古話 冬子は回想する。
(まえがき)
WEB版と書籍版とで、内容に若干の差異があります。
こちらはあくまでWEB版の物語としてお楽しみください。
――――――――
「無事、帰ってきたみたいね」
一月初旬。とある地域に向かう旅客機内。
窓際のシートに座るひとりの女性が、スマホを見つめたままそう、ホッとしたようにつぶやいた。
スマホ画面には、日本のS県にある
「おっと」
ふと。青年の視線が家の中の監視カメラに向きかけたのを察知し、女性はスマホのハッキングツールをすぐさまダウン。ベキッ! とスマホを片手で握りつぶした。ハッキングの痕跡を徹底的に残さないための、前時代的かつ確実な方法だ。
「勘だけは
呆れたように言って、粉々になったスマホを片づけると、女性――葉咲
まぶしいくらいの月光が降り注ぐ青白い世界は、冬子にあの日の夜を思い出させる。
愛すべき夫――茂に出会った、あの日のことを。
▲
数十年前。冬子が十五歳の頃。
「すみません。あなたは30秒で何人、倒せますか?」
雪がチラつく寒空の下。西の国の人混みの多いストリートを歩いていると、背後から突然、日本人男性にそんな質問を投げかけられた。
街中でナンパするかのごとく気軽に、軽率に。
冬子は思わず振り返った。誰に声をかけられても無視しているが、今回ばかりは彼の質問の意味が不可解すぎた。
にへら、とだらしなく頬を緩めた、どこか気弱そうな男性だ。かなり若く見えるが、着崩されたスーツからするに、年齢は二十代前半といったところか。くせ毛か寝ぐせか、ボリュームのある黒髪は所々ハねている。身長は180前後。体躯は不健康そうな細身だ。
トレンチコートに突っ込んでいた左手だけを引き抜き、冬子は訝しげな表情で。
「それ、どういう意味?」
「あ、その瞳は日本人ですね? 綺麗な茶髪だったんでこの国の方かと思ってました。実は、僕も日本人なんですよ。ほら」
そう言って、この国の言語から日本語に切り替え、街灯に照らされた茶色い瞳を見せつけてくる男性。
まるで、自分の宝物を自慢する子供のようだった。
「……じゃあ、日本語でもう一度訊きましょうか。さっきの質問は、どういう意味?」
「そのまんまの意味です。あなただったら、30秒で何人の人間を倒せますか?」
「私が訊ねたのは、質問の内容についてじゃなく、動機についてよ。どうしてそんなことを、一般人である私に訊ねようと思ったの?」
「一般人? ご冗談を。一般人の足音はそんなに静かじゃありませんよ。その異質な歩き方は、確実に『裏の人間』のソレです」
「漫画の読みすぎね」
「なにより」
訪問販売員のような薄っぺらな笑みを浮かべ、男性は冬子の隠れた右手に目を向けた。
「こうしているいまも、その右手はいつでも僕を殺せるように準備している。ポケット部分が盛り上がっていないのを見るに、手刀で僕の喉元を突き刺すつもりでしょうか?」
「…………」
「まあなんであれ、こんな警戒心と殺意を持った一般人はそうそういませんよ」
「……そういうサイコな口説きが好きな女性には、あなたの言葉はたまらないかも。悪いわね、私急いでるのよ。あなたの狂ったナンパに付き合っている暇は――」
「監視団体『パシフィックボーン』と、秘密組織『フルピース』に
無視して男性の横を通り過ぎようとした瞬間。
その、聴きなれた組織の名前を耳にして、冬子はまたも足を止めてしまった。
すれちがう寸前の立ち位置のまま、男性は耳元でささやくように続ける。
「空港に着いたときから、ずっと僕の後を尾けてきているんです。確認できたのは、二十二人――あなたの背後七メートルの位置にある乗用車の陰に二人。人混みにまぎれて三人。僕の右手側にある飲食店に五人。その隣のビルの一階と三階と四階、屋上にそれぞれ三人ずつ。全員が全員、足音があなたと同じ『裏の足音』です」
「……、……」
「僕、戦闘はからっきしですけど、生まれつき目と耳、それと勘はいいほうなんですよ」
ですから、と一拍置いて、男性は真剣な表情でこう問うた。
人混みの中でも、やけに通る声だった。
「ほんの1分、いえ30秒だけでいい。おそらく、10秒もあれば人間数百人を倒せるであろうその才能を見越して、あなたを雇わせてほしいんです。緊急のボディーガードとして」
「――――」
「僕はこんなところで足止めを食うわけにはいかないんです。足を止めたということは、あなたも裏に精通した人間だということでしょう? そして、否定もせずに話を聞いているということは、僕の利害があなたの利害に一致しうると判断しかけているからだ。どんな事情があるかまでは与り知りませんが、あなたにとっても、そのふたつの組織は邪魔な存在であるという意味にほかならない――だから、もう一度だけ、今度は具体的にお尋ねします」
区切って、男性は冬子の前に移動すると、溶けてしまいそうなやわらかな笑みを湛えて言う。
不覚にも、冬子はこの笑顔にヤラレてしまった。
「あなただったら、僕の尾行者を30秒で何人倒せますか?」
「……ふたつだけ聞かせて」
肺の空気をすべて吐き出すかのごとく、諦めのため息をひとつ。
準備運動のように手首、足首の骨を鳴らすと、冬子は訊ねた。
「あなたの名前は?」
「
「私は葉咲冬子。私も冬子でいいわ――次に、茂さん。あなたの体重は?」
「54キロです。ちなみに、身長は178センチです」
「軽っ。もっと食べないと生きていけないわよ」
言いながら、冬子はおもむろに、男性――茂を米俵よろしく左肩に担ぎ上げると。
「裏の人間相手には、ね――ッ!!」
ダンッ!! と足元のコンクリートを踏み抜き、直後、真冬の夜空に高く跳躍した。
十メートルは悠々と越える、およそ人類とは思えない大ジャンプ。
砕けたコンクリート片が舞い上がり、冬子のブーツ裏からこぼれ落ちていく。
はるか眼下に遠のいたストリートで、驚愕する民衆にまぎれて、男性の尾行者たちが慌てて動き始めるのが見えた。
だが、冬子たちはいまや手の届かぬ真っ暗な上空。これ以上の尾行は不可能だろう。
左肩に担がれている茂も、冬子のこの行動には驚きを禁じ得なかったようだった。
「30秒で何人倒せるか、ですって?」
チラつく雪を全身に受け、街のビルの尾根を転々と跳梁しながら、冬子は言う。
「答えは『誰も倒さない』よ――なんたって私は、『正義のヒーロー』なんだから」
「……はは、これは参りました」
「茂さんのボディーガード、引き受けてあげるわ。あなたの傍でなら退屈しなさそうだし」
「ええ、それだけはお約束できますよ。残念ながらね」
苦笑して、茂はその柔和な笑みを冬子に向ける。
西の国の寒空の中。互いが互いに恋をした瞬間だった。
茂が追われている理由も、それこそ動機も、冬子にとってはどうでもよかった。旅の途中で問いただすようなこともしなかった。
なんだったら、追われていることを口実に近づいてきた
それぐらい、冬子は茂本人に入れ込んでしまっていた。
情けないくらい、一目惚れしてしまっていた。
だから。
ふたりきりの逃亡生活を始めて、一年が過ぎようとしていた頃。
とある砂漠地帯の宿にて、冬子がこう言い出すのは当然の帰結とも言えた。
なんなら、遅すぎたくらいである。
「茂さん」
「どうしました? 冬子さん」
「私、先月の二日で十六歳になったのよ」
「そうだったんですか? おめでとうございます。なんだ、教えてくれてたらプレゼントを用意しましたのに」
「大丈夫。プレゼントはもうあるから」
「? もうある、とは?」
「あなたがプレゼント」
「……はい?」
「茂さん、私と結婚しなさい。私のこと、いつでも何回でも
「……告白、ワイルドすぎません?」
「返事は?」
「アッ、ハイ」
「ん。よろしい。じゃあ、今日から茂さんは私のものってことで」
「よ、よろしくお願いします」
「そうそう。名字は私の葉咲を名乗って。あなたの『鎧塚』の家は、あまりにもゴタゴタが多すぎるから」
それじゃあ、おやすみなさい、と。
淡々と言い残して、足早に茂の部屋を後にする冬子。
ここに来るまでの旅路で、各組織の追っ手もある程度払うことができ、来月には茂個人と各組織とで、一種の『休戦協定』が結ばれる運びとなった。
しかしそれは、世界を支えてきた組織が一個人(主に冬子)にひれ伏した、という敗北の証明になりかねない――そこで組織の老人たちは、締結はするものの、この協定の存在を完璧に秘匿、歴史の闇に葬ることを決めた。
だが、年を重ねた者とは
そこで冬子は、茂との婚約を『盾』にすることにした。
裏の人間は、吸血鬼が太陽を避けるかのごとく、表の人間への干渉を極端に嫌う。
であれば、冬子という『一般女性』と結婚してしまうことで茂を一般人に……表の人間に染めてしまい、安易に手を出せなくしてやろう、という魂胆だ。
「これで誰も茂さんに手を出さなくなる。茂さんが、私だけのものになる……私だけの」
事務的に……いや、まるで自身に言い聞かせるようにつぶやきながら、冬子はたどり着いた自室の扉に手をかける。
その最中。気丈に振舞う彼女の耳が真っ赤に染まっていたのは、誰も知る由もない。
その後。冬子が子宝――のちの
子供を育てるために、冬子は家事に専念することにした。
その間の『正義のヒーロー』は茂が請け負うことになった。
頼りないことこの上なかったが、冬子との旅の中で、茂もそれなりに腕をあげている。なにより、彼には
幸せだった。
しかし。
現在軸から数年前、その幸せは唐突に途絶えた。
茂が海外出張に行き、三日が経とうとしていたある日。リビングに、無情なコール音が響いた。
冬子が受話器を取ると、出張先の大使館から「葉咲茂が死亡した」と告げられた。
唐突に、なんの感情もない声で。
死因はトラックの巻き込まれ事故。全身の損傷がひどかったため、遺体はすでに焼却済とのこと。遺品は持っておらず、宿泊先のホテルにも残っていなかったと、報告は続いた。
「ふ――、アハハハハハッ!!」
冬子は笑った。笑うほかなかった。
勝手に遺体を処理したことに激昂した? ちがう。
ずさんな対応に? ちがう。
電話先の大使館の人間の、あまりの演技力の低さに――だ。
ふと視線を落とす。
左手の薬指で光る結婚指輪――茂とおそろいの指輪は、彼が生きていることを示すかのように赤く点滅していた。
この指輪には超小型の発信機が取り付けられている。そして、宝石の部分を指でつまみ、上から十秒間、水平方向に七秒間、真上に三秒間引っ張ることで、相手の鼓動を確認することができる。指輪を外し、他人が装着しても、この探知機能は作動しない。指輪購入時に設定した葉咲冬子と葉咲茂の心臓の鼓動に『だけ』反応するようになっている。
つまり。
トラックに巻き込まれて死んだ、だなんて真っ赤な嘘。
いま現在、葉咲茂はどこかで生きている、ということだ。
彼の才能を狙い、あの老人たちが協定を破って拉致した? 一番有力に思える推理だが、タイミングが謎すぎる。狙うのであれば、もっと効果的な場面は何度もあったはずだ。別の組織の可能性もあるが、それは無限に推測が広がってしまう。
まあ。
どのような理由であれ、裏の人間が表の『葉咲茂』を殺し、裏の世界に引きずり戻したことに変わりはない。
「では、『上』の方たちにこうお伝えください」
主婦業を続ける中で会得した愛想笑いを浮かべ、冬子は言った。
「
□
あれから数年。
冬子は『正義のヒーロー』として復帰する傍らで、茂の捜索にあたった。
娘である三姉妹に、茂が生きていることは伝えていない。葉咲茂生存という機密情報漏洩につながり、最悪三姉妹が狙われることになりかねないからだ。
茂を捜しだすのは、妻である冬子にしかできない任務。
それが、冬子にとってすこしだけうれしかった。
「いなくなってんだから、さみしいはずなのにねー」
それでも、生きている。
その事実だけで、冬子はいくらでもがんばれる。
常に前向きであることも、『正義のヒーロー』の条件なのだから。
なんてことを考えつつ、冬子は猫のように背伸びした。
と。機内に着陸の案内が流れ始めた。まばらに座っていた客たちが降りる準備をしだす。冬子も同じように準備をし、一足先に飛行機の出入り口付近にまで歩を進めた。
背中に荷物を背負って、寒さに凍えぬよう着慣れたトレンチコートをしっかりと羽織る。
「あの、お客様? まだ到着しておりませんので、席のほうにお戻りに……」
「ゴメンなさいね。ちょっと急いでるから、先に降りさせてもらう、わ――ッ、!」
「え」
言いながら、冬子は搭乗口の扉をガゴン!! と片足で蹴り飛ばし、躊躇なく青白い夜の世界に飛び出した。
「なッ……お客様ッ!?」
「扉の修理費用は匿名で航空会社に振り込んでおくからー! それでよろしくー!」
客室乗務員に告げたあと、冬子の肢体は急下降を始めた。
体感にしておよそ五秒。月明かりの広がる幻想的な雲海を突き抜け、目的地の上空に出た。
小ぶりの雪が降る街並みを眺めながら、背中の荷物に手を伸ばす。
「よ、っと」
反動をうまく逃がして、無事パラシュートを開くことに成功した。
街中では目立つので、郊外を落下地点に定め、軌道を修正する。
ふと。雪と共に寒風が吹きすさんだ。
肩を震わせ、思わずトレンチコートの襟を立てる。
いつかの出会いの夜にも着ていた、あのトレンチコートだ。
「……絶対に見つけ出してやる。茂さんは、私のものなんだから」
あらたに決意を燃やし、冬子は着地の準備に入る。
細身の誰かを担いでいた左肩が、やけに軽く感じた。
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