第4話
退社パーティーを行ってから約二週間が過ぎた。
その間、私は凛を一度も自室での食事に誘っていない。それは彼女と知り合ってから初めてのことだった。
軽い連絡のやり取り程度はある。向こうから来る分には返信していた。
しかし、私は差し障りない言葉に終始しており、彼女もそれを察してか、ごくごく日常的な会話に留まっていた。
時折、マンションの廊下で出くわすこともあった。その時の彼女は私服だったりスーツ姿だったり。どうやら以前の労働環境の多忙や疲労で疎遠になってしまっていた交友関係も、徐々に取り戻しつつあるようだった。
「あっ……せっちゃん」
「凛……行ってらっしゃい」
「……うん、行ってきます」
私が凛の横を通り過ぎる時、彼女はいつだって何かを言おうとしているように見えた。
けれど、その噤んだ口が開かれることはなくて、私達は互いに別々の方向へと歩いていく。
最低限の挨拶。多少の付き合いがあるただの隣人。
以前の私はそれで構わないと考えていた。
けれど、今の私は凛とそんな関係であることに一抹の寂しさを覚えてしまっている。
一人で食事をしていると、味気なさを感じる自分がいる。
ふと自分が作ったご飯を美味しそうに食べる凛の姿を想像してしまう。
私は自分で思っているよりもずっと凛に好意を持っていたのかも知れない。
だけど、それでも、駄目なのだ。
私は凛の想いを受け入れられない。受け入れてはいけない。
芸術家としての業を背負っているから。
例え世界を天秤にかけたとしても、欲する理想がある。
その為ならどんなことだってしてみせる。
凛はそんな私の傍にはいない方がいい。彼女は硝子細工のように傷つきやすいだろうから。
もう、大切な誰かに深い傷を負わせるようなことはしたくない。
その為に私は今の段階で凛を遠ざけることを選んだのだ。後悔なんてない。
けれど、胸中のもやもやはいつまでも消えることはなかった。
そのように私が煩悶していた頃、地元の友人から連絡が来て、家に遊びに来ることになった。
そうして、約束した土曜日。
「久しぶりね、雪那」
「半年ぶりくらいかな。元気そうで何より、
彼女の名前は
部屋に招き入れると、私達はまだ日も落ちていない中、早速酒盛りを開始する。彼女と会う時はいつもそんな感じだ。
薫子が持って来てくれた上等の日本酒を飲みながら互いの近況を話し合った。
そんな中で、彼女は私の顔をふと見つめた後、問いを投げかけてくる。
「雪那、最近何かあった? わたし的に面白いことがあった顔してるわ」
「なぜ分かる……」
「こういう直感が良いビジネスと悪いビジネスを嗅ぎ分けるのよ」
薫子は資本主義社会の権化のような存在であり、私と同じ二十六歳でありながら起業家として大成功を収めているが、それを為し得ているのはまさにその超人じみた能力ゆえなのかも知れない。
「まあ、引っ越してから思わぬことはあった、かな」
私は特に取り繕うこともなく凛のことを話す。これまでにあった出来事を簡潔に。
その間、薫子は目をキラキラと輝かせながら耳を傾けていた。
「なるほどね……わたしからすれば、いいじゃない応えてあげれば、って思うのだけど」
「例えばさ、薫子は私が何をしようと、別に裏切られたなんて思わないでしょ? え、そんなことしたの、ウケるわね、みたいな感じで」
「まあ、そうね。それは雪那も同じでしょう? わたしが何をしても作品のネタにするくらいが関の山で」
「うん」
「お互いろくでもないわね」
私と薫子は軽く肩をすくめて、笑い合った。
互いの深い部分に干渉はせず、心配もせず、一定の距離を空けた状態で自分が楽しむ為の物種とする。
私達はそんな関係性だった。傍から見れば健全な友人関係ではないかも知れないが、それは私と彼女にとっての適切な距離感だと言えた。
「でもさ、凛は違うんだよ。何て言うか、普通の人だから。私の行いで当たり前に傷ついてしまうから。それが嫌なんだ」
「ふむ……それってやっぱり前の相手が関係あるの?」
「どうだろね。自分でも良く分からないんだ。ただ、確かに思ったことはあるよ。私と関わらなければ、あの人はもっと幸せに過ごせていたんじゃないかって」
私には学生時代、付き合っていた相手がいた。何度も裏切り、深く傷つけてしまった相手が。
「まあ、
「期待の眼差しで見ないで」
「ちっ」
「不服そうに舌打ちすんな、ぶっ飛ばすよ?」
そんなやり取りをしていると、呼鈴が鳴った。
「宅配かな? いや、でも何かを頼んだ記憶は……」
疑問に思いながら扉の覗き穴を見ると、何とそこには凛の姿があった。
彼女が家に来る時はいつもこちらから声を掛けていたので、まさか向こうからやって来るとは思ってもいなかった。
私が扉を開けると、彼女は緊張の面持ちをしていた。
「あ、せっちゃん……今、いいかな?」
「……どうかした?」
「どうもしてないけど、その……ご飯、食べたくて。駄目、かな?」
凛は途切れ途切れにそう呟いた。
彼女が自分からそのように言ってくるのは初めてだったので、私は少しばかり驚く。
薫子が来ている現状、どうすべきか、と私が悩んでいると、凛の顔は不安に包まれていった。
「どうかしたの?」
その上、私がなかなか戻って来ないので気になったのか、薫子が部屋から顔を出してきた。
薫子と凛は互いに目を合わせる。
「あ、ごめん、今は都合が悪いみたいだね……」
凛は見てはいけないものを見てしまったような顔で踵を返そうとするが、薫子はそんな彼女を呼び止めた。
「ちょっと待って。貴女が例の隣人さん?」
足を止めた彼女は「例の?」と首を傾げると、薫子は妙なことを言い始める。
「雪那からついさっき聞いたの。凄く可愛い隣人がいるって」
「えっ」
驚いた様子で僅かに頬を赤らめる凛。
そんなことは言ってない、と私は反論しようとするが、口を押さえられる。
「わたしも一緒で良ければ、隣人さんも中へどう? 良い日本酒があるわよ」
「いいんですか? お邪魔では」
「昔の雪那の話とか聞きたくない?」
「……聞きたい、です」
「なら、決まりね」
凛と薫子は共にこちらを見た。気になる発言もあったが、私は渋々と頷く。
「……二人がいいなら、別にいいけど」
実際、ここ最近は凛と意図的に距離を置いていたので、二人だけで話すのは気まずいように思えた。薫子が間にいてくれた方が助かるかも知れない。
いつの間にか日は暮れており、夕飯に適した時間となっていた。
凛も部屋に招き入れた後、私はいつものように食事の準備を始めた。
その間に凛と薫子は日本酒を飲みながら互いの自己紹介をしていく。
「わたしと雪那は地元が同じで、小中高と一緒だったのよ。幼馴染というやつね、一応」
「へぇ、せっちゃんって昔はどんな感じだったの?」
「一言で言えば、変人。当時から異彩を放っていたわ。例えば、こんなエピソードが……」
「こら、そこ。人の黒歴史を掘り返して晒そうとするのやめなさい」
「いいじゃない別に。そんな過去も乗り越えて今があるんでしょう?」
「わたしも聞きたいなー」
「うぐっ、二人して……」
凛と薫子はついさっき出会ったとは思えないくらいに意気投合して盛り上がっていた。主に私の話で。
私は居た堪れない思いをさせられながらも、食事の準備を終えた。
今日は薫子が来るということもあり、酒の肴に寄せた小鉢が中心だった。
私達は改めて乾杯した後、食べ進めていく。
「はー、久しぶりにせっちゃんのご飯食べれて涙出そう」
「大げさだな」
「ほんとほんと。わたし、せっちゃんのご飯なくして生きていけないかも」
凛はそれぞれの料理を食べる度に「美味しい」と言って、浮かんでくる笑みを抑えきれない様子だった。そんな彼女を見て、頬を緩める私がいた。
そうして、気づかされる。最近の彼女は暗い顔をしてばかりだったということに。
誰でもない私のせいで。その事実は私を突き刺す。痛みが生じる。
「なるほどね」
こちらを見ていた薫子は意味深に頷く。
「……なに?」
「別に。大したことじゃないわ」
食事を終えた後も酒は進み、私と薫子は普段とさほど変わらない様子だが、凛は耳や首元まで顔を赤くしていた。
「聞いてよ、薫子ちゃん! せっちゃんってば、酷いんだよ! わたしに美味しいものばかり食べさせて、とっくに胃袋を掴んでるのに、最近は全然ご飯に誘ってくれないの!」
「あらあら、それは酷いわね。釣った魚には餌をやらない主義なのかも」
薫子はクスリと笑みを浮かべてこちらを一瞥した。
私は話題が話題なので迂闊に口出しせず沈黙を貫く。
しかし、凛を見るといつの間にか涙ぐんでおり、その胸中を吐露し始めていた。
「もしかして嫌われちゃったのかなって、そう思ったら凄く悲しくて……今日も悩んで悩んでやっとの思いで自分から行こうって決めて……薫子ちゃんを見た時はわたしなんかよりもずっと素敵な相手がいたんだって……こんな風に思っちゃう自分がまた嫌になって……」
私はこんな風な凛の姿を何度も見ているので、じきに寝落ちするだろう、と判断し普段のようにスルーを決め込むが、薫子は律儀にも彼女に聞こえるように傍で言葉を掛けていた。
「安心して。わたしと雪那はそういうんじゃないから」
「ほんとにほんと?」
「ええ。ほんとにほんと。こんな人間失格となんて怖気が走るわ」
薫子はこちらに視線を向けると、フッと鼻で笑って見せた。
「それはこっちの台詞なんだけど」
私はボソリと小声で口を挟んだ。一方的に言われるのは納得がいかない。
「えへへ、そっか……良かったぁ……」
凛はにへらと笑んでから、パタッとテーブルに倒れ伏した。
その後、私は慣れた手つきで彼女をベッドまで誘導した。
やれやれ、と私が再び腰を落ち着けたところで、ベッドで穏やかに眠る凛を眺めながら薫子は述べる。
「それにしても、好かれてるわね」
「酔うと素直になるというか、心に秘めてることをポロリポロリと漏らしちゃうタイプみたいでね」
「あんな風に嫉妬されたの初めてかも。やっぱり可愛い隣人で合ってたわ」
私達は改めて酒を注ぎ直す。本日何度目かの乾杯をした。
「で、雪那はどうするつもりなの? 流石にお隣さんじゃ距離を空けるにも限度があるんじゃない? 現に今日は向こうからやって来たわけだし」
「そうだね……濁して終わり、というわけにはいかないか。受け入れるか、拒絶するか、明確にしなきゃならないなら、私は……」
しかし、薫子はサラリと否定の言葉を口にする。
「いや、そうとも限らないんじゃない?」
「えっ……?」
「一つ確認したいのだけど、別に彼女のことが気に入らないわけじゃないんでしょう?」
「まあ……うん。好き、だと思う」
私が躊躇いがちに告げると、薫子はすぐさま頷いた。
「でしょうね。あんな顔を見せられたら誰だって分かるわよ」
「うぐっ……」
食事時の意味深な頷きはそういう意味だったのか、と私は恥ずかしくなる。
「それでも拒絶しなくてはならない、というのなら、まずはその理由をきちんと彼女に伝える機会があってもいいんじゃない?」
「……確かに、凛からすれば私が拒絶する理由ってのは意味不明だろうね。一言で言うなら、私が芸術家だから、ってだけ。でも、どれだけ丁寧に説明してもそれは伝えられないんじゃないかって思ってしまう」
「まあ、わたしは付き合いが長いから貴女の考えもある程度は分かってるつもりだけど、それを一から説明していくのも大変でしょうね」
薫子は「だけど」と言葉を継ぎ足した。
「貴女の職業は何?」
「小説家、だけど」
「公的な言語だけじゃ決して届けられない想いも、詩的な言語に乗せてならきっと届けることが出来る。物語には確かに世界を越えて想いを伝える力がある。それが貴女の考えでしょう? 昔、わたしに散々『芸術家は誰かに届けたい想いがあるから作品を生み出す』なんて語ってたくせに、それを今使わなくてどうするのよ」
薫子は呆れたような口調で言う。彼女からすれば当然のことに私は気づけていなかった。
「そう、か……今こそ書かなきゃならないんだ、私……凛への想いをありのままに描いた作品を……」
私の創作のスイッチが入り始めたのを見越したのか、薫子はスッと立ち上がった。
「さて、と。わたしはそろそろ帰るわ」
「あ、そう?」
「あとはせいぜい頑張りなさいな。後日、結果は報告するように」
「……薫子って何だかんだお人好しだよね」
「わたしはわたしが面白いと思うことの味方よ」
「ありがと。楽しんでもらえるように頑張るよ」
そうして、薫子はあっさりと帰って行った。
彼女を見送った後、私はベッドの端に腰掛けて寝入る凛の顔をジッと眺めた。
私は彼女に対してどんな想いを抱いているのだろうか。
これまで形にすることをどこかで拒んでいたものを、頭の中で徐々に形にしていく。
やがて、私はデスクの前に座ると、PCを起動した。
結局、私は小説を書くことでしか生きていけないのだろう。
なぜなら、こうして書くことを決めた私は確かに高揚を得ていたのだから。
◆
――と、まあ、そういう経緯があって私はこれを書いたんだ。
あなたに伝えたいことがたくさんあって、その内のどれだけを書き込めたかは分からないけど、これまでを振り返りながら私なりの心情を書き込んだつもり。
でも、こうして、思い返しながら書いたことで私も分かったことがある。
あなたの好きなところがこんなにもあるって。私はこんなにもあなたが好きなんだって。
もし気になるなら本文中を探してみて。節々に書き記したつもりだから。
でも、何度も言うようだけど、私という存在は間違いなくあなたを傷つけるよ。
だって、私は芸術家だから。
私にとって芸術家とは、集団の倫理に囚われてはならない存在。
それはすなわち、悪である、ということ。
私は己の作品に必要とあれば、犯罪行為だって厭わない。殺人、強盗、薬物、他にも色々と。
そんな存在と共にいることがどういうことか、分かるでしょ?
だけど、私はそんな存在だからこそ、この世界で出来ることがあるって、自分勝手な
私が往くのは悪意で敷き詰められた道。
どんな犠牲を背負ってでも人々に届けたい想いがある。
さて、ここまでを読んだあなたがどんな感情を抱くか、私には想像も出来ない。
けれど、私はあなたの選択を聞いてみたいと思う。
願わくは、その選択が二人にとって善い未来へと通じていることを。
あらあらかしこ
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