51話 ローガンは夕焼けに微笑んだ。
「この二年間。レイ・メタルは、ローガン・メタルとして偽りの人生を送ってきた。
「つまり、『半分大嘘』ってのは、さっきの話をローガンの供述として受け取るのであればすべて真実だが、レイの供述として見るのなら『虚偽』でしかない、って意味だ。
「他人になりきる変装使い。スパイすらも騙し抜く偽装テクニック。
「さすがはスパイ十指、と褒めるべきかな?
「お前がレイであると気づくまでに、水平思考を駆使する必要はなかったよ。
「それぐらい、お前の正体は突き止めやすかった。
「――いつ、どこでバレたんだって顔をしているな?
「ポイントはいくつかあるが、最初に疑念を持ったのは、お前の家に招かれたときだ。
「電話越しにキャサリンの命令を聞いたお前は、こう口にしていた。
〝ぼ――お、オレを殺すつもりなのか……ッ!?〟
「後日キャサリンに確認したところ、ローガンの一人称は俺と同じ『オレ』。
「レイの一人称は、『
「そう。あのときお前は動揺して、『僕』と、思わず素の一人称を口にしかけていたんだ。
「これだけじゃない。
「そのあとお前は、殺されるわけにはいかないとテーブルから立ち上がり、俺にファイティングポーズを取ってみせた。
「左拳を前、右拳を後ろに引いた形だ。
「元スパイのお前にあらためて説明するまでもないが……これは、基本的に『右利き』の人間が取る戦闘スタイルだ。
「『左利き』のローガンが取るべきスタイルでは、絶対にない。
「そのときばかりは、動揺のあまり、ローガンを演じきることにまで頭が回らなかったみたいだな。
「これもまたキャサリンに確認したことだが、レイ・メタルは右利きだったそうだよ。
「
「本当、双子みたいなふたりだよ。
「三人兄弟だったら、もうひとりの名前は真ん中の
「さておき――オリビアの前で、何回も何回もスプーンを落としていたのはそのせいだったんだ。
「お前はローガンになりきるために、右利きから左利きに矯正していたんだよ。
「スプーンの持ち方を覚えたばかりの赤ちゃん……オリビアの表現も、なかなかどうして、言い得て妙じゃないか。なあ、二歳児の『ローガン』?
「……だんまりか。ふむ、賢いな。
「ここでの不用意な発言は自滅につながると無意識に理解している。冷静で、理知的で、頭脳派の考え方だ。
「完璧な、ポーカーフェイス。
「とても、本来のローガン・メタルの性格とは思えない。
「キャサリン曰く、本物のローガンは猪突猛進で大胆不敵、頭脳プレーなんて思いつきもしない、ポーカーフェイスなんざ大の苦手な、根っからの
「そう、いまのお前とは真逆だ。
「そんな、本来脳筋タイプのローガンが、H島での麻薬売買を二年間、完璧に阻止してみせた。知略を巡らせ、巧妙に。
「だからこそ、キャサリンはいまの『ローガン』に疑問を抱き、H島に発つことを決めた。
「女の勘ってやつか。キャサリンは
「だから、キャサリンはお前に直接会うことを避けた。直接会えば、親なんだ、『子供』がすり替わっていることには一目で気づいてしまうから。
「そして、そのすり替わりに気づいたら最後、キャサリンは局長としてもう片方の子の行方を問い詰め、『仲間殺し』の断罪を下さなければいけなくなる。
「子供をもうひとり、失くさなければいけなくなる。
〝……いや、それだけはやめておくわ〟
「
「キャサリンはとにかく、家族を失いたくなかったんだ。
「俺がH島に連れて来られたのも、それが理由。
「キャサリンは俺を仲介させることで、白々しく『ローガン』を諜報部から除籍。お前を『元スパイ』にしてしまうことで、『仲間殺し』の大罪を背負わせないようにしたんだ。
「本当、つくづく甘いスパイだよ。
〝『あの子』のこと、おねがい〟
「……だが、俺はアイツほど甘くはない。
「だから、俺はお前に真実を突きつける。
「キャサリンを苦しめ、悲しませた罪を、キッチリ償ってもらう。
「それが、俺のすべき『
「――ああ、わかってる。
「ここまでの俺の話は、言わば憶測だ。お前をレイだと断定する証拠にはなりえない。
「お前をレイ・メタルだと証明する物的証拠は――ふたつ。
「まずひとつ目は、洞窟の『白骨』だ。
「さっきも説明した通り、あの遺体は比較的綺麗な白骨だった。おかしな傷はひとつもない、綺麗すぎる白骨だった。
「……おかしいと思わないか?
「レイ・メタルは変装使いだ。時には、自身の骨を削って、女性の低身長に扮することもあった。
「であれば洞窟の白骨も、整形を繰り返して傷だらけになった、ボロボロの骨が残されているべきだ。
「にもかかわらず、洞窟のあの白骨は綺麗だった。綺麗すぎたんだ。
「レイではない、別の人間の骨であるという証拠には充分だろう。
「そしてふたつ目は、ゲイン・ハルトの診療所に残されていた『血痕』だ。
「そう、ゲイン・ハルト。
「このH島で二年前に失踪した医者の名前だ。知らないはずないよな?
「レイの顔を、そのローガンの顔に整形手術した、フルピースの末端に属する医者のことだよ。
「俺がいま世話になっている地域でも、同じような人間がカフェを経営していた。それと同じように、ゲイン・ハルトも町医者として社会に溶け込んでいたんだ。
「スパイとしての癖か。お前はローガンに会いに行く前に、H島がどんな場所か、そこにフルピースの人間がどれほど潜伏しているか、しっかりと事前に調査していた――ローガンを突き落としたあと、その事前調査の情報を頼りにお前はゲイン・ハルトの診療所に向かい、自身の身体をすべてローガンそっくりに整形させた。
「元々体格が似ていたから、整形手術もそこまで難航はしなかったはずだ。聞けば、声まで似ていたそうじゃないか。身体もローガン、声もローガン、おまけに怪力能力もローガンにすこしだけ似ているときた。まあ、本物のローガンだったら、腕相撲で俺の手の骨を砕いてただろうけどな。似ている程度でも、岩を動かすくらいはお手の物だったんだろう。
「これで顔さえ変えてしまえば、誰に気づかれる心配もない。
「そして術後、ゲイン・ハルトを証拠隠滅のために殺害した。
「その日お前は、二度の『仲間殺し』を犯していた、ってわけだ。
「念入りに、殺害現場となった手術室……果ては診療所全体を、丁寧に丁寧に拭き取ったんだろう。診療所に不審者の指紋、および血痕らしき血痕は一滴も残されていなかった。その異様な綺麗さは、警察が失踪事件と断定するほどだった。
「だが、手術器具の細かな隙間に入りこんだ血液までは、さすがのお前でもカバーしきれなかった。
「――ああ、そうだ。
「あの診療所から、お前……レイ・メタルの血痕が見つかったんだよ。
「診療所を売り払わずに置いておいたキャサリンの采配に感謝だ。まあ、アイツはこんな未来まで予測していたわけじゃないだろうがな。
「俺がこうしてフライト時間をズラしたのは、朝から診療所を隈なく探索し、発見した血痕の検査結果を待っていたせいだ。
「二年前の血痕となると正確な結果が出せないんじゃないかと心配したが、ここ最近、三十数年前の血痕の判別に成功したという研究報告が出たらしい。二年前程度の血痕なら、問題なく判別できるってわけだ。
「その結果、診療所に置かれていた器具……ドベーキーの一部に付着していた血液が、レイ・メタルのDNA情報と完全に一致した。
「わざわざ言うまでもないことだが、俺たちスパイは孤児だ。ゆえに、社会上には俺たちの情報は塵一つ残されちゃいない。
「しかし、フルピース内のデータバンクには、俺たちの個人情報がしかと残されている。
「解雇させられた俺の情報も、二年前から行方知れずの誰かさんのDNA情報も、全部な。
「――とまあ、以上がお前の正体に関する真実だ。
「このふたつの証拠を
「なあ、きみだってそう思うだろ? ――オリビア」
□
そう呼びかけて、俺――野宮クロウは、背後の茂みを振り返った。
すると。枝葉を縫うようにして、亜麻色の髪の女性――オリビアが崖上に姿を現した。
その表情は、信じられないものを前にしたかのような、茫然自失としたソレだった。
〝きみなら、どちらを選ぶ?〟
昨夜。空港近くの飲み屋でのこと。
俺がそう訊ねると、オリビアは目を伏せたあと、意を決したようにして顔をあげ、こう答えた。
〝『辛い真実』〟
〝……それは、どうして?〟
〝出会った当初、付き合い始める前の頃に、ローガンが私に言ってくれたの〟
楽しい思い出話を語るように、オリビアは述懐する。
〝『オレは嘘が苦手だし、嫌いだ。だから、真実の気持ちだけを伝える。きみのことが好きだ、付き合ってくれ!』――って。人通りの多い、夕焼けの交差点で急に言われたものだから、私びっくりしちゃって。しばらく言葉が出なかったわ〟
〝ストレートすぎる告白だな……〟
〝ほんとにね。でも、私はその告白にすごく心を打たれた。あそこまで素直な気持ちをぶつけられたのは初めてだったの。ああ、このひととなら素敵な毎日を過ごせるかもしれないって、本気でそう思えた〟
〝…………〟
〝だから……そう、だから、私は『辛い真実』を選ぶわ。どれだけ幸せにまみれていても、彼が嫌いと言った嘘は選びたくないから〟
〝……了解した〟
そうして俺は、明日ビーチ南西にある崖上に来てくれ、とオリビアに告げたのだった。
彼女に、ローガンの
ローガン……いやレイは、突如現れたオリビアに驚き、目を見開いていた。声をもらさなかったのはスパイの矜持か。崖下に打ちつける波と風の音で、茂みに潜伏するオリビアの存在には気づかなかったみたいだ。
オリビアが亡霊のような足取りでレイの前に立った。警戒心を抱いているのが目に見えてわかる。その距離、約二メートル。およそ恋人同士が話し合う距離感ではない。
お茶会のときのような朗らかな会話はない。
沈黙が、ふたりの間に流れる。
レイは、何度も口を開きかけて、結局は閉じていた。なにを話せばいいのか、謝罪するにしてもどこから、なにから謝ればいいのか、そもそも謝るべきなのか、わからなくなっているのだろう。
そんな、重苦しく沈鬱とした空気を破ったのは、オリビアだった。
「いまの、クロウさんの、話」
たどたどしく、震えた声音でオリビアは問う。
「ほんと、なの……?」
「――、……ッ!」
キッ、とレイの鋭い視線が俺に向けられる。
詰めの一手をオリビアに任せるのか、と、それはそう言いたげな恨みがましい目だった。
彼女を呼んだのはローガンの正体を伝えるため、ただそれだけの理由でしかないが……いまはそう勘違いされてもいい。
レイ・メタルの、真実の『想い』を吐き出せるのなら、それで。
「ね、ねえ……どうして黙ってるの? ローガン……?」
「――――レイだ」
と。
思案するように目をつむったのち、レイはひとが変わったかのように……あるいは開き直ったかのように、高圧的な態度でそう告げた。
「僕の名前は、レイ・メタルだ。二度とローガンと呼ぶんじゃない」
「……、う、そ……」
「そう、すべてそこの死神の推理通りさ。僕はローガンを殺し、町医者を殺し、ローガンになり替わって、きみの恋人役を演じていたのさ。組織に殺されないようにするために、この二年間ずっとね。ローガンそっくりだろ? この顔も身体も、全部」
「……、……」
「ああ、これでようやくスッキリできる。さっきは突然のことで驚いちゃったけど、きみがここに来てくれてよかった。好きでもない一般人の傍に居続けるのは、変装使いの僕と言えど、さすがにストレスだったんだ。やっと肩の荷が下りる。やっと、きみとの恋人ごっこを終えることができる」
「……ろ、ローガ――」
「その名前で僕を呼ぶなッ!!」
すがるようなオリビアの言葉を、レイの叫び声が吹き飛ばす。
まるで、泣いているような叫びだった。
「きみが好きだったローガンはもう死んだ、僕が殺したんだッ!! いつまで死人にしがみつくつもりなんだ? さっきの死神の話でわかっただろ。ローガンはもういない。ローガンはもう、この世にはいないんだ! わかったら、さっさと新しい恋人でも作って、別の国にでも移住することだ。こんな島にいても、ローガンの顔がチラつくだけだろうしな」
「――、あ……、…………」
「そうだ、最後にひとつ」
区切って、レイは数歩前に踏み出すと、おびえるオリビアにこう言い放った。
「紅茶、何杯も何杯もごちそうさま。最高にマズかったよ」
「ッ……、――!」
大好きなローガンの顔で告げられる、最低な別れの言葉。
辛い、真実。
オリビアは頬に涙を伝わせ、口に手を当てて嗚咽を押さえると、たまらずといった風に駆け出し、崖上を後にした。
彼女の背中がビーチ沿いの大通りに消えたのを見届けたあと、俺は無言でレイに詰め寄り、目の前の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。
「どういうつもりだ?」
「なにがだ?」
「とぼけるなッ!! 俺は、そんなガキみたいな意地を張らせたかったんじゃない! 俺は、お前の『想い』を吐き出させるためにオリビアをここに呼んだんだ!」
「僕の、想いを……?」
レイの胸ぐらから手を離し、俺は言う。
「お前を逮捕することはもうできない。フルピースとして断罪することもできない。それでも、俺がこんなお節介な『事後処理』を請け負ったのは、名探偵を気取って真実を明かすためじゃない。お前の隠された『想い』を明かすためだったんだ」
「なにを言って……」
「ローガンの遺体を隠蔽したのは、キャサリンに殺されたくないからだとお前は語った」
オリビアの涙を見たからか。
珍しく、詰問する俺の声は怒りに震えていた。
「だが、お前は変装使いだ。敵地に単身で潜入するという、高難度の任務をこなすトップスパイだ――そんな、最も死に近い任務をこなしてきた、肝の据わったお前が、いまさら『仲間殺し』の罪におびえる? ありえない、ありえないんだよ、レイ! 過去のお前の在り方が、
「……、……」
「とっくにわかってるはずだぞ、レイ。お前はもうその『想い』に気づいてる。ポーカーフェイスのお前がなぜ、キャサリンの命令を聞いて動揺し、右利きの癖を露見した? 殺されないことを知って流したあの涙はなんだ? ローガンの遺体をさらした本当の理由は? そもそも、どうしてお前はローガンになり替わろうとした? そのすべての疑問が、たったひとつの答えでつながってるんだ」
「――――」
「ローガンを殺した罪も、町医者を殺した罪も、オリビアを騙した罪も消えない。けれど、お前が抱いたその辛い真実を吐き出すことぐらいは、許されたっていいはずだ。むしろ、オリビアはその真実こそを知りたがって――」
「――バカバカしい」
俺の必死の訴えをさえぎり、レイは襟元を正すと、崖先に視線を向けてしまった。
これ以上は聞きたくないとでも言いたげな、そんな素振りだ。
「スパイを辞めて妄想癖でもついたのか? 死神が聞いてあきれる」
「レイ……」
「決めた」
話は終わりだとばかりに伸びをして、レイは続ける。
「僕は今夜中にH島を離れて、オリビアが来ることのないような遠い僻地に行く。彼女に関わることは今後一切ない。ローガンを殺した罪を、ひとりで償っていく。それでいいだろ?」
スパイとして死んでいる以上、いまのレイは一般人の『ローガン・メタル』だ。
俺や警察機関はもちろんのこと、フルピースも彼を捕える理由がない。
「本当に、オリビアにはなにも伝えないで行く気か?」
もう一度だけ、真剣な声音でそう訊ねると、レイは逡巡したのち、困ったように苦笑いをしてみせた。
「伝える必要がないからな。僕が偽物だとわかった以上、彼女は僕に関わるべきではない……いや、最初から関わるべきじゃなかったんだ、本当は」
「ッ~~だああああッ!!」
ここまでが、俺の我慢の限界だった。
「クソ面倒くさいッ!! 鈍感野郎ってのはお前みたいな奴のことを言うんだろうな!」
グサッ、と、すさまじいブーメランが後頭部に当たった音がした気がした。
「レイがそういう態度で来るのなら、もうわかった。お前には期待しない。その代わりに、俺がオリビアをここに連れ戻してくる! そこで、もう一度お前の想いを話すんだ!」
「……は? いや、どうしてそういう流れに……」
「うるさい! いいからここで待ってろ! 勝手に出国でもしてみろ、地の果てまで追いかけ回してボコボコにするからな!!」
いいな、待ってろよ! と釘を刺して、俺は崖上を後にする。
最後に見たレイの顔は、ポーカーフェイスの彼らしくない、呆れたような微笑だった。
◇
遠ざかる野宮クロウの背中から視線を切り、レイ・メタルは崖の先に広がる海原を見つめた。
「……あんな感情豊かな奴だったんだな、死神って」
このまま黙って逃げてもいいが、それでも相手は死神クロウだ、本気で地の果てまで追いかけてくるかもしれない。
そんな面倒事を抱えるくらいなら、ここで素直に待機していたほうがまだマシだろう。
「いやしかし、そうなるとオリビアに伝えなくてはいけなくなるのか……」
死神クロウが言っていたことは、ほぼ的中していた。
レイ・メタルには、隠していた『想い』がある。
けれどそれは、決して表に出してはいけない想いだった。
だから、わざと嫌われるように――オリビアが次の恋に向かえるように、あんなひどい言葉もぶつけたのだ。
「こんな状況下で伝えさせるだなんて……まったく、死神らしい」
残虐非道だ、とレイは失笑し、半分沈みかけた夕陽を見やる。
広大な海のスープに、ドロドロに溶けた太陽がひたされていく。途端に光が薄れ、夕焼けの終わりが近づいてくる。
そのときだった。
「え?」
不意に――トン、と。
背後から、なにかに押された。
顔だけで後ろを振り返ると、そこにあったのは、赤いマスクだった。
見覚えがある。これは、二日前に見た、ひったくり犯のものだ。
そのマスクが、レイにぴったりと密着し、背中にナニカを押し込んでいた。
グググ、と力いっぱい、押し込んでいた。
いったいなにを押し込んでるんだ?
そんなことを考えていると、突然、レイはせき込みはじめた。
後、胃から這い上がる嘔吐感。
ビシャッ、と口内から赤い液体が飛び出した。
ああ、血が出てる。
他人事みたいに、レイは思った。
「――台無しだ」
赤いマスクは言う。
レイの背中になにかを――ナイフを、深々と突き刺しながら。
「あの女のバッグを納めれば今月の分は終わりだったってのに、テメエらが邪魔してくれたせいで警察にパクられた。そのせいで、ボスからの信用もなくした――全部、全部台無しだッ!!」
グググ、とさらに押し込まれるナイフ。
ナイフだと認識した瞬間、レイの全身に焼けるような痛覚が走った。
夕焼けが消えていく。
「だから、留置所を出た今日の昼から、テメエの家をずっと見張ってたんだ。テメエの『ローガン』って名前だけは、しっかりと覚えておいたからなあ。見つけるのは簡単だったぜ!」
この辺りに住んでいるローガンという名前の人間は彼しかいない。そして、それがわかるのは地元に住んでいる住民だけだと、クロウはボヤいていた。
そう。
地元の人間であれば、ローガンという名前ひとつで、彼の住居もなにもかも、すべてを知ることができてしまう。
こうして後を尾けて、背中を突き刺すことも、容易にできてしまう。
「三人でぺちゃくちゃ下らねえ話をしてたみてえだが、そのおかげでオレ様の気配にも気づかなかったみてえだな。ザマアねえぜ!」
ナイフを突き刺した状態のまま、パイナップルをえぐるように、ぐりん、と時計方向にかき回すマスク男。
レイの内臓が、修復不可能なまでにない交ぜにされる。
「ッ――、――ッ!」
もれそうな叫び声を堪えつつ、レイは腕を回して抵抗した。
それを見てマスクの男は崖先のほうに後退し、距離を取ったが、ナイフはいまだレイの背中に生えたままだった。
レイの視界が、急に霞む。
ドサッ、となにか重い荷物が落ちるような音が、近くからした。
それが、自分が地面に倒れ込む音だと気づくのに、数秒かかった。
「は、あははははははッ!! ザマア、ザマアねえなおい!! オレ様の邪魔をするからこうなんだよッ!! そのまま勝手に死んで――――、うぇ、――ッ?」
ふと。
ボヤけはじめたレイの視界から、マスク男がフッ、と姿を消した。
見間違いでなければ、崖の先に飲まれるようにして消えたようだった。
数秒ほどして、遠くから、グシャッ、とスイカが落ちたような音が聴こえてきた。
崖下からのようだったが、その音の発生源をたしかめる余力は、いまのレイには残されていない。
面白いぐらい急速に、血溜まりが広がっていく。
ヒュー、ヒュー、と呼吸が細くなっていく。
「……は、はは……まったく、ザマアない最期、だ……」
うつ伏せに倒れたまま、虚ろな視線を夕焼けに向ける。
消え入りそうな夕陽の奥に、レイはオリビアの後ろ姿を
白状する。
僕は、あのオリビアという女性に、心底惚れてしまっていた。
人生ではじめての一目ぼれだ。
ローガンに会いにH島に向かう前日。事前調査で、ローガンの家に何度も足繁く通うオリビアの顔写真を確認して、僕は電撃に打たれた。
その瞬間から、兄弟の偶然の死を利用してでも、彼女の隣にいたいと願ってしまった。
写真ひとつでこんな気持ちになるだなんて、我ながら気持ち悪い奴だとは自覚しているけれど。
だから、そもそもローガンになり替わろうと思った――彼女の傍にいたいと、そんなスパイらしからぬ夢を抱いてしまったから。
だから、キャサリンの殺害命令を聞いて、思わず動揺した――死ねば、オリビアと別れることになるから。
だから、殺されないことを知って涙を流した――オリビアと一緒にいられることがうれしかったから。
だから、死神たちが来ているこのタイミングで、ローガンの遺体をさらした――レイ・メタルの遺体が見つかれば、僕は本物の『ローガン・メタル』として、オリビアと生きていくことができるから。
オリビア、オリビア、オリビア、オリビア。
僕のこの二年間は、すべて彼女で埋め尽くされていたんだ。
「ゴメン、な……ローガ、ン…………」
ローガンが落下死してしまったのは、本当に事故だった。
彼が両腕で僕を拘束し、崖のほうに踏み出した理由も、本当はわかっている。
オリビアとの日々を過ごし、一般人の感性を学んでいく中で、知ることができた。
彼は僕を殺そうとしたんじゃない――崖に踏み出したのは、ただ僕が崖先に立っていただけのこと。力の強いローガンに押されて、立ち位置的にそうなっただけのこと。そして、両腕を拘束してきたのは……僕を抱きしめてきたのは、全身を使って、感謝を伝えるためだ。
すまない。
本当に、すまない。
それでも、オレはオリビアと一緒にいたいんだ。
本当にすまない。
……ありがとう。
そう、僕に伝えようとしたからだ。
その思いを僕は振り払い、結果、ローガンを崖から突き落としてしまった。
ローガンになり替わろうとしたのは、だから、真剣に贖罪の意味も込めていたんだ。
もちろん、死神の言う通り、ローガンを……そして医者を殺し、オリビアを騙した罪は、到底許されるものではない。
けれど――それでも。
それでも、ほんのすこしだけ、吐き出させてほしい。
こんな罪まみれの僕の吐露を、沈む夕焼けに溶かしてほしい。
「オ、リ……ビ……、ア……」
好きだ。
好きだったんだ。
彼女がローガンを見ていたことはわかっている。僕を見つめながらその実、背後にいるローガンの面影を追っていたことも知っている。薄々、僕と本物のローガンのちがいに気づき始めていたことも理解している。
それでも、好きだった。
ローガンじゃなくて『僕』を見てくれたのなら、どれだけ幸せなんだろう。
そう願わずにはいられないほど、僕はきみのことが好きだったんだ。
きみの恋人を殺してしまった僕なんかが抱いてはいけない、決して表に出してはいけない『想い』だけれど、心の中で叫ばせてくれ。
好きだったんだ、オリビア。
本当に、好きだったんだよ。
出会いがちがえば、僕たちは友達になれていただろう。
けれど僕は、きみの傍にいたかったんだ。友達じゃあ嫌だったんだよ。
ゴメン、ローガン。
すぐそっちに行くから、全力で謝らせてくれ。許してくれるかな?
いや、僕は地獄行きだろうから、天国のお前には謝ることもできないかもな。
ゴメン、オリビア。
夕焼けを背に駆け寄ってくる、茜色のあなたが好きでした。
ゴメン。
本当に、ゴメンなさい。
でも。
「あ……り、……がと、………………」
夕焼けが終わると同時に、レイの瞳から光が消えていく。
最期。目をつむるレイの表情は、やさしそうに微笑んでいた。
忙しなく打ちつけていた波は静まり、凪ぎが来る。
ようやく、
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