58話 元スパイは首をかしげた。
「クロウ。オレら、駅前広場に行っとるからな」
店を出た直後。まるで、こうなることは織り込み済みだったと言わんばかりに、ナナミは行き先を指定してきた。
隣を歩く
人気のない路地裏でファミレスの制服を脱ぎ捨て、ゴミ置き場の上に置いてあった元のスーツ姿に着替えながら、俺は戸惑いに指を震わせる。
理解が追いつかない。
なぜナナミは、俺の素性をバラした?
いや、そもそもふたりをストーキングするような真似をしていた俺にも非はあるのだが、にしたって、スパイの素性を明かすのはやりすぎだ。罪と罰が釣り合っていない。
スパイ特有の水平思考をもってしても、その行動の意味が導きだせなかった。
コーヒーをぶっかけられたから逆上した? いや、冷静沈着を常とする現役スパイが、そんな短絡的な愚行を犯すはずがない。犯してはいけないと、厳しく鍛えられてきたからだ。コーヒーをかけられ、熱がっていた素振りをしていたときには、もうすでに奴の頭は平常を取り戻していたはずだ。
なのに、ナナミはバラした。バラしてしまった。
(……なにか理由があって、俺の変装を
だとしても、なぜソレを秋樹の前でする必要があったんだ?
スパイなんて存在を知る必要のない、一般人の秋樹に対して。
(なんであれ、目の前で変装を解かれた以上、秋樹を誤魔化し切ることは不可能だろうな)
あの変装道具は本場ハリウッドでも真似できない『本物』の変装ツールだ。仮装趣味にしては、特殊メイクのレベルがちがいすぎる。
スパイであることを明かした上で、秋樹の納得のいく説明をしなければ、俺の家政夫道はここで
「……大丈夫、大丈夫だ俺。クールにいこう」
着替え終えたあと、ゆっくりと深呼吸をひとつ。
明日からホームレスになるかもしれない、という恐怖に震える指を抑え、ネクタイをしっかり締めると、俺はふたりが待つ駅前広場に向かった。
オシャレなデザインのタイルが敷き詰められた、広大な駅前広場の一画。
噴水を正面に据えたベンチ前で、秋樹は慎ましやかに座って待っていた。どこかぼんやりとした様子で、噴水の水が飛び出る様子をジっと見つめている。
どう声をかけようか……、悩みながら歩み寄ると、不意に、秋樹と視線が重なった。
すると。秋樹は、何事もなかったかのようにこう口を開いた。
変装なんて見ていない、とでも言わんばかりの自然体だった。
「先に帰られましたよ、古谷さん」
「え」
着替えには三分もかけていない。午後の用事もないようだったし。待ちきれずに帰った、というのは、あまりに子供すぎる理由だろう。
(あとは俺に任せた、という意味か……クソ)
胸中で愚痴りつつ、秋樹の隣に腰を下ろす。
「……ナナミは、なんて?」
俺の特殊メイクを剥いでおきながら、一切の説明もせずに帰る、なんてことはしないだろう。一言二言、簡単な事情説明はしているはずだ。
先に帰った理由を聞いているわけではない、ということは、秋樹もさすがに理解しているのか。目の前の噴水を眺めながら、秋樹は淡々と答えた。
「『オレとクロウは同じスパイ組織の仲間だった』『今回は、個人的な用があってクロウを訪ねてきただけ』……そのようなことを仰ってました」
「……そうか」
フルピースの組織名までは明かしていないのか。まあ、そここそ明かす必要はないか。
しかし……ナナミの『個人的な用』とは、いったいなんだ?
アイツは、ボスに命令されて俺を連れ戻しに来ただけじゃなかったのか?
「スパイ、なんですか?」
思索にふける俺に、秋樹がそう核心を突いてきた。
疑念と困惑にまみれた、ひどく懐疑的な問いかけ。
眼鏡の奥の真剣な瞳が、こちらを見つめてきている。
誰もいない昼過ぎの広場。噴水が奏でる水音をBGMに、俺は降参するように……いや、神父に告解する迷い子のように応えた。
もう、言い逃れはできない。
「ああ、そうだ――ただし、『元』スパイだけどな」
「私立探偵、っていう経歴も」
「……すべて嘘だ」
「わたしたちを騙してたってこと?」
「ちがっ、それはちがう! いやまあ、結果的にはそうなってしまったが……俺は、三人にいらぬ心配をかけまいとして、それで」
「――この話」
区切って、わずかに間を置くと、秋樹は上目遣いにこちらを
「スパイだったって話、みんなには黙っていたほうがいいの?」
「ああ……特に、
嘘つきと糾弾されることが怖いんじゃない。なんだったら、ホームレスになることが怖いわけでもない。
俺は、俺が元スパイだったとバレることで、三姉妹との関係が悪くなるのが、なによりも怖いのだ。
「……つまり、この話はクロウさんの『弱み』ってこと?」
「? あ、ああ。そうなる」
「やっと確認できる」
小さく、けれど力強くつぶやくと、秋樹はおもむろに立ち上がった。
「わかりました。みんなにはもちろん、お姉ちゃんたちにも言いません。これは、わたしだけの秘密にしておきます」
安心してください、と心なしかうれしそうに言って、家のある方面に向かって歩き出す秋樹。
その背中を見ながら、俺は思わず首をかしげた。
……やけに素直な反応だな。
もっとこう、どんなスパイだったのかとか、どんなことをしてきたのかとか、スパイに関するあれやこれやを訊かれるかと思っていた。いや、別に言及されたかったわけではないのだけれど。
なんというか、秋樹の関心は、俺がスパイだったことに向いていないような。
俺の経歴ではなく――俺自身に関心の矛先が向いているような、そんな違和感がある。
(……まあひとまず、ホームレスにはならずに済みそう、かな?)
思えば、俺が元スパイだったところで、秋樹たちにはなんら支障はないのだ。驚きこそすれ、俺の過去の経歴などには関心はないのかもしれない。
そう、ホッと胸をなでおろしながらベンチを離れ、小走りで秋樹の隣に並ぶ。
俺のこの楽観視が間違いであることに気づくのは、翌日の早朝のことだった。
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