第1話 おにぎり

 男は雑踏の中に倒れていた。砂埃が容赦なく男の横顔に吹き付ける。その身体は微動だにしなかった。

 

埃まみれのアスファルトが男の体を冷やし、徐々に体の感覚が活性化されていく。通りを歩く人が地面を踏みしめる振動を全身で感じる。しばらくして、男はうっすらと目を開けた。



 ここはどこだ。




 男には記憶がなかった。あったのは自分がキムラという名前であったことと、朧げながら浮かぶ彼の故郷のイメージだけだ。


埃にまみれたメガネが弱々しく光った。何故か痩せさばらえた体を無理やり起こして男は周囲を伺った。色とりどりの看板が狭い間隔で並ぶ通りはどこか懐かしい雰囲気を感じさせたが、その街並みには全く見覚えがなかった。


 通りには人が多く、スーツを着たサラリーマン達が楽しそうに宵の口を楽しんでいた。家族連れやカップルもおり、皆一様に通り沿いにずらりと並ぶ飲食店──イタリアンや中華料理屋、ファミリーレストラン、居酒屋を出入りしていた。その活気が男の疎外感をさらに掻き立てる。


 その瞬間、キムラは強烈な空腹感に襲われた。まるで夜通しで三日連続ゲームをした時のような、異常な空腹感だ。思わずへたり込みながら、キムラは自分の置かれている状況を分析した。



 ……話している言語が聞き取れる。ああ、ここは日本だ。間違いない。しかしこの街は知らない。どうしたことだ。俺はなぜこんなに所にいるのだろう。キムラは自問した。



 自分の身なりや持ち物を確かめた。量販店で買ったと思しき無難なシャツとスウェットパンツ。まるで部屋着のような出で立ちだった。幸いにもスニーカーを履いていた。まさにコンビニに出掛けるかのような出で立ちであったが、ポケットには何も入っていなかった。



「おい、そこのお前」

背後からちょっとくぐもった、太い声が聞こえた。振り返るとそこには、使い込んだ感のある灰色の上下スウェットを着た太った男が立っていた。くせっ毛を無造作に切った特徴のない髪型の下に、食いしん坊といった体の小憎らしい猫目がギラギラとキムラを見据えていた。膨らんだ頬が、なぜか引きかけている風邪の症状のように青ざめている。腰に変なバックルが付いた変なベルトをしているのだが、それが膨らんだ腹をことさらに強調していた。


「腹が空いて仕方がないから、なんかおごっていただけるか!? 」


太った男は神妙な口調でとてつもなく図々しいお願いをしてきた。キムラはしばらく呆然と男を見ていたが、中指でくいとメガネのブリッジを持ち上げて冷静に言った。

 

「いや、奢ってやる理由がない」


太った男はフグのように頬を膨らませて押し黙った。すると太った男の後ろから大人びた顔の若い女性が顔を出した。


「ねえ、君、記憶ないんだろ? 今君がどういう状態にいるか教えてやるから、あたしらにご飯食べさせてよ。」


女性は輝くような笑顔でそう言って前に出た。美人だ。モデルのように長身で、スタイルもいい。太った男より少し背が高い。ゆったりとウェーブがかかったロングヘアを無造作にサイドで縛り、長い首に何本か生えた後れ毛が色っぽい。小さな顔に美しく配置された涼し気な栗色の瞳が強い眼力でキムラを射抜いた。


「──確かに記憶はない。質問に答えて欲しいのは山々だが、あいにく金を持ってない」


そうキムラが言うと、太った男はキムラのシャツのポケットを短い指で指しながら、

「いやいや! そこに持ってるじゃん! 金!! 」

と唾をまき散らしながら まく し立てた。


キムラの胸ポケットには千円札が一枚入っていた。

 

 


 空腹でふらつきながらも二人に言われるがままに先導され、徒歩三分ほどの小さな公園のベンチに三人は座っていた。夕方の心地よい風が三人を心地よく包む。キムラは道中コンビニで買ったおにぎりを二人に渡した。


 太った男はおにぎりを手に取った瞬間、鬼気迫る様子で素早く包みを開け、一口で全て平らげた。五回ほど噛んで飲み込む。その間およそ三秒。その様子を女がニヤニヤと見ていた。


「──あー死ぬかと思った。ありがとうございます、お兄さん」

急に太った男の口調が柔らかくなった。

「ぼ、僕の名前はまんぷくと言います。食田 くいだ 満福です」


「あー、どうも、キムラです」

聞こえない振りをして虚空を見ながらキムラもおにぎりを頬張った。最近のコンビニのおにぎりは大変出来が良く、パリッとした海苔を突き破り口の中で ほど ける米の感触がキムラの舌を心地よく刺激した。


 ああ、お腹が空いてる時の白米ってほんとうまいな。キムラは感慨にふけった。


「あたしの名前はチャゴ。ありがとねーあと十分くらいで死ぬとこだった」

長身の美人が美味しそうにおにぎりを頬張りながらそう答えた。

 


 「──で。一体全体俺に何が起きたのか教えてくださいよ」

そうくと満福とチャゴは顔を見合わせた。

「え、えーっとね、実は僕にもよくわからないんです」

屈託のない笑顔で満福が答えた。キムラは舌打ちした。

「実はあたしたち二人も記憶がないんだ。あんたより少し前にこの街で目を覚ました。だが、一個だけわかってることがある。

 

 それは──」

そう言うとチャゴは真剣な顔になった。

「48時間ごとに食事をしないと、あたしたちは死ぬ」

 

 

 

 何を言っているのか、キムラはさっぱりわからなかった。

「いや、そんなはずないでしょう。まあ身体には悪いと思うけど」

そう答えると、満福が百メートルくらい先の芝生を指さした。キムラは目を細めて伺った。


 芝生に隠れるように、恰幅かっぷくのいい中年男性が伏せていた。その手は何かを掴もうとしていたかのように三人がいるベンチの方に向いていた。満福が男に近づき、仰向けに引っくり返した。

 


 その顔にキムラは戦慄せんりつした。苦悶くもんの表情だ。口からはよだれが垂れ、草をくわえていた──否、食べようとしていた。大きく見開かれた目が血走り、何かを渇望するような表情が目に取れた。

「──これは」

さしもの冷静なキムラも狼狽ろうばいした。遺体の状態からも明らかに普通ではない雰囲気を感じた。

 

 この男は、空腹で死んでいる。だが、これほど体格のいい男が空腹で死ぬなどありうるだろうか? 通常、人間は水さえあれば一週間は生きられるというが、水であれば最悪公園の池にでも飛び込んで飲めばいいのだ。

 


 「普通じゃないだろ? 」

チャゴが神妙な面持ちで呟いた。

「こんな栄養ありそうな奴でさえ、二日食べないと死ぬのさ」

そう言えば、とキムラは強烈な空腹を思い出した。獣のように涎を垂らしながら手に持ったおにぎりを丸呑みする。

 

「ぐっ……ハア、ハア……」


食べたおにぎりが胃に到達したかと思うと、恐ろしいスピードで消化されるのを感じた。


「ほぉんと、まいっちゃうよねぇ」

満福が仔犬のように眉をひそめた。キムラは舌打ちした。

「い、いやごめん。でも僕のせいじゃないです! 」

キムラはまた舌打ちした。そんな様子をチャゴは楽しそうに眺めながらたずねた。


「うふふふ、とんでもない事態だろ? あといくら持ってる? 」

「──六百四円」

仕方なしにキムラは答えた。

「よし、あと一回はおにぎりがいけるな。その間にがんばろう。仕事だ。何でもいいからアルバイトをしよう。日雇いでいい」



 ネズミのように憐れな男たちは、ごくりと唾を飲み込みながら頷いた。



<残金604円>

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