第3話

 それから私と凛は週に二回程度のペースで食事を共にするようになった。

 そうして、私達が知り合ってからおよそ一月が経過した。

 外はすっかり身を裂くような寒気が満ちるようになっていた。

 この一月で互いの呼び方は『凛さん』から『凛』に、『雪那ちゃん』から『せっちゃん』に変化した。親しみの表れに思う。


 凛の仕事についても僅かながら知ることが出来た。

 広告業界で働いていること。そこはどうやら過酷な労働環境であること。不定期に休日出勤までしているようだった。

 その為、彼女は疲れた顔を見せることも多かったが、私に不平不満を漏らすようなことはなかった。抱え込んでしまう性格に思うので心配だったが、私はまだ深く突っ込んで言えずにいた。


 そうして、ある日のこと。

 私はいつものように凛へ食事の誘いの連絡を送っていた。彼女は大抵、仕事終わりに返事をくれるので、夜になることがほとんどだ。

 しかし、その日に限っては夜になっても返事が来なかった。

 時刻は既に二十二時を過ぎている。


 やがて、日も変わろうという時間になって、隣の部屋の扉が開く音がした。

 どうやらようやく帰宅したらしい。週末なので飲み会でもあったのかも知れない。私はそんな風に自分を納得させる。

 しかし、隣室からドサッと何かが倒れるような大きな音がした。

 私は居ても立ってもいられず、自室を飛び出した。


「凛、聞こえる? 大きな音がしたけど、大丈夫?」


 返事はない。私は少し躊躇ったが、扉を開けることにする。

 そうして、凛の家に立ち入った私が見たのは、玄関でうつ伏せに倒れている彼女の姿だった。


「凛っ!」


 私はすぐに彼女を抱え起こす。


「せ、っちゃん……?」


 凛は瞼を震わせて僅かに開いた。しかし、その視線は定まらず、宙を漂っている。呼吸も荒い。彼女の額に手を当てると、強い熱を放っていた。

 風邪を引いているのか、もしくは時期的にインフルエンザかも知れない。

 どちらにせよ、このまま放っておけば危険な状態だ。


「凛、救急車呼ぶから」


 私がそう告げると、彼女は首をゆるやかに振った。


「大丈夫、だよ……ほら、ここまで帰って、来れたんだし……」


 息も絶え絶えに言う。


「それに、入院とかなっちゃうと、会社の人達やお客さんが困る、から……」


 凛はこんな状態になっても仕事や会社を気にしていた。個より集団を優先していた。

 それは私という人間にとって絶対に許せないこと。しかし、今はそんな話をしている場合ではない。


「……分かった。だけど、少しでも様子がおかしいと思ったら、その時は呼ぶよ」

「う、ん……あり、がと……」


 私は凛の意思を尊重することに決め、その上で自分に出来る行動を取っていく。

 まずは意識が朦朧としている彼女を何とか楽な格好に着替えさせた後、ベッドに寝かせた。

 その後、自室からタオルなど必要な物を取って来た。熱を測ると、三十八度と少しだった。油断は禁物だが、症状としては酷くないように思えた。

 そうして、私は夜通し凛の看病を行った。



 ◆



 窓の外から陽光が差し込む。朝だ。

 私は一晩中起きていたが、これといって凛の様子に異常は見られなかった。

 多少、寝苦しそうにしていることもあったが、基本的には穏やかだった。

 改めて熱を測ってみると、三十七度まで下がっており、顔色も昨夜よりは随分と良くなっているようだ。


 私がホッと安堵の溜息を吐いていると、凛が「……ん」と声を漏らしてから目を開いた。

 彼女は視線を宙で彷徨わせるが、昨夜のように意識が朦朧としているような状態ではなく、困惑の様子だった。


「おはよう、凛。調子はどう? 気分が悪かったりしない?」

「え、と……少し身体が気怠いかな」

「まあ、意識もハッキリしてるようだし、気怠いくらいなら大丈夫か。とりあえず今日は安静にね」

「その、どうしてせっちゃんがわたしの部屋に?」


 凛は覚えていない様子だったので、私は昨夜のことを説明する。


「……ごめん、また迷惑掛けちゃって」

「そう思うんなら、もっと自分の身体を大切にしてよ。昨日もあんな時間まで仕事してたの?」

「……うん。思いのほか長引いちゃって」


 凛は気まずそうに頷いた。私はこれ以上見過ごしておくわけにはいかないと確信する。

 ただ、流石に今はまだ復調もしていないので、その話についてはしないことにした。


「身体、起こせる?」

「たぶん」


 私の介助を受けながら凛は半身を起こした。


「とりあえず汗拭くから、服のボタン外すね」

「えっ、ちょっ、駄目ぇっ! じ、じ、自分でやるから!」

「そう?」


 同性とは言え、羞恥心が働くのはおかしなことではないか、と納得して私は凛にタオルを渡す。

 着替えさせた時や夜中に汗を拭いた時に、色々と見たり触れたりしていることについては黙っておくことにした。実を言えば、少しドキドキしたのも内緒だ。


「それじゃ私はちょっとコンビニ行ってくるよ。経口補水液とか買ってきたいしね。少しの間、一人にするけど大丈夫?」

「へーきへーき」

「あ、それとご飯は食べれそう?」

「うーん、少しなら」

「では、神崎雪那秘伝のレシピによる特製雑炊をご馳走しましょう」

「やった、楽しみ」


 嬉しそうな凛の顔を見ると、こちらも頬が緩んだ。彼女には笑顔でいて欲しいと思う。

 そうして、私は凛の部屋を後にして、コンビニへと向かった。



 ◆



 翌日の晩、私の食事の誘いを快諾した凛はこちらの部屋に来ていた。


「もう体調は大丈夫そう?」

「うん。ご心配をお掛けしました」

「まあ、今日はお酒はなしにしとこうか」

「わたしはまだしもせっちゃんは飲んだら?」

「いや、たまには休肝日も設けないとね」


 私はそんな風に言うが、実際は真面目な話をする為だった。

 そうして、いつものように食事を終えた後、私は遂に切り出すことにする。


「凛。今の仕事はこれからも続けていく気なの?」


 私の問いかけに、凛はスッと表情を暗くした。


「……何で急にそんなことを聞くの?」

「前から思ってたんだけど、残業時間、余裕で規定を越えてるんじゃない? 毎日、朝は普通に七時頃に出て、夜は早くても九時頃で遅いと日が変わるくらいまで仕事してさ。食事が取れないこともあるなんて、まともな労働環境とは思えないよ」


 私は凛がうちに来るきっかけとなった出来事を思い出す。もし自分が通りがからなければ、彼女はどうしていただろうか。あのまま動く気力もなかったのではないか。

 二日前の夜だってそうだ。帰りついた途端に倒れて。もしあれが外だったらと思えば、怖気が走る。この時期だと凍死してもおかしくない。


「……確かに、今の仕事は大変だよ。でも、ただでさえ人が足りてないんだから、わたしまで辞めるわけにはいかない。他の皆も頑張ってるんだから」

「それはおかしいよ、凛。人が足りてないのは会社の問題。どうしてそれを一社員が……いや、あなたが背負う必要があるの」

「そんなの……せっちゃんには分からないよッ!」


 凛は声を荒げてからハッと口を押さえて、か細い声で「ごめん」と呟いた。


「まあ、私はまともな社会経験もないしね。実際、凛がどんな環境にいるかも良く分からないよ」


 私は自嘲するように述べた。それは事実なので反論しようもない。


「だけど、あなたの心身が限界に近いことくらいは分かる。このままだと下手をすれば死んでもおかしくない。そうまでして今の仕事を続ける意味はあるの? あなたにとって仕事や会社は自分よりも大切なことなの?」


 その問いかけに、凛は寂し気な顔をして答える。


「……そう、だよ。わたしは、せっちゃんみたいにやりたいこととか、叶えたい夢とか、何もないから……なら、せめて誰かの役に立つくらいはしたい、その為ならわたしなんてどうなったっていい、それの何がいけないの!?」


 私にはその叫びが自分を騙そうとしているようにしか思えなかった。

 だからこそ、否定しなければならない。本当の想いを聞く為に。


「別に、凛が心の底からそうしたいって思ってるなら私だって何も言わない。でも、違うでしょ? 前に言ってたよね、美味しいとか幸せとか感じなくなってきてる、どうしてこんな風になっちゃったんだろう、って。凛はどうしようもない現実に溺れて、もがき苦しんでいるんだよ。そして、もう足掻く力も失ってきている」

「そんなこと……」


「凛はさっき、せめて誰かの役に立つくらいはしたい、って言ったね。だけど、誰かの役に立った結果として、他の誰かに迷惑を掛けることだってあるんだよ。そんな可能性を考えたことはある?」

「ない、けど……」


 今の凛は自己欺瞞に満ちており、ある種の理想を信奉してしまっている。

 しかし、世の中はどこまでも連鎖的で関係的だ。その為、純粋に誰かの役に立つなんてことはあり得ない。誰かの役に立つことも、誰かの迷惑になることも、複雑に絡み合って出来ている。


「あなたはもっと自分の行いが誰かの迷惑になっていることを自覚しなきゃならない。目を逸らさないで。今ここにいる私がその良い例でしょ? 昨夜だってあなたが倒れたりしなければ、私は悠々と仕事なり読書なりが出来ていたはずなんだから」

「っ……」


 彼女は愕然とした様子でその眼に涙を浮かばせた。

 自分でも酷い言葉だと思う。だけど、これは言っておかなければならないことだった。


「あなたが犠牲にしているのは決して自分だけじゃない。周囲の人間にも多大な迷惑を掛けている。それでも、あなたは会社や仕事が大切だからって、あくまで自分の意思で望んでしていることだって、そう言える?」

「そんなわけっ……」


 彼女は反論しようとするが、尻すぼみになる。


「間違っているなら否定してくれればいいけど、私には凛が属する集団の言いなりになってるだけに見えるよ。その結果、起きている出来事からは目を背けて。そうする気持ちは分かる。だって、今を変えるって大きな力がいるから。そこには痛みが伴うから。環境に流されてるだけって楽だもんね。例えその先が奈落に通じていたとしても」


 私は暗に凛が進んでいる道の先は断崖であることを示す。

 それから柔らかな声色を意識して彼女の名を呼んだ。


「凛。私はさ、今さっき迷惑だなんて言ったけど、あなたを迷惑だと思ったことは一度もないよ。どれも自分でしたくてしてきたことだから」

「せっちゃん……」


 俯いていた凛は顔を上げて、こちらを見た。そんな彼女の目を私は見据えて、告げる。


「あなたが今の仕事を辞められないだけだというなら、私にだってきっと出来ることがあるし、どれだけでも協力するよ。だから、答えて欲しい。あなたは本当に望んで今の仕事を続けているの?」


 私は凛が決して望んで今の環境を享受しているわけではないと確信している。

 だからこそ、彼女に手を伸ばす。この手を取って欲しいと切に願う。


「……わたしだって、辞めようと思ったことがないわけじゃ、ないんだよ」


 僅かな沈黙の後、遂に凛は自ら口を開いた。


「でも、怖い……他の人にどう思われるか、今頑張ってる人に失礼なんじゃないか、そんな考えがどんどん湧き出てくる」


 凛はポツリポツリと言葉を漏らしていく。

 それはまるで心の奥底に秘めていた想いを一つずつ掬い上げていくように。


「気づけば、同期は誰もいなくなってた。わたし一人だけが取り残されちゃってる。上司に言われたこともあるよ、お前は辞めないよな、って。わたしは良い顔がしたくて頷いちゃって。それなのに辞めるなんて言ったら何て言われるか、そう思ったら余計に怖気づいて……」


 彼女を取り巻き、縛る無数の鎖が見えるようだった。

 それは社内の空気だったり、彼女自身の性格だったりと様々だ。


「昔からそうなんだ……何かを選ぶのが苦手で、今を変えるのが苦手で、周りに流されて生きてた方がずっと楽に過ごせて……わたしは、どうしようもないくらいに心が弱いから。せっちゃんみたいに自分のしたいように生きていけるほど、強くはないから」


 彼女は潤んだ瞳で懇願するように私を見た。


「ねぇ、せっちゃん……わたしは君が辞めろって言ってくれるなら、そしたら……」


 その願いに対して、私は首を緩やかに左右へと振った。


「駄目だよ、凛。それじゃ駄目なんだ」


 自分で何かを選ぶということは、誰もその選択の責任を取ってくれないし、誰にも押し付けられない。

 それは自らの人生の全ての責任を引き受けることを意味する。

 この自分が誰でもない自分であると受け入れることを意味する。

 それはとても恐ろしいことだろう。

 けれど、だからこそ、人間はどこまでも自由に生きられる。


「私は私の信条として、凛に自分が選んだ道を、人生を歩んで欲しいと思ってる」

「そんな……」


 凛は梯子を外されたように悲哀を露わにした。

 私はどこまでも自分勝手だ。その為、どうしても譲れない部分がある。

 それでも、私は私なりに伝えられることを言葉にしていく。


「凛は私を強いって言ったね。でも、私だって不安になることはしょっちゅうあるよ。深夜なんてぼんやりしてると、思考の迷路に囚われて良く押し潰されそうになる。本当にこれで良かったんだろうか。もっと真っ当な生き方があったんじゃないか。私はこれまで沢山の人に迷惑を掛けてきたし、これからも掛けてしまうと思うから。それを思うとどうしようもなく辛いし苦しい」

「じゃあ、どうして頑張れるの……?」


 辛いなら止めてしまえばいい。苦しいなら逃げてしまえばいい。

 なのに、なぜ、と。彼女は問うていた。

 私は一度目を閉じて、心の中に浮かび上がってきた文言を紡ぐ。


「だって、生きるって痛みを伴うものだから。痛みを感じるから生きてるって思える。これで間違ってないって思える。疲れたら何度でも休めばいい。だから、少しずつ、一歩でも前へ、痛みを堪えて足を動かす。そうして、進み続けた先にはきっと、私が恋い焦がれた美しい世界けしきが待ってる」


 それこそ、私がこれまでの人生で築き上げてきた信念の結晶だった。

 別に凛が私の信念に共感する必要はない。だけど、何かが届けばいいな、と祈りを込める。


「凛はどうしたい?」


 私は改めて問いかける。あくまで彼女に選ばせる為の問い。


「わたしは……」


 彼女は視線をテーブルに置いた手元に向けて、呟いた。


「……強くなりたいよ。流されるだけで何も出来ないこんな自分を変えたい。せっちゃんのように、これがわたしの生き方だ、って胸を張って言えるようになりたい」


 顔を上げた凛は私を見た。

 その眼は先程までのように揺らいでおらず、決意で定まっているように思えた。


「仕事、辞める。これ以上、せっちゃんに心配させたくないから」

「なら、私も手伝うよ。一緒にやろう」

「うん、お願い。わたしが怖気づかないように支えて」


 そうして、会社を辞める決断をした凛は、実際その二週間後、正式に退社した。残りの期間は貯まっていた有給を消化する形に出来た。

 その後、二人で退社パーティーを行ったが、私が凛と距離を置くようになったのもそれからだった。

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