喜瀬里さんの誘惑

 喜瀬里さんは、言っていた通り戻ってきた。パジャマ姿でその手に何かをかかえて。


「起きていたのか神門君。待たせてしまったみたいですまないね。お風呂が広くてついゆっくりしてしまった」

「いえ、ゆっくりできたのは良かったですけど、それは」

「これかい?寝袋だよ。君はまだ不調なんだからそばに誰かいないとだめだろう?」

「隣に寝るんですか」

「一緒のほうがよかったかい?私はそれでもかまわないが」


 お風呂上がりの喜瀬里さんは名詩さんとは違った、雰囲気をまとっていた。名詩さんのまとっていた雰囲気は、こちらを溶かすような熱くて甘い雰囲気だった。でも喜瀬里さんは、包むような甘さを持っていた。

 喜瀬里さんは持っていた寝袋を、俺の横に置くと頭のほうにきて座った。


「どう、したんですか」

「いやなに、膝枕でもしようかと思ってね」


 この至近距離で俺は喜瀬里さんの、色香とも呼べる雰囲気にのまれそうになった。いやのまれていた。頭をなでるその手は心地よく、引き込まれていく。


「こうしていると、名詩ちゃんの言っていたことの意味も分かるというものだ。いつも頑張っているがゆえに、気を張り詰めている君が見せる弱さ。どんなにつらくても私たちに見せることのなかった弱さ。君を――」


 喜瀬里さんは顔を近づけてきて、その顔はいつもの喜瀬里さんとは違った。潤んだ瞳は名詩さんのそれと同じく。頬は紅に染まり、言葉を話すその唇から漏れると息は熱かった。


「―—食べてしまいたくなるよ」


 そして喜瀬里さんは、頬にキスをしてきた。


「私は名詩ちゃんよりは我慢できる、大人だからね。だから今日の所は頬でやめておこう。だけどこれだけは覚えていてくれ、私も名詩ちゃんも君を甘やかしたいんだ。どこまでも頑張りつづけて甘えるということを、だれかに頼るということをできない君を。好きなんだ私たちは」


 喜瀬里さんは何を言っているんだ?体が熱くて頭がぼーっとして何も入ってこない。でも拒まなければいけない、俺は二人が与えようとしているものから。与えられてはいけない。受け入れてはいけない。与えられ受け入れてしまえば、俺は逃げてしまう。だから拒まなければいけない。


「今日はこのまま寝るといい。さあお休み」


 かすみゆく意識の中、見えた喜瀬里さんの顔は微笑んでいた。


 くそ親父がギャンブルで借金をしているのが分かったのは優恵が生まれて間もないころだった。まだ俺が小学校五年生、透が一年生の時。その時家は荒れに荒れた。母さんが怒ったんじゃない。借金していることを問い詰められたくそ親父が逆切れして暴力を振るってきた。別に暴力を振るうことは前からあった。何か気に入らないことがあれば、俺や母さんにあたってくる。そしていつも母さんが俺たちを守ってくれた。

 だけどその日は違った。俺たちを守ってくれていたお母さんは倒れた。くそ親父は動かなくなった母さんを見てすぐに救急車を呼んだ。まだ母さんを心配する心が残っていたのかと思ったが違った。奴は駆け付けた救急隊員にこう言った。


「妻がテーブルに頭を強くぶつけてしまった」


 心配していたんじゃない、やつはただ自分の身可愛さに救急車を呼んだに過ぎなかった。病院に付きいろんなことがあった。検査やらいろいろと。幸い脳のほうに異常はなく、すぐに母さんは目を覚ました。そして母さんは倒れた原因について真実を話さなかった。

 だけどこれでくそ親父は何も言えなくなった。母さんは退院してすぐに離婚をした。何も言えなかったくそ親父は借金を残して逃げた。


 俺は母さんに守られてただ逃げていた。母さんが守ってくれるということに甘えて逃げていた。その結果母さんは倒れた。だから母さんが倒れたあの日から俺は、甘えることを拒み、頼ることを拒んだ。一度甘えてしまえば一度頼ってしまえば、また逃げて大切な人が傷ついてしまうことが怖かった。だから俺は――


 ――

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