7 丸い地面

「痛った――くない」

 バランスを崩して地面に崩れ落ちた琥太朗は、呟きながら顔を上げた。すぐに状況を確認する。

「――え?」

 通常、〈ぐるぐる〉に飛ばされるのはごく近距離だ。〈ぐるぐるさん〉にしても、マチの中だけの移動が多い。

 しかしそこは、琥太朗が見たことのない場所だった。そしておそらく誰も。

「とうッ」

 一瞬遅れて背丈ほどの高さから現れたエロスが、ドレスの裾と長いポニーテールを揺らして軽やかに着地した。

「ん、なんだここは」

 見回すうちに他の子たちも現れる。亀屋小太郎、たま子、いずみ……。一人足りない。

「なんでおまえたちも来るんだ」

 呆れた口調のエロス。

「な、なんでって、そんな……」

 べしゃッと落ちた亀屋小太郎が、体を起こしながら切なそうに抗弁する。

 下は草原だった。背の低い草が一面に生えており、地面が柔らかく、落ちた衝撃はほとんどない。

「……なんだ、ここ……」

 呆然と呟くたま子の声に、亀屋小太郎も見上げる。思わず呻く。

「……ぇえ?」

 見渡す限りの草原――足元から続くそれは、地平線があるべき場所も越えて、空までも埋め尽くしていた。つまり全方向が、地面だった。

「……くらくらする……」

 一旦は立ち上がったいずみが崩れ落ちる。全員『地面』に足がついてはいるものの、なんとなく重力の薄さを感じた。妙に体が軽いのと同時に、ふわふわとどこかへ行ってしまいそうな不安定感。

「ここって、研究所の施設かな」

 冷静に琥太朗が推測する。

「研究所? ……な、なんの研究?」

 研究所とは縁のない亀屋小太郎が怖じけて聞く。当然、琥太朗にも正解はわからない。適当に答える。

「まあ……遠心力とか?」

「ああ、これが球体で、回転しているというわけか」

 すぐに応じたのはエロスだ。他の子たちは理科が得意でないらしく、ピンとこない顔をする。

「なんか重力が軽い気がするし……。でもこんなに大きな施設はないか、さすがに」

 見た感じ、直径一キロメートルくらいはありそうだ。

「どうかな。何かトリックがあって、大きく見えているだけかもしれん――」

 エロスの言葉尻と重なって、もう一人が空中から現れた。頭から地面に落ちる。

「茶々!」

 たま子と亀屋小太郎が駆け寄る。

「痛てて……」

 首をさすりながら起き上がる茶々丸。大事はなさそうだと判断した亀屋小太郎が皮肉を言う。

「なんだよ、自分だけは逃げる奴だと思ったのに」

 当たり前のように肯定する茶々丸。

「もちろんそのつもりでしたよ。巻き込まれるなんて大損だ。なのに、姉さんにぶつかられて――」

 言いながら視線を巡らし、気づいて顔を引きつらせる。

「――何ここ――」

 黙ったのも束の間、不安を吐き出すようにしゃべり出す。

「気持ち悪ッ。何これ、どうなってんの? なんで地面が上までつながってんの? なんで落ちてこないの? つーか、どっちが上? ひょっとして、こっちが空?」

「それ面白いな」

 たま子が冷静に頷く。

 落ち着きなくキョロキョロしていたいずみが、琥太朗のシャツを引っ張る。

「あ、あれ……」

 いずみが指差したのは、左四五度くらいの位置にある、黒い何かだった。

「ああ、なんかあるね。……とりあえず行ってみる?」

 指示を仰ごうとリーダーを見る。

 たま子はそのとき真上を見上げて、長い手を片方、頭上に伸ばしていた。

「こう重力が軽いと……ジャンプしたら向こうに行ける気が……」

 手放してしまった風船を追いかける子どものようにピョンピョン飛び跳ねる。

「……気がするだけだった」

 諦めた。


 黒い何かに向かって一行が歩き始めたところで、エロスが琥太朗に寄った。小声で警告する。

「あの子どもに触るな」

「誰? いずみ? ――なんで? 指図受ける筋合いないんだけど」

「そう怒るな。あの子どもが悪いとは言っていない。おぬしが触るとまずいことになりそうだからだ」

「――触るって何? 物理的にってこと? なんで?」

「あの子どもは怯えている」

「え?」

 だからどうだと言うのか、と問う前に問題が生じた。真っ先に悲鳴を上げたのは、一番後ろにいた茶々丸だった。

 正面を見上げる。高さ五メートルはありそうな人の形の影が、目の前に立ちはだかっていた。足元は霞のように薄ぼんやりしていて、上にいくほど濃い。

「ヒャッ……」

 衝撃のあまり倒れかけたいずみを琥太朗が支える。

「触るな」

 小さく怒鳴ったエロスを無視する。亀屋小太郎が年少組を気遣って駆け寄った。

 人の形の影は、薄いグレーからはっきりした黒へと変化していく。大きさも見る間に巨大化し、頭部とおぼしい場所には目と口に見える穴が空いた。

「うわー……〈神殿〉より大きい、かな」

 研究所で見せられる様々な幻に慣れている琥太朗は、これもその一つだろうと慌てなかった。

 他の子たちは違う。後ろではパニックになって逃げようとした茶々丸をたま子が必死に押さえているようだし、庇うように肩を抱く亀屋小太郎は「大丈夫だから、大丈夫だから」と念仏のように唱えている。いずみは両手で顔を押さえて震えている。

 影の目とおぼしい白い穴が子どもたちを捉えた。口は半笑いの形だ。影はじっくりと子どもたちを見た。関節のない体をぐにっと曲げ、頭上から覆い被さるように顔を近づける。

 悲鳴が上がり、地面にしゃがみこむ一行。琥太朗も、いずみと亀屋小太郎に引っ張られて尻餅をついた。

 立っているのはエロスだけだ。影は、少女の額のわずか一〇センチほどにまで近づいた。半笑いの口は、少女を飲み込めるほどに大きい。一同からさらに恐怖の声が上がる。

「ふう……」

 一瞬振り返ったエロスは、腰に手を当ててため息をついた。妙にわざとらしいため息だった。艶やかな黒髪のポニーテールを片手でさらりと払う。ちらりと光るイヤリング。

「やれやれじゃのう……。まさかこんなに早く、わらわの出番がくるとは……」

 いつもより色っぽく聞こえる声に、一同が顔を上げる。

「実はわらわは、このために派遣されてきたのじゃ……」

 状況がつかめずぽかんとする一同の前で、少女は優美なレースのついた袖を閃かしながら、左手をピースサインの形にして、その端正な目元に当てた。

「愛と正義の美少女戦士――ここに見参!」

 かっこよく言い切る。

 ぽかんに驚きが加わって口と目が大きく開く亀屋小太郎、「はあぁぁッ」と感動と興奮の声を上げる茶々丸、たま子、「え? え?」と、ひたすら戸惑ういずみ。

 数秒の間をおいて、琥太朗が突っ込んだ。

「――嘘だよね?」

「言ってみただけだ」

 ポーズを戻しながら認めるエロス。すでに普段のしゃべり方に戻っている。

「えええ!?」

 動揺と期待に振り回された一同は、反動で脱力した。

「真に受けるか、フツー」

 やや不機嫌に、馬鹿にした態度でエロスが言う。

「まさかこの状況で冗談言うと思わないよ!」とたま子。

「それはそなたの想像力の乏しさが原因だな。――人生、いつ何が起こっても不思議ではないのだ」

「もっともだけど、今言うことじゃないね」

 呆れる琥太朗の横で、ほっとしたのか気が抜けたのか、いずみが口を開けて笑った。

「――いまのうちだな」

 エロスの翼ある言葉にはっとする一同。

 影が消えている。

 急いで立ち上がりながら、亀屋小太郎が笑い混じりに言った。

「魔法で倒したとか? 美少女戦士」

「何を言う、あんなのはただのまやかしだ。怖いと思うものは、なんでも幻なんだ。倒すまでもない、ただ見つめればいいだけだ」

 言いながら横目でいずみを見る。今のところは怯えていない。

 やがて一行は、黒い何かに到着した。

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