43話 ローガンというスパイが死んだ。
諜報部局長らしからぬ甘さとハチバンの一件を体験した人間であれば、たとえ酔っぱらっていようとも、キャサリンにローガンを殺す気などサラサラないことは一目でわかるだろう。
それに彼女は、わざわざこう付け加えて命令していた。
〝――そこのローガン・メタルっていう『スパイ』を――〟
要は、ローガン・メタルはスパイとして役に立たない――死んだも同然の存在であると証明すればいいわけである。
そう、ハチバンのときと同じように。
(同じ手法を二度も要求してくるとは……キャサリンも存外、芸がない)
呆れつつ、俺は通話の切れたスマホを仕舞い、対面のローガンを見やる。
平然とした態度の俺とは対照的に、ローガンは。
「ぼ――お、オレを殺すつもりなのか……ッ!?」
めちゃくちゃ動揺していた。
キャサリンの命令を額面通りに受け取ってしまっているようだ。
……いやまあ、それも仕方ないか。
キャサリンの素を知っている人間は俺を含めても極わずかで、諜報部内では『冷酷無比な局長』というイメージが定着してしまっている。その一面を知らない人間からすれば、キャサリンは裏切り者のスパイを容赦なく殺す悪魔のように見えるのだろう。
先ほど十字路で俺と会い、キャサリンのおつかいで来たと告げられたときも、だから、ローガンはあれほどまでに驚愕していたのだ。
そういう意味では、俺の死神という二つ名も、あながち間違いではないのかもしれない。
「だ、だが、黙って殺されるわけにはいかないぞ! 愛するオリビアをひとりにするわけにはいかないのだから……ッ!!」
「待て待て、一旦落ち着いてくれローガン。キャサリンの命令の意図は――」
「死神のお前に敵うとは思えないが……オレにも、『剛力使い』としての意地がある! かすり傷ぐらいは負わせてみせるッ!!」
ついには椅子を倒してその場に立ち上がり、左拳を前、右拳を後ろに引いたファイティングポーズを取るローガン。
(……あれ?)
瞬間。
俺の脳内に、おかしな感覚が走った。
それは、目に見えないところでボタンが食いちがってしまっているかのような、得も言われぬ『違和感』だった。
(この光景は、間違っている……?)
「さあ、どこからでもかかってこいッ!!」
俺の疑念もよそに、ローガンは浅く腰を落とし、臨戦態勢に入る。
ふと。視界の端のキッチンで、オリビアがクッキーを盛りつけているのが見えた。こちらに来るのも時間の問題だ。
ひとまずおかしな違和感は頭の片隅に置いといて。
俺は、ローガンというスパイを『殺す』ために、意味深に右手で顔を覆い隠した。
ジャパニーズ『厨二病』である。
「……ふっふっふっ。虚構のスパイが愛を語る、か。随分と夢見がちなスパイもいたものだな」
「うるさい! 死神のお前には、一生知ることのできない感情だッ!」
「ほう。ならば、その愛とやらをご教授願おうか――この、アームレスリングでなッ!」
「望むところだッ!! ……いまなんて?」
「アームレスリングしよー」
緊張の糸を一気に緩めつつ、俺はトン、とテーブル上に右ひじを置いた。
「え……えぇ?」困惑しながらも、ローガンも右ひじを乗せ、準備完了。
互いの右手を握り合い、俺の「GO!」の合図で腕相撲を開始した。
ローガンはよほど俺の実力を買ってくれているようだが、俺の得意分野は隠密であって力比べではない。
「ぬわ、やられたー」
一秒も競り合うことなく、俺は呆気なくローガンに完敗を喫した。
腕相撲の姿勢を戻し、右手をひらひらと振りながら俺は言う。
「さすがはスパイ十指。ビクともしなかったよ」
「あの……いや、待ってくれ。この勝負は、いったいなんのために……」
「だが!」
ビシッ、と人差し指を立てて、俺は続けた。
「この二年間で衰えたのか、剛力と呼ぶにはあまりにも非力すぎる。俺の右手が折れていないのがその良い証拠だ。お前と同等の力を持つキャサリンだったら、俺の右手を粉砕骨折させたのち、テーブルを割って真下の地面に埋め込ませていたはずだ」
昔、実際にキャサリンと腕相撲をしたときの体験談である。
「しかし、俺の右手は砕けなかった。この結果を見るに、もうお前が剛力使いとして現役復帰するのはむずかしいだろう。かと言って、女に
「し、死んだことに……?」
「そうだ。いまこの瞬間から、ここにいるお前はただの一般人だ。スパイだった頃の記憶も過去もすべて葬り、普通の一般人として隠れて生きろ――約束できるか?」
そう言って、俺はオリビアの淹れたおいしい紅茶を手に取り、ローガンの眼前に差し出した。
一般人との恋に落ちたスパイは、裏切り者として排除される。
言わずと知れたスパイ界隈の常識だが……しかし、組織に貢献しつづけた功労者は別だ。
ローガンは密輸ルートの分散化という大嘘をついたが、フルピースへの罪悪感からだろう、H島での麻薬売買を自主的に監視し続けた。
その結果、H島での麻薬売買は二年前からただの一件も行われていなかった。あれほど盛んだった麻薬売買が一件も、だ。
この功績は計り知れない――そんな多大なる貢献をしてくれた人物を裏切り者だと処罰するほど、諜報部は冷酷ではない。
「オレが、一般人として……」
ここに至って、ようやく俺の……そしてキャサリンの意図を悟ったのだろう。
ローガンは唖然とした表情をゆっくりと感激のソレに変え、手元の紅茶をこちらに伸ばした。
「ああ、もちろんだ……もちろんだとも!」
「ならばよし――それじゃあ、さっそく別の用件に入ろう」
お前の恋人の、おいしいクッキーを食べながらな。
そう言ってカップをカチン、と合わせると、タイミングを見計らったかのようにオリビアがクッキーを持ってテラスに現れた。
「おまたせー、ちょっと時間かかっちゃった! なんか随分と楽しそうに話してたみたいだけど、いったいなにを話してたの?」
テーブルにクッキーを置きながら、オリビアがローガンに訊ねる。
まだ許された事実が信じられないのか。ローガンは口元を押さえたまま視線をさまよわせたのち、震えた声音でこう答えた。
「いや……そう、オリビアの紅茶がおいしいと、そう話していただけさ」
「あら、うれしい! それじゃあ、お代わりも淹れてきましょうかねー」
スキップ交じりにティーポットを取りに戻るオリビア。
堪えきれず、潤んだ目元を拭うローガンに、俺はおせっかいを焼いておくことに。
「死んだからには、死んでも守り抜けよ。あのひとと、この生活を」
当然だ、とばかりにローガンは強くうなずく。
その瞬間、テーブルに二粒の雫が落ちた。
俺は見ない振りをして、冷えた紅茶に再度、口をつける。
ああ、お代わりが待ち遠しい。
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