6 〈神殿〉
一階、二階、三階は、琥太朗にとっては何もない場所だった。研究所のように面白いものがあるわけでも、人がいるわけでもない。完全な廃墟というわけでもなく、最低限の手入れがされているらしい点も、余計に面白くなかった。
しかし大きな建物に慣れていないマチの子どもたちは、エレベーターや長い通路、窓から見える景色などにいちいち喜んでいる。琥太朗には、いつも同じところにつながるエレベーターや通路、窓などは、少し退屈だった。
四階に上がる階段の前でエンケパロスが、何でもないように言った。
「この上からは小さな〈ぐるぐる〉がありますので、接触しないようお気をつけください」
ぎょっとするエロス以外の子どもたち。
エロスが「なんだ?」と聞く。それを無視してたま子が「小さいって、どの程度の?」と尋ねる。
「だいたい直径二〇センチから三〇センチくらいです。主に桜の枝の間に発生しておりまして、四階では天井付近に多少現れているくらいです」
「くらいじゃねえ」と茶々丸が呟いた。これには亀屋小太郎も頷く。
「それって、触ったら、どれくらいの威力がありますか?」
「そうですね……。わたくしが経験したわけではありませんが、枝と枝の間を移動したり、四階と屋上を移動したり、という話を聞いております」
一行の緊張感が少し和らぐ。「その程度なら……」という声と「安心はできない」という声が同時に湧いた。
「なんだ、〈ぐるぐる〉というのは」
琥太朗をつかまえて、不審げにエロスが問う。問われたほうは軽く驚く。
「知らないの? 自然現象だよ。建物の中でもたまに起きる」
「〈ぐるぐるさん〉なら知っているがな」
「それだよ、その小さい版。〈ぐるぐるさん〉に当たると、遠くまで飛ばされちゃうけど、小さい〈ぐるぐる〉だと……」
琥太朗は考えて言い淀んだ。
「近距離の移動で済むんじゃないのか?」
先ほどのエンケパロスの説明を受けて、エロスが推測する。
「そうなんだけど、ぶつかり方が悪いと、部分移動になっちゃうんだよね」
「それな」と茶々丸が入ってくる。訳知り顔で重々しく頷く。
「経験があるのか」とエロスが聞くと、にやけて首を横に振った。
「とにかく〈ぐるぐる〉とか〈ぐるぐるさん〉に遇ったら近寄るなって教わってるから、寺子屋の子はあんまりぶつかったことがないと思うよ」
亀屋小太郎が説明する。
「ではなぜ危険だと知っているんだ?」
「だって、そう聞いてるから」
「人に聞いただけで、自分で確認したわけではないんだな?」
「まあ……」
「全員そうなのか?」
エロスが見回すと、それぞれ曖昧に頷く。
「姉さん、誘導よしてよ」
まずいと感じた琥太朗が止めに入る。
「誘導? 何がだ」
「それって、実際に触って確かめてみろって言ってるのと同じだよ」
「そんなことは言っていない。経験していないなら、実際のことはわからない、と言っているんだ」
「だから、そういう意味でしょ」
「どうする? 行くか、帰るか」
案内を待たせているのを気にして、たま子が結論を急がせる。
誰も意見を出さないのを確認してから、亀屋小太郎が言った。
「とりあえず、上の階に行ってみて、そこで決めない?」
反論はなかった。一行はぞろぞろと、口数も少なく階段を上がった。
四階の通路に出る。一見したところは、それまでと大差はないようだ。窓から差し込む光で見通しがいい。
「こちらが最上階となります。主に製品の検査、試験場として使われておりました」
案内と同時に覗きこんだ室内は、まるきり射撃場だった。的をはずれて壁にめりこんだ弾丸の痕が無数に確認できる。小型の爆弾が爆発したような黒い跡も残っている。現実か幻か、火薬の臭いがする気がした。
戦争当時の遺物だから、見た目が物騒なのは仕方がない。それよりも、今現在の危険のほうに寺子屋の子どもたちは気をとられていた。
エンケパロスは歩みを緩めなかった。危険を認識していないのか、平気で案内を続ける。
「あった、〈ぐるぐる〉」
たま子が小さく叫んだ。天井近くに、霞がかかっているような、景色がなんだか歪んで見える部分がある。よく見ると、空間がそこだけ渦を巻いているのだ。小さな渦潮が二つ、無限大の記号のようにくっついて、ぐるぐるしている。
「どこ?」と、いずみが焦った様子で聞く。
「あそこ、見づらいけど」
亀屋小太郎が指を指す。いずみは了解したものの、顔色が冴えない。
「見えにくいっていうのが怖いんだよね。近くにあっても気づかないから」
説明半分、琥太朗がエロスに言う。
エロスは何かを考えて、一人で頷いた。
「面白いな。〈ぐるぐるさん〉はぐるぐるしてないのにな。――これが成長して〈ぐるぐるさん〉になるのか?」
「や、やめてよ……」
無邪気な発想に琥太朗が引く。
「これが全部〈ぐるぐるさん〉になったら、大変だよ。マチの人が半分くらい、いなくなっちゃうよ……」
「ということは別物なのか?」と素直なエロス。
「って言われてるね、研究所だとね。詳細は不明だけど、条件さえ合えばどんどん生まれるんだって。こんな風に」
琥太朗は皆とは反対方向に目をやる。そこには大小三つの〈ぐるぐる〉が浮かんでいた。
「……動いてるな」
観察するエロスが、驚きもなく呟く。三つのうち二つはずっと同じ場所にいるが、一つはふよふよと通路の真ん中を動いていく。外気は感じないので、風に流されているわけではない。
「意思があるのか?」
「どうだろうね。生き物には見えないけどね」
「研究所で調べてるんだろう?」
「でも、触れないからね」
琥太朗が言うのと、前方で鋭い悲鳴が上がるのは同時だった。
「うわー! うわー!」とパニック状態で叫ぶ一同。振り向く琥太朗。メイド服姿のエンケパロスの胴体に、大きな穴が空いていた。
当のエンケパロスは自分の腹部を見下ろした後、そこを通過していったとおぼしい〈ぐるぐる〉を目で追った。
〈ぐるぐる〉は、前方から琥太朗のほうに向かってゆっくり流れて来ていた。壁際に避難する一同。琥太朗も同じく避けてやり過ごす。
「困りましたね」
いまいち感情表現の乏しい声でエンケパロスが嘆く。
「あの……大丈夫ですか」
亀屋小太郎が壁に張りついたまま聞く。痛いかどうかではなく、機能面の心配だろう。
「はい、大丈夫ですが……。どこに行ったのかしら……」
引きつった表情の子どもたちと対照的に、傍観者の口調でエロスが呟く。
「ほう、ぶつかったら全身が移動するわけではないんだな」
「さっき言ったでしょ。これが部分移動だよ」
「厄介だな」
辺りを見回して、なくなった部分が現れていないか探す一行。しかし失せ物より先に、別の〈ぐるぐる〉の存在に気づく。
「怖いよ。もう帰ろうよ」と最初に音を上げたのは年少のいずみだ。もともと気が弱いほうなので、すっかり怖じ気づいてしまっている。
「そうだな」とたま子が即答した。こちらはタフな気性なので、怖いというよりもリーダーとしての責任感からだろう。
「でも」と亀屋小太郎が躊躇する。胴体に穴が空いたままのエンケパロスを気遣わしげに見る。
「自分の心配より機械の心配ですか。さすが亀兄、誰にでもやさしい」
馬鹿にした口調の茶々丸を睨みつける。相手はさっさと視線を逸らした。
「わたくしのことならお気になさらず」
ピンク髪のメイドは、最初と同じようににっこり笑った。
たま子は躊躇しなかった。「では、すみませんが」と頭を下げ、いずみの背中を押して階段に向かう。
来たときと反対に、琥太朗が先頭になった。すぐ後ろにエロスがいる。
「なんだ? 桜を見ないのか?」
展開に追いつけないらしいエロスがのんきなことを言う。
「あのね、今そういうときじゃ……」
思わず失笑して振り返り、そのまま階段に踏み出す。そこに〈ぐるぐる〉が現れていた。
「おい!」
気づいてエロスが腕をつかんだときには遅かった。
床の代わりに渦巻きを踏む。バランスを崩すというより、吸い込まれるようにして足から琥太朗が消えた。腕をつかんでいたエロスも抵抗なく引き込まれる。
とっさにドレスの裾をつかんだ亀屋小太郎が後を追う。
「コタロウ!」
叫んでたま子が手を伸ばした。左手が亀屋小太郎の背中に触れる。同時に、意識せず、右手はいずみの肩を抱いていた。
唯一、茶々丸だけはギリギリで身をかわした――。
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