55話 秋樹はうなずいた。

「俺は、スパイに戻る気はない」

 

 No,007――古谷ふるやナナミからの進言を、俺は躊躇なく断った。

 すると。ナナミは気怠そうにあぐらをかきながらも、すこし意外そうに目を見開いて。


「お前の大好きなボスからのお達しやのに?」


「ボスからのお達しだからこそさ。ボスがすこしでも俺を必要としてくれたのなら、もうそれだけで充分だ。わざわざ三流スパイに立ち戻って、フルピースに負担をかけることはしたくない。俺はボスのために存在しているが、だからと言って、ボスにすべてをゆだねる機械でもない。俺は、俺の選択を優先したい――それに」


「それに?」


「……いまは、守りたいものがあるからな」

 

 自分で選んだこの職場で、三つの宝物を見つけた。

 その宝物を、死を賭して守り抜く。

 それが、『野宮のみやクロウ』の人生のすべてだ。

 

 俺の心からの本音に、ナナミは「ハァー……」と、感心するような呆れているような、そんな複雑な吐息をだした。


「随分とまあ、血の通った台詞吐けるようになってもうて……昔、実戦演習でオレの歯8本折った戦闘狂とは思えへんな」


「……その節はすまん」


「素直すぎぃッ!! 別にもうなんとも思っとらん。ただの嫌味や――んなら、戻ってこいっちゅーボスの命令にはそむく、ってことでええんか?」


 ナナミの再確認に、俺は力強くうなずく。


「そういうことだ。ただし、外でやろう」


 スパイ十指のひとり、No,007を派遣するぐらいだ。

 ボスはおそらく、俺を戦闘不能状態にしてでも組織に引きずり戻す手筈だったのだろう。

『幸運使い』、セブンの実力を駆使して。

 

 和室内の空気がわずかにヒリつきはじめた中。ナナミはなおも呆気らかんとした態度で――いや、俺との戦闘など児戯だとでも言わんばかりの余裕っぷりで、面倒くさそうに片手をひらひらと振った。


「あーあー、そういうのはいらんいらん! たしかに、ボスにもそんな感じのこと言われとったけど、オレはオレで『無理やったら勝手に諦めますからね?』て言うてるから。ボスもそれに了承しとるし、お前が断ったところでオレになんもお咎めはないはずや。無駄に痛いことはしたないわ」


「そうか、それなら安心だ。ありがとう」


「……なんか、ホンマ腑抜ふぬけてもうたんやなあ。ナイン」

 

 用事は済んだとばかりに立ち上がり、ナナミは窓外の景色を見やりながら続ける。


「それこそ昔は、もっと冷徹でギラギラしとったのに、いまではその面影一切なしやん。そんな尖ったお前が、逆にハニトラにかかって任務失敗して帰ってくんのが、オレの唯一の楽しみやったのに……」


「歪んだ楽しみ方をしてたんだな……ちょっとショックだよ」


「まあ、お前みたいな三流スパイには、ぬるい家政夫ぐらいがちょうどお似合いなんやろ――けどな、『クロウ』」


「ん? ――、っと」


 ふと。こちらを振り向いたかと思うと、ナナミが俺の胸に拳をトン、と当ててきた。

 青い瞳を真っすぐこちらに向けたまま、ナナミは言う。


「一度決めたんやったら、最後までしっかり守り抜けよ」


「……ああ、了解した」


「うわー、しょうもな。臭い台詞吐いてもうた。さっさとホテル帰って、若い女の子らと飲み明かしてこよー」


 あーやだやだ、とボヤきながら、襖を開けて和室を出ていくナナミ。


 相変わらず下手くそな応援である。ナナミは軽薄そうに見えて、家族に対してはこうした熱いものを見せるときがあるから、どうしても憎めない。

 思わず苦笑しながら俺も部屋を出ると、廊下を連れ立ちながらナナミが「でも」と話題を振ってきた。


「あの子らを守り抜くっていうんは、命の危険からーみたいな意味やろ?」


「まあ、それが主だな」


「んなら、恋愛面に関しては? 三姉妹が自分の意思でほかの男に――危害を加えるような心配のない安心安全な男に、自ら好意を抱いたうえで連いて行ったりしても、それは容認するん?」


「……まあ、そういうことになる」


 いままで色んなことをしてしまっていながらアレだが……あくまで俺は家政夫であって、彼女らの恋人ではないからな。

 そこまで口出す権利はないだろう。

 ……ちょっと、なんというか、おかしなモヤモヤは残るけれど。


「へへ、それ聞いて安心したわ。ほんなら、一目惚れしたあの子食事にでも誘ったろ――あ、ちょうどええとこに!」


 と。そんなことを話しながら玄関に向かっていると、二階から階段を下りてくる秋樹あきと出くわした。

 その表情は、どこか重い。


「あ……」


 秋樹は一度俺を見やると、なぜかバツが悪そうにふいっ、と視線をそらしてしまった。

 なんだ? いまの反応は。


「どもども! さっき振りっすね、眼鏡の美人さん!」


「……どうもです」


 無視してリビングに向かうかと思われた秋樹は、豈図あにはからんや、しかとその場に立ち止まり、軽々に話しかけてくるナナミに向き合ったのだった。

 はじめて俺と会ったときにも、こんな対応はしなかったのに――ひとり驚愕する俺を置いて、仕事終わりでハイテンションなナナミが声を弾ませて。


「いや、ホンマすんませんね。いまちょうどクロウくんとのお話も終わったところやから、さささっと帰らせてもらいますわ――ただ、そのままホテルに帰るのもつまらんし、できればこの街の観光でもしよー思ってるんですけど、誰か、この街に詳しいひとおらんかなあー?」


 チラチラ、とこれみよがしに秋樹に視線を送るナナミ。

 ハッ。バカめ。

 こんな軽薄極まりないナンパに、秋樹が乗るわけ――


「……もしよろしければ、わたしが案内しましょうか?」


 ――がっつりライドオンしてきたッ!?


「え、マジで!? ホンマに!?」


「このあと用事もありませんし、わたしでよければ、ぜひ……と言っても、越してきたのは四年前なので、そこまで詳しいってほどでもないですけど」


「あーそれで充分充分! ほな、さっそく行こか! もうすぐ行こ! いますぐ行こ!!」


「な……ち、ちょっと待てッ!」


「ほななー、クロウくーん」


 俺の制止もよそに、ナナミと秋樹はそそくさと玄関に向かい、外に出て行ってしまった。

 扉が閉まる間際、秋樹の不思議と決意に満ちた瞳が、俺を射抜く。


「……ど、どうなってるんだ……?」


 玄関に取り残された俺はひとり、この事態を飲み込めずにいた。

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