【書籍版特別SS】元スパイと新妻ギャル
『クロウっちー。あーそぼっ』
「……なにしてるんですか、
桜の一件から一週間が経とうとしていた、ある平日のこと。
近所に住む新妻ギャルこと小林
『お、出たっスねー。無駄なイケメン家政夫』
「無駄は余計ですよ」
インターホンのカメラ越しに飛び跳ね、友達の家に遊びに来た子供のように
いや、まあ……。
小林とは、道端で顔を合わせれば普通に談笑する仲だが、こうして家に遊びに来るほどだったか?
ともあれ。俺はネクタイを緩め、小林のシンボルとも言うべき金と黒のプリン頭を見つめる。
ほんと、綺麗に分かれたプリン頭だな。
いい加減染め直したらいいのに。
「それで、どうしたんですか? こんな昼前に」
『昼前だから来たんスよ。家事が一段落ついてお腹も空き始める、この昼前にね』
「? それは、どういう……」
『これ、なにかわかるっスか?』
そう言って、小林はジーンズのポケットからなにかを取り出すと、カメラにソレを近づける。
【焼肉食べ放題 無料チケット!】
長方形の紙面には、照り光るジューシーな肉の写真と共に、デカデカとそう記されていた。
どこで手に入れたかは定かではないが、小林は焼肉の食べ放題無料チケットを二枚、持ってきたようだった。
二枚。つまりは、ふたり分だ。
無意識に、俺の腹部がグウゥ、と
そんな俺の反応を知ってか知らずか。ひらひらとチケットを見せつけるように揺らしながら、小林はどこか演技口調で続ける。
『クロウっちは大変っスよねー、こんな大きな家の掃除とかを任されて。掃除だけならまだしも、三人姉妹ちゃんのご飯やお弁当も作ってあげてるんスよね? それも、朝早くから』
「ま、まあ、それが俺の仕事ですから」
『そっか、大変っスねー……そんなに一生懸命働くと、やっぱお腹が空いてきちゃうんじゃないっスか? ちょうど家事も一段落ついた、この時間帯ぐらいに』
「ッ……、そうかも、しれないですね……」
意図せずヨダレが口内にあふれだす。
『家事仕事って、結構力仕事っスから。食事も力がつくものがいいっスよねー』
「そう、ですね……後々の効率を考えれば、そのほうがいいかもです……たとえば」
『たとえばー?』
「……焼肉、とか?」
ニヤリ、と小林の口元が悪辣に歪んだ。
コイツ、すべてわかった上で……!
『焼肉? 焼肉っスかー。……あれれー? ここに、近所の
「……こ、小林さん」
『ん、なんスかー? クロウっちー』
嘲笑するような小林の声音。
俺の反応を楽しむように、薄く目を細めている。
屈する必要はない。昼食のカップラーメンの準備は、とうに済んでいる。あとはお湯を注いで三分待てば、俺のこの空腹は満たされる。
しかし。当たり前の話だが、そのカップラーメンもタダではない。ひとつ78円分の食費がかかっている。
それが――ゼロになる。
小林のチケットを恵んでもらえれば、タダにすることができるのだ……!
78円ごときで葛藤すべき問題ではないと思われるかもしれない。だが、ここを節約できるか否かも、将来の主夫力に大きく関わってくる。一円を笑う者は一円に泣くのだ。
プライドを取るか、家計を取るか。
自治会長にして主婦の頂点――
俺は唇を噛みしめ、振り絞るようにして懇願した。
「お、俺を……俺を、焼肉食べ放題に連れていってくださいッ!!」
『モチのロンっスよー。んじゃ、さっさと行こー』
「返答、軽ッ!」
このあと、めちゃくちゃ焼肉食べた。
「お、お腹が破裂しそうっス……うぷっ」
「あれだけサイドメニューばっかり食べてたら、そりゃあそうなりますよ」
「だ、だって、ボテサラが、ユッケが、あーしを呼んでたんスもん……」
「まあ、結局は俺もその誘惑に負けてるんですけど――ほら、大丈夫ですか? 小林さん。肩貸しましょうか?」
「じ、じゃあお言葉に甘え――あ、いや、やっぱ平気っス。お気持ちだけで充分ナス」
「ナスて」
「肩借りてるところ、万が一にもナッくんに見られたりしたら大変っスからね。よいしょ、っと」
焼肉店の壁から手を離し、小林はフラフラとした足取りで帰宅の途についた。
相変わらず旦那さん一筋なんだな。素晴らしいことだ。
だが、急に卒倒されても困るので、いつでもサポートできるように隣を連れ立って歩く。
「というか、突っ込んだことを訊くようですけど」
「あい?」
「小林さんのお宅は、旦那さんおひとりが稼いでいるんですか?」
「そうっスよー。ナッくん、結構高給取りなんスわー。だから、あーしには家事に専念してほしいらしいっス」
「なるほど。素敵な旦那さんですね」
「ふひひ、でしょー? 仕事もできるしカッコいいし、あーしの自慢の旦那さんっスよ。ある意味、憧れっスね。あーしも、負けないようにしないと……」
「今後お会いできる機会があれば、今日のお礼もかねてぜひご挨拶を」
「機会があれば、ね」
「ですね」
おそらく旦那さんは日中仕事で不在だろうから、基本家にいる俺とはそうそう顔を合わせることもないか。休日は俺も、三姉妹の食事などで忙しくなるし。
その後。
最近見たテレビの話題や、家事に役立つ知恵などを話しながら歩き――気づけば、小林夫婦が住んでいるアパート前にたどり着いていた。
「それではこの辺で。焼肉、本当にありがとうございました。すごくおいしかったです」
「それはよかったっス。それじゃあ、またね! クロウっちー!」
それこそ子供みたいに手をブンブン振りながら、アパート内に入っていく小林。
あの様子なら、吐く心配はなさそうだな。
プリン頭の背中を見送ったのち、俺は俺で葉咲家への帰路につく。
俺にとってはありがたい、棚から牡丹餅とも言うべきイベントだったけれど。
頭の片隅に残されたのは、おいしい焼肉のタレの味と。
「……ふむ」
ほんのわずかな疑念だった。
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