3、すず

 ただいま、と小声でつぶやいて、静かに戸を開けた。家の中はしんとしているから、すずは寝ているみたいだ。


 手洗いうがいを済ませると、すずが寝ている部屋まで向かう。

 ことさらゆっくりとふすまを開ければ、朝見たときと同じパジャマ姿で、布団の中で寝息を立てている。

 

 傍に座り、すずのおでこに手をあてた。

 熱はない。

 

 夕ご飯の支度をしようとそっと立ち上がると、下から「ゴホ…ゴホッ」とせき込む声が聞こえた。

 

 すずはもともと元気いっぱいを絵に描いたような子供だ。時たまはしゃぎすぎて熱を出すことはあったが、一晩寝れば翌日にはケロリとしていた。


 それが体調を崩してから、もう1週間になる。病院で診てもらったが特に身体に原因はなく、環境が変わったせいで疲れが出たのだろうと医者に言われた。一応薬をもらったが、それを飲んでもなかなか良くならない。  



――あの家は呪われている。



 予想だにしない、不気味な発言。



(まさか、それが原因じゃないだろうな)


 馬鹿馬鹿しいと思いながらも、明石は家の中を見回した。目に入ってくるのは年季の入った木造の日本家屋だ。あたたかみを感じても、不穏な空気を感じることはない。


 そのまま全ての部屋をくまなく見ることにした。もしかしたら隠れたところに血痕や怪しげなお札があるかもしれないと思ったが、それらを見つけることはなかった。


 まな板の上で長ネギを包丁で切りながら明石はぼんやりと考える。

 料理はもっぱら父の担当だったが、今日明日と出張に出ているので、己の数少ないレパートリーである鍋を作っていた。一番の得意料理はお好み焼きだったが、今朝のすずの食欲を見る限り、食べるのは難しいだろう。

 

 やっぱり呪いなんてのはしょせん噂に過ぎないのだ。すずは急に環境が変わって、自覚はなくとも体にはストレスがかかっていたのかもしれない。


 天真爛漫でお転婆なすずだが、まだ八歳。幼くして母がいない寂しさをずっと抱えている。それが引っ越しの負荷も加わって体調に出たということもありえる。


 でも、そうでないと明石は信じたかった。

 だって、母と会わせてやることは、二度とできないのだから。


「七瀬か……。隣の席なんだし、挨拶がてらちょっと会ってみるか」


 グツグツと煮だった鍋に、ぶつぎりにした大量のネギを投入した。


 

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