【ネタはいいですけど特典SSの文量を考えるとちょっとむずかしいかもですね、っていう理由でボツになった特典SS】元スパイと奴

 十一月も半ばを過ぎた、ある休日のこと。

 葉咲はざき家のリビングに、戦場もかくやといった緊迫した空気が流れていた。

 時刻は、暖かな陽射しが差し込む午後二時。

 俺とさくら秋樹あきは三人そろってリビングのソファ裏に隠れ、『奴』の動向を警戒していた。


「も、もういなくなった……?」


 右隣にいる桜が、怯えきった声でそう訊ねてきた。

 俺はソファ裏から顔を出し、周囲を念入りに見回す。


「……いや、廊下側からわずかに気配がする。まだ家の中にいるようだな」


「そ、そんな……」


 絶望の表情でうなだれる桜。恐怖に震えながら、俺の右腕に抱きついてくる。

 すると。左隣に座る秋樹が、思い出したかのように「あ、えっと……」と戸惑いがちに俺の左腕にしがみついてきた。

 まるで、桜が怖がってるから仕方なく怖がってみた、みたいな動きだったな。


「ね、ねえクロウ。殺虫剤とかないの?」


「あいにく切らしている。こんなことなら買い置きをしておけばよかったな……」


 こういった事態のとき、フルピースでは施設内の専用職員なんかが処理してくれていたから、殺虫剤の重要性を理解していなかった。そうか、家政夫はこうした事態にもすべて自分で対応しなければいけないのだな。不覚である。

 



 つい一時間前のこと。

 朝から干していた洗濯物を取り込み、三姉妹の各部屋に届けようと階段を登ろうとした、そのとき。

 俺の視線と、『奴』との視線が交差した。


 奴は何食わぬ顔で、階段横の壁にへばりついていた。

 黒光りした流線形のフォルムに、二本の長い触覚。ギザギザの足を幾本も有しているソイツは、威風堂々とした立ち居振る舞いでブンブン、と触覚をレーダーのようにブン回していた。


 名前は……口にするまでもないだろう。

 そう。日本語で四文字の、あの呪われた忌み名である。


 噂には聞いていた。日本は高温多湿だからコイツが出没しやすい、と。事実、ご近所の主婦のみなさまは何度も目撃し、撃退したことがあると話していた。

 しかし。それは主に夏場の話だとも聞いていた。まさか、こんな秋も終わりかけの時期に出てくるとは。今日は陽射しも暖かいから、季節を勘違いしたのだろうか?


(とにかく、早々に退治しなくては……)


 奴を目撃したときの、三姉妹のパニック姿が目に浮かぶ。

 俺は手にしていた洗濯カゴをそっと置き、履いていたスリッパを片方だけ手に取った。本来であれば、新聞紙を丸めた『新聞ソード』を使用するのが日本の流儀らしいが、事は急を要する。スリッパが汚れてしまうが、それもあとで洗えばいい。


 覚悟を決め、気配を殺しながらスリッパを振り上げた――次の瞬間。

 触覚を停止させたかと思うと、ガバッ! とそのおぞましい両翼を広げ、奴が俺目がけて飛びかかってきた!


「ぬおッ!?」


 咄嗟に回避する俺。クソ、思わず声をあげてしまった。

 すると、奴は俺をあざ笑うように急旋回したあと、ブブブッ!! と羽音を鳴らしてリビングに入っていってしまった。

 桜と秋樹がいるリビングに、だ。


 直後、家を揺らさんばかりの桜の大絶叫が響いた。

 すぐさま駆けつけた俺が見たのは、まさに想像通り涙目でパニくる桜と、唖然とした表情で奴の飛行を眺めている秋樹の姿だった。


 その後。パニック状態の桜に驚いたのか。奴はフローリングに着地すると、カサカサカサ! と高速でリビングを離れた。

 すぐに俺も追いかけようと思ったのだが、怯える桜に腕を掴まれ「い、いい一緒にいなさいッ!!」と命令されてしまったので、そのままソファの裏に一緒に隠れ潜んだのだった。



 

 とまあ、そんな経緯で。

 俺たち三人はこうして、奴の動向を注視しているのであった。


「ああ……もう終わりだわ、この世の終わり。きっと私たち、アイツに頭からカプッ、って食べられちゃうんだわ! カプッ、って!」


「俺はそこまでの心配はしていない」


 俺が危惧しているのは、家政夫の真の戦場とも云うべき台所に侵入されないかどうか、ただそれだけだ。


「コンロには朝から煮込んでいた大事な角煮かくにが置いてあるんだ……合計五時間、五時間も煮込んでいるんだぞ? 奴が台所に一歩でも踏み入り、あまつさえ角煮の鍋に近づこうものなら、俺はなにをしでかすかわからない……」


「め、目が本気だ……あ、秋樹は私と同じよねッ!? 食べられちゃうの怖いわよね!?」


「え――あ、うん。こ、こわーい」


 棒読みで答えて、左腕への抱きつきを強める秋樹。

 ……いままでの反応やこの棒読みからして、もしかして秋樹のやつ。


「なあ、秋樹」


「な、なんです?」


「もしかして、虫は平気なタイプか?」


 桜に聞かれぬよう小声で訊ねると、秋樹はピタリ、とその動きを止めた。尋問を受ける容疑者よろしくキョロキョロと視線を泳がせている。動揺しすぎだろ。


「べ、べべ別に、平気じゃない、ですけど……? ふ、普通に怖いですけど?」


「……そうか」


 図星のようだった。

 ……なんかゴメン。


 この家の書斎には図鑑も陳列している。その中にはきっと、奴が記載されている昆虫図鑑もあったはずだ――読書家の秋樹は、それらを幼少期から読みふけっていたおかげで、虫に対する耐性がついていたのだろう。


 先ほども、怖がるフリをしていただけなわけだ。こうして俺の腕に抱きついているのも、その一環と。桜がそのことを知らないあたり、かなり徹底して隠してきたみたいだな。虫を怖がらない女の子は女の子にあらず、とでも考えているのだろうか?


 変なところで見栄っ張りというか、なんというか。

 女心はむずかしい。


「なんであれ、こうしていても奴は消えてくれない。俺が単独で退治してこよう」


 奴の移動速度はもう覚えた。次は確実に仕留められるはずだ。

 スリッパを手にしながら言うと、桜が悲壮感漂う顔で右腕を引っ張ってきた。


「そ、そんな! 私と秋樹だけになったら、アイツに一発で食べられちゃうわよ! カプカプッ、って!」


「桜は奴のサイズをどれだけ大きく見積もっているんだ……大丈夫だ、食べられやしない。それに、いざというときは秋樹がちょちょい、と助けてくれるさ」


「……はい?」


 なぜだろう。

 カチリ、と地雷を踏む音がした。

 左腕への抱きつきをグググ、と強めながら、秋樹が圧をかけてくる。


「クロウさん。わたしだって、普通に怖いんですけど?」


「え。いや、だって……」


「こ・わ・い・ん・で・す・け・ど?」


「…………」


 いまの秋樹のほうが奴より怖い、とは、死んでも口にできなそうな雰囲気だった。


「そ、そうだよな。秋樹も怖いよな。すまなかった――それじゃあ、俺は奴を退治してくるから、ふたりとも抱きつくのをやめて――」


「こ、怖いんですから、わたしたちから離れちゃダメですよ……ね? 桜ちゃん」


「うわあああんん! カプッ、ってされちゃうよー! カプッ、ってー!」


 先ほどよりも抱きつく力を強め、俺を再度拘束するふたり。

 パニくっている桜はともかく、秋樹は面白半分でやっているだろこれ!

 なんかちょっとうれしそうに頬が緩んでるし!


 このままではらちが明かない。かと言って、放置していて奴が勝手に外に出て行ってくれる保証もない。

 最悪この家を根城判定して、卵をまき散らす可能性もある。

 そうなれば、毎日桜の絶叫が響き渡ることになる。


(ど、どうにかして退治に行かないと……!)


 焦燥感に駆られつつ、両腕の姉妹をどうするか苦心していると、不意にガチャリ、と音がした。

 玄関の扉が開く音だ。

 俺にはそれが、天使の福音に聴こえた。


「ういー、疲れた疲れたー。やっぱ酒は買い置きしとかねえとダメだなー……って、あ? お前らなにしてんの? かくれんぼ?」


夏海なつみッ!!」


 リビングに現れた救世主――夏海に、俺は手にしたスリッパを放り投げる。

 この戦況をどうにかできるのは、もはや彼女しかいない……!


「頼む夏海! そのスリッパで奴を……名前を呼ぶのもおぞましいあの黒き奴を退治してくれ!!」


「お、おぞましい黒い奴? ああ、もしかしてゴ――」


「夏海ッ! それ以上はお前の口が呪われるぞ! めっ!」


「この歳になって叱られた……てか、こんなん使わなくてもなんちゃらジェット使えばよくね?」


「残念ながら切らしているんだ。俺たちに残された武器はもうそれしか……」


「じゃあ、バ〇サンでいいだろ。あれなら探す手間も省けるだろうし」


「……バ〇サン?」


「知らない? 殺虫剤とか置いてある場所に一緒に置いてあったはずだけど」


 買い物袋をテーブルに置いたのち、どれどれ、とそのバ〇サンとやらを探しに行く夏海。

 程なくして、「ほら、これこれ」と夏海が持ってきたのは、手で掴めるほどの缶だった。


「あ、それなら見覚えがある……それ、殺虫剤だったのか?」


「そうなんよ。大量の煙でいぶして、害虫を駆除するやつ。海外にはないん?」


「いや、煙で駆除するのならある。名称はちがうがな」


 そうか。この缶も殺虫剤だったのか。


「それじゃあまあ、家にキメエのがいるのもあれだし、ちゃちゃっとコイツ焚いて駆除しちまおうぜ――だから、桜と秋樹はとっとと離れような?」


 ニッコリ笑顔で凄む夏海に圧され、ここでようやく俺への抱きつきを解除する桜と秋樹。

 やっと解放された。夏海という姉を前にして、桜の恐怖も和らいでくれたようだ。



 そうして。

 リビングでバ〇サンを焚き、俺たちは家の外に避難した。無論、煮込み途中の角煮の鍋を持ってくることも忘れない。

 

 もくもくと、火事かと見まごうような煙が葉咲邸から立ち上る。

 鍋を持ったまま外で待機し続けるのもアレなので、四人そろって自治会長さんのお家に向かい、時間つぶしをさせてもらうことに。


 三時間後。

 家中の窓を開き、換気をして、トイレ隅で息絶えていた奴の残骸を掃除する。

 …………。


 バ〇サンって、すごいねッ!

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