第5話
「ふぅ」
部屋着姿の凛は、疲れた目を休めるように天井を見上げて、大きく息を吐いた。
彼女がたった今まで読んでいたのは、雪那に渡された数十枚の印刷用紙。
そこには無数の文字が連ねられており、一つの物語を構築していた。
凛と雪那が出会ってからの出来事を描いた物語と、文末には彼女からのメッセージ。
「重たい
凛は雪那のことが好きだ。
単に友人としてではなく、愛情を注ぐ相手として。その想いに偽りはない。
けれど、彼女としては未だそれを口にしたことはないつもりで。
酔うと心中を曝露する癖があるなんて、と凛は両手で顔を覆う。
顔から火が出そうな程の恥ずかしさで、うっかり心不全になりそうな勢いだった。
しかし、雪那もまた同様に自分へ好意を持ってくれていることが分かり、それは自ずと「えへへぇ」と盛大に口元を緩めさせる。
嬉しさのあまり今すぐにでも彼女のもとへと駆け出して、その姿を視認するや否やロケットのように抱き着きたい気持ちでいっぱいだった。
だが、そういうわけにもいかないことを雪那はこの作品で告げていた。
例え傷つくことになったとしても君と一緒にいたい、と答えたところで雪那が求める答えとしては不十分だろう。なぜなら、そうして傷つけることを許せないのは何よりも彼女自身なのだから。
なら、どんな答えを示せば良いのだろうか。うーん、と凛は両腕を組んで眉をひそめる。
そんな風にしていると、自然と思い出される恥ずかしさから両手で顔を覆ったり、嬉しさから口元を緩ませたり、また悩ましさから眉をひそめたり。
そこには凛の心中から溢れ出る豊かな感情があった。
しばらくの間、一人で百面相をしていたが、やがて印刷用紙をもう一度手に取った。
「さて、と……とりあえずもう一回読もうかな……ちゃ、ちゃんとわたしなりの答えを考えなきゃだしね……」
文中の節々に刻まれた雪那の好意を示す言葉は、まるで彼女が耳元で睦言を紡いでくれているようで、触れる度に口元がだらしなく緩むのを止められなかった。決して
結局、凛はそれを五回読み直した。
●
「――よしっ!」
存分に愛する人からの想いを堪能し、心なし頬が赤らんだままの凛は、雪那の部屋の前に立っていた。外出用の服に着替えた彼女は意気に満ちた様子で呼鈴を鳴らす。
程なくして、ギィと扉が開いた。
姿を見せたのは、ゆったりとした部屋着に身を包んだ女性。雪那だ。
背は凛の方が高いので、自ずと見下ろすような形となる。
肩上で切り揃えられた黒髪は無造作にうねり、毛先が揺らめいていた。
彼女はそういう風にセットしているわけではなく、寝癖で自ずとそうなっているだけだ。
相変わらず肌は驚くほどに白くて、滑らかに見えた。
ろくなケアもせずやたらと綺麗な髪や肌をしているのは羨ましい限りだ。
凛はいざ彼女の姿を見ると、少したじろいでしまった。
照れや気恥ずかしさがぶわっと押し寄せてきた為だ。
しかし、ここで引くわけにもいかない。凛は覚悟を決めて口を開く。
「せっちゃん、読んだよ」
「そう……とりあえず中に入ってよ。寒いでしょ」
「うん。お邪魔するね」
部屋内は暖房が効いており、暖かかった。
凛はもはや定位置とも言える場所に座り、雪那はテーブル越しの対面に座った。
「それで、私があなたを拒絶しなければならない理由は伝わった?」
「……わたしは芸術家じゃないから、きっと分かっていないこともあると思うけど、それでも自分なりに理解したつもりだよ」
凛は自分の理解が間違っていないか、確認の問いかけを投げかけていく。
「わたしは例え自分が傷ついてでも君と一緒にいたいよ。でも、せっちゃんからすればそれじゃ駄目なんだよね?」
「駄目だね。私はあなたを傷つけたくないから」
「わたしの想いを受け入れると、傷つけることは避けられない?」
「そう。だから、拒絶しなければならない」
「なら、わたしがすべきことは一つだって思う」
凛は一度大きく息を吸うと、自分が選んだ答えを言葉にする。
「せっちゃんがわたしを傷つけても構わないと思えるようにすること」
「……へえ」
雪那は珍しく驚いた顔をした。どうやら予想外の答えだったらしい。
「せっちゃんはさ、臆病だよね。自分のことを利己主義者だなんて言うけど、そのくせ人を傷つけることを怖がっていて。本当に君が利己主義者なら、周囲の人間がどうなろうと気にも留めないんじゃないかな」
「そうだね……私は今も昔も変わらず他人の目から抜け出せていない。自分本位に生き切れない中途半端さがある。凛が憧れてくれるような強い人間なんかじゃないんだ、私」
「でも、わたしはそんなせっちゃんを優しいって思うよ。前に言ってた通り、今も悩んでるんだね。本当にこれでいいのか、って。周りの人を傷つけてしまう自分を負い目に感じてる。だから、傷つく人を増やしたくないと思ってる」
本当は誰も傷つけたくない。けれど、傷つけてしまう自分がいる。
そんな自己矛盾はいつだって雪那を苛んでいるのだろう。
彼女は優しいから。
どれだけ他人を傷つけても構わない、と思える程の身勝手さを持ち合わせてはいないから。
ゆえにこそ、凛は雪那に伝えたいと思っている。
この世には傷つきながらでも一緒にいたいと思える相手がいる、ということを。
「……わたしね、こないだまでせっちゃんに避けられてて凄く寂しかった。苦しかった。辛かった。でも、その痛みがわたしに教えてくれたんだよ。君のことをこんなにも好きなんだって。だから、胸が引き裂かれるように痛いんだって」
生きることは痛みを伴う。でも、痛みを感じるからこそ、間違っていないと思える。
凛は雪那が発したその言葉を良く覚えていた。
感情の動きが緩慢になりつつあった過去の自分。灰色に見えていた世界。
喜びを思い出させてくれたのも、哀しみを思い出させてくれたのも、どちらも目の前にいる大切な人。
今こそ凛の世界は眩しく色づいていた。
「わたしはせっちゃんにならいくら傷つけられても構わない。だって、君はきっとそのことで傷ついてくれるから。それって独りじゃないってことだから。傷つけてよ。傷ついてよ。そうして、そんな痛みも、日々に溢れた喜びも、二人で分かち合おうよ。そういうのをきっと――愛って言うんじゃないかな」
凛が導き出した答えに、雪那は少しの間、無言でいた。やがて、ポツリと呟く。
「愛とは痛みも喜びも分かち合う、互いの世界を共有できる関係性、か……納得した」
「えっ?」
凛は思わず聞き返してしまう。聞こえた言葉が信じられなかった。
「納得したよ、凛の選んだ答え。あなたの勝ち」
雪那は降参とでも言うように両手を上げた。
「強くなったね、凛。初めて出会った頃とは考えられないくらいに」
「……もし、そう思うならそれは全部、せっちゃんがくれた
実際、凛は雪那から学んだことを語ったに過ぎない。
けれど、そこには二人の世界を重ね合わせたからこそ、辿り着くことの出来た答えがあった。
「ね、せっちゃん」
「なに、凛?」
「改めて、聞いて欲しい
「……いいよ。聞かせて」
これはきっと、あの愛情に満ちた恋文のお返し。今こそきちんと伝えたいと思えた。
「初めは憧れだった。せっちゃんはまるでヒーローのようにわたしを救ってくれたから。わたしはそんな君みたいに強くなれたらって思った。だけど、せっちゃんだって悩んだり苦しんだりしてて、強さだけじゃなく弱さもあって。でも、君が周りを傷つけることを気に留めないような人なら、わたしは惹かれなかったと思う。その強さも弱さもひっくるめて、そんなせっちゃんのことがわたしは好き。大好き。だから、わたしと一緒に生きて」
その告白を聞いた雪那の顔は赤らんでいるように見えたが、なぜか何も言わずに手招きしてくる。
何だろう、と凛は首を傾げて彼女の傍に寄った。
すると、雪那はフッと笑みを零して告げる。
「ありがとう、凛」
そして、サラリと顔を寄せてきたかと思えば、互いの唇を重ねた。
「~~っ!?」
思わぬ展開に凛は顔を真っ赤にして、声にならない声を上げる。
慌てふためく彼女をよそ目に、雪那はスッと唇を離した。
凛はズザザッと大きく仰け反ると、唇に片手を当てながら叫ぶ。
「な、な、何をッ!?」
「何って、キスだけど。あ、もしかしてもっと濃厚な方が良かった?」
「ちちち違うよッ!? そそそういうことじゃなくてっ!」
そんな態度に雪那は「ぷっ」と噴き出した。
「あーもう、いちいち反応が可愛いな、凛は」
凛は「むぅ」と不満げに顔をしかめるが、やがてボソリと呟く。
「……もう一回」
「駄目」
「何でっ!?」
「何となく」
「ズルい! 意地悪!」
「……仕方ないな」
雪那はやれやれという素振りで傍に寄ってきて、首を少し上げて目を閉じた。
今度はそちらから、と無言で伝えてくる。
凛は心臓が早鐘を打つのを感じながら、震える手を彼女の肩に置き――それぞれの唇をそっと触れ合わせた。
こうして、彼女達は身も心も、そして互いの世界も重ね合わせ、共有していくことになる。
そこには独りでは見ることの出来ない、
灰色世界に君がくれた色彩 吉野玄冬 @TALISKER7
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます