、我々はすでに四次元の存在の一部である、と考えるんだ。真ん中だか端っこだかわからないが、とにかく我々こそがスライスされたうちの一枚だ、と」
「そしたら、連続する他のスライスがたくさんあるってことにならない?」
「なる。スライスというよりマトリョーシカかもしれない。だから言ってるんだ。大きくなれる、と」
「大きくなりすぎだよ」
一笑に付した琥太朗と対照的に、たま子は顎に手を当てて考え込んだ。やがて「想像できないな」と渋い顔をする。
「想像するまでもない。扉を潜るだけだ」
エロスが琥太朗を促す。
「潜るのは俺じゃないよ」
言って琥太朗は茶々丸の平たい体を押し込んだ。反対側から無事、元通りの三次元茶々丸が出てくる。
「おお、おかえり」
ほっとした様子で亀屋小太郎が声をかける。茶々丸はしばらく上の空でいたが、じきに目の焦点が合った。辺りを見回す。
「あれ……? なんか……あれ?」
狐につままれたような顔をしている。たま子がぽんと肩を叩く。
「お疲れ」
茶々丸はさらに不思議そうな顔をした。
「……何が?」
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