第8話 屋台ラーメン1
一行は定員オーバーのタクシーで出発した。助手席がソフィ、後部座席が他三人という配置だった。どしりと真ん中に座る満福を挟み、細い二人がドアに押し付けられている形だった。気持ちキムラのスペースが少なく、十秒に一回眼鏡がドア窓に擦れ、彼はヒヤリとしていた。
「源さんの本業は何なんですか」
気を紛らわしたいのか、キムラが問いかけた。
「……飲食店だ」
源は
「へえ! どんなのです!? ガッツリ系? 」
満福が途端にニコニコしながら
「源さんはギュウドン屋さんですよね! 」
源は破顔する。
「そうだよソフィ、よく覚えているね。流石賢い子だ」
「……そのあしながおじさん語、やめない? 短足のおじさん」
ただでさえスペースの狭さにやや苛ついているチャゴが、貧乏ゆすりをしながら毒づいた。
「……嬢ちゃんこええよ。おめえら、ギュウドンは好きかい? 」
三人の脳裏になぜかオレンジ色や黄色が浮かんだが、それがどんなものだったか思い出せなかった。
「ギュウドンとはものすごい美味しいものらしいですよ! まだ私も未経験なんです」
ソフィが後部座席を振り向き子どものようにはしゃいで言った。
「ど! どんな味なんだろ! 甘い? しょっぱい? 辛い? 」
「……全部だな、デブの兄ちゃん。おめえら、日本人なのに忘れちまったのかよあの味を? 」
源のそのもったいぶった発言に四人は四者四様の妄想を膨らませた。
「……どんな匂いがするんだろう? カレーみたいな感じですかね」
「いや、あたしはそれより『ドン』って響きが気になるね。いかにも重厚そうだ」
「甘さもあるんですね! スペシャルシリーズみたいな感じかな〜」
「硬そうな名前! 歯がもつかな! もつかな! 」
源はそんな彼らの想像を聞いて楽しそうにくっと笑った。
「おめえら、本当に日本人かよ、全く。いいか、ギュウドンってのは、牛に丼と書いて牛丼だ。ショーユとミリンとワインと砂糖で牛肉と玉ねぎをじっくり煮るんだ。そいでもってそれをホカホカの飯の上にぶっかける。汁もたっぷりな。そんで、犬みたいに一気に口ん中かっ込むんだよ。お上品に食べちゃいけねぇ! お好みで生卵やら甘酸っぱく漬けたショウガやらトウガラシやらを少し入れてもいい。コショーもありだな。アメリカギューってのがホントはいいらしいんだが、牛はな、俺の牧場で育ててる。玉ねぎもショウガも自家製だぞ! 」
四人はごくりと唾を飲んだ。既にスペシャルシリーズは完全に消化されていて、胃が悲鳴をあげ始めていた。
彼らはいまだ丼を食べていなかった。牛丼屋はメインストリートに何件かあったのだが、偶然に全く食べる機会がなかった。加えて、醤油も味噌も偶然にも口にしていなかった。見知らぬ土地に放り出され、困窮の極みにいた事を鑑みると、それは致し方なかったことかもしれない。白米がそれだけで食べても非常に美味であることを知っていた彼らの期待は膨らんだ。
「……源さん、絶対食べに行きます。隣のチャンドワに行く前に」
いつになくキムラが真面目に喋った。
「いつでも来な。まあ、お代は貰うけどな! ところで、チョングオとラ・フランスどっちにする? 」
「ラララ、ラ・フランスがいいです! 」
突然歌いそうな満福にチャゴが吹き出した。
「よーし、わかった。
ラ・フランスチャンドワは一番狭いチャンドワと言われてる。何だか聞き慣れねえ言葉しか通じねえらしいから、覚悟しとけよ! 」
そう言うと源は大きくハンドルを右に切った。
それから三十分は経っただろうか。タクシーは広く真っ直ぐな、車が走るためだけのような道に入った。道路のセンターラインが視界から消える速度を上げる頃、十キロほど先に
それほど高くはなく、赤茶けた空との境界がほとんどわからなかった。さらに緩やかなカーブに入ると、眼下の視界が拓けてきた。灰色のビル群と、ネオンのような信号機の赤青黄が砂の霧にかすれて見える。
反対の窓からは、果てなく続く城壁のような建物群が見えた。ターミナルタワーの方を見ると、スワルクは逆さにした独楽のような形をしており、途中から勾配が上がっていた。うっすらと空と地を繋ぐ
「……改めて、なんなんだろうね、ここは」
チャゴが景色を見ながら神妙な面持ちで独り言を言うと、全員押し黙った。
「あの糸みたいなビルの上には、何があるんでしょうね? 」
ソフィがターミナルタワーを凝視しながら問いかける。
「なんだろうね。どうせクソッタレなもんさ。考えたくもないや」
チャゴが吐き捨てるように言い放つと、源がそれに答えた。
「ターミナルタワーは、聞くところによると八十キロ近い高さらしいな。とんでもねえ建物だ。雲の上どころか、セイソウケンとかいう横文字の領域にまで届くらしい。上にゃぁ仏様でもいんじゃねえか? まあ要は、ここは地獄の釜の底ってことだな。全く、どんなワルをしたんだろな、俺らは」
自嘲気味な源の言葉に、また一同は押し黙った。
「……今じゃなくていいですけど、私はターミナルタワーに行ってみたいです。どうして私たちがこんな所にいるのか、何をすべきなのか。答えはきっとあそこにあると思います。来訪者だけらしいですね、食べることばかりに気を取られる生活に疑問を持つのは。普通の人はそんなこと気にしないで生きてるらしいです」
沈黙を破り、ソフィは誰にともなく語りかけた。
「ぼ、僕はご飯のことばっかり昔から考えてるけど」
満福が
「お二人は恋人なんですか? 」
満福の体温が二度くらい上がり、むしりとした何かを体から発した。チャゴがぎりりと腹をつねったあと、巨体をキムラに押しつけながら無機質な笑顔を浮かべながら表情で言う。
「違うよ。……というかソフィ、あなた何を言ってるの? 」
車内の湿度が下がった。一方でキムラの眼鏡が横からの圧力に悲鳴をあげていた。
「え!? でも気になりますよう! とても仲良しですよね! お二人は最初どんな風に出会ったんですか? 教えてください! 」
目にいくつも星を浮かべながらうきうきと訊くソフィに、キムラも便乗する。
「確か俺より少し前に目覚めたって言ってましたよね? どのくらい前なんすか? 」
チャゴは観念したようにため息をつく。
「あたしが目覚めたのが、マンプクの三日前。場所はキムラがいたとこよりもう少しタワー寄りだ。あのメインストリートから五、六キロは離れてたんじゃないかな……あたし達が会ったのは大小屋の外、街でも農地でもない、
黙って運転を続けていた源が眉をひそめた。
「姉ちゃんたちは空地で目覚めたのか……そりゃあ大変だったな」
憐れむような、
「ああ……ちょっと思い出したくない記憶だね。あそこは本当に地獄だ。あたしもマンプクも脱出できたのは奇跡に近い」
興味を惹かれたキムラが尋ねる。
「空地っていうのはそんな衝撃的な場所なんですか? 大小屋だって相当異様な場所でしたけど」
「空地はね、本来人間が住める場所じゃない。
そう言いながら虚空を見つめるチャゴの瞳は曇天の夜空のようにくすんでいた。キムラはそれを見てこれ以上訊いてはいけないと感じた。
「まあ、僕はあんまり覚えてないですけど! 」
脳天気な満福の引き笑いが車内に虚しく響き渡った。
<残金4,204円>
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